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アジア読書日記
中国
中国4.0 暴発する中華帝国
著者:エドワード・ルトワック 
 米国の大手シンクタンク所属の戦略研究家による中国論である。著者は、1942年ルーマニア生まれのユダヤ人で、ロンドンで学位を取得し、その後米国で活動してきたという経歴。言わばソロスなどにも似た、大戦中に生まれ、冷戦最中の中欧で育ち、その後(どのような経緯で移住したかは定かではないが)欧米で活躍するという、ある意味波乱の人生を経てきた人物で、その人生自体が興味深いが、同時にその視点や分析も非常に実務的な観点からで、一般の中国論などとやや異なっている。

 まず彼の中国観を見ると、1997年にケ小平が逝去した後の中国は、「平和的台頭」(中国1.0)で国際社会に本格的に登場したが、胡錦濤時代の2009年頃から「対外強硬」(中国2.0)に、そして2014年秋以降「選択的攻撃」(中国3.0)に転換したという。そしてその政策が行き詰るのは必至であるが、次なる中国4.0はどうなるか、そしてそれに対して、日本やその他諸国はどのように対応すべきか、というのが主たる論点である。

 著者の戦略論の基礎にあるのは、自身の戦略研究から導き出した「戦略の論理」、なかんづく「逆説的論理」という見方である。ある意味当たり前なのだが、国際政治の舞台である国家が台頭すると、それに対抗する動きが発生する。特に、その台頭が「大国」の場合は、周辺の小国に対する別の大国からの支援が行われ、結果的にその新興国家の台頭が制約される、という。その結果、「大国は小国との戦争に勝利できない」ということになり、その例として、日露戦争やベトナム戦争が挙げられている。中国については、2.0の対外強硬路線が、ベトナムやフィリピンに対する米国、オーストラリアなどの支援をもたらしたことで、政策転換を余儀なくされたとしている。そしてそれは「選択的攻撃」の中国3.0となっても基本的に変化するものではないことから、著者は結局この中国3.0も行き詰ると見ている。

 こうした中国の戦略的失敗を、著者は日本の真珠湾攻撃と米国のイラク戦争の例を引いて説明している。双方に共通する誤りは、それぞれ攻撃にあたり「現実には存在しないアメリカやイラク(民主主義を待ち望んでいるイラク人)」を作り出したこと、即ち、自らの勝利の幻想を肯定するような楽観的な状況認識に依拠し、現実の相手の姿を見ることができなかった、ということであるとする。そして「戦術的な能力」を持っている(と考える)国家に限り、より一時の激情(あるいは世論)に流され、戦略的な視点を失ってしまうと言う。そして現在の中国も、これらの例と同様、リーマンショック後の世界経済停滞の中で、いっきに存在感を増したという自信と、それにより長らく失われていた(百年国恥)中華帝国の復権が可能であるという高揚感の中で、@カネと権力の混同、A線的な予測、B二国間関係の認識という3つの錯誤を犯すことになったとしている。二国間関係で言えば、米国が中国とのG2体制(元々はキッシンジャーが考案したもの)という考え方を受け入れる余地はない、というのが著者の考えである。その理由について、彼は、独自の概念である、「パラメーター(変わることのない国の性質)」と「変数(時の政権の一時的な政策)」から説明しているが、要は、「米国の存在自体が、日常的に、中国の政治体制を脅かす」「パラメーター」を持っているというものである。更に習近平の「反腐敗運動」自体が、中国共産党を破壊する可能性があることも、中国の不安定要因であるとする。そして最後に、「彼(習近平)に真実を伝えてくれる人材」がいないことが、決定的な錯誤の要因となると見るのである。

 著者には別に「自滅する中国」という著作があるようだが、このように中国への評価は厳しいが、これは私に言わせればやや一面的な見方である。ロシアのプーチンと比較して、同じ独裁者でも、プーチンは国民からの支持獲得を意識して動いているのに対し、中国の指導者は国民からは乖離した存在であることも、その正統性の弱さであるとして、その結果、例えば習近平が何らかの理由でいなくなった際には、大きく政策が変わる不安定性を持っている、としている。

 確かに、習近平は民主的に選ばれた指導者ではないが、それはプーチンも同じである。また中国の一般民衆は、指導者の選択に関わらないし、それが誰であるかにはほとんど関心がないが、他方で、彼が「中華帝国の栄光」を回復してくれれば、それはそれで指導者として歓迎するだろう。また指導者の急な失脚がもたらす混乱や不安定性は、プーチンの場合も変わりはない。そして民主国家アメリカでさえ、トランプによる政策の断絶で、世界に大きなインパクトをもたらしていることを考えると、この問題は別に中国固有のリスクではないこともあきらかである。

 著者はこうした中国観を前提に、最終章で、中国に対する日本の安全保障面での対応に提言を行っている。その要点は、まず中国に脅威を感じる国々との同盟や集団安全保障体制の構築など、ハードとソフト両面での体制構築が必要であるという。そして国土防衛に関しては、大規模な侵略に対しては、安保条約に基づく米国の支援が期待できるにしても、尖閣のような離島に中国などが侵攻した場合、米国が直ちに有効な支援を行うかどうかは疑問であり、そのためには日本は、そうした事態が発生した際に、自ら決断し、軍事的、外交的に直ちに反撃ができるような、軍事的、外交的準備を行っておくべき、というものである。こうした「多元的な阻止能力」と、いったんことが起きた際の果敢な行動こそが、中国の暴発を防ぐ最良の手段と見るのである。

 確かに、現在の中国が、その資金力にものを言わせて、周辺諸国に対する影響力を行使しようという戦略は、そのまま中国に対する尊敬と信頼をもたらすものではない。特に欧州などの対応は、かつてバブル時代に日本に対したように、その金をうまく利用しようとしているだけと考えられるし、アジアの周辺諸国の多くも、中国の資金は利用するが、政治的にその実質的な支配下に入ることがないよう、バランスを取って対応していることは間違いない。しかし、そうは言っても、中国の脆弱性についての著者の見方は、やや楽観的であり、例えば「シーパワー(単純な海軍力)」と「海洋パワー(ソフト面や同盟関係を含めた制海権)」という概念も、前者の脅威を弱めるものではない。そして何よりも、中国の外交自体も、欧米諸国やアジア周辺諸国の反応を見ながら、それなりに強かな対応を行っていると思われる。その意味で、我々が決して中国が「自滅」する、という幻想を持つわけにはいかない。そして、例えば中国による尖閣への侵攻といった武力行為が直ちに起こることは考え難い反面、国際政治のリアル・ポリティックスの中で、それなりの力を増した中国とは、引続き多くの神経戦が繰り広げられていくことは間違いない。この著作は、極めて実務的で、分かり易い論理で貫かれている半面、そうした微妙な国際政治の今後を見通すには、やや不十分である、というのが率直な感想である。

読了:2017年7月11日