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1434 - The Year A Magnificent Chanese Fleet Sailed to Italy and Ignited the Renaissance
                                著者:Gavin Menzies 
 前著「1421」で、明朝時代の鄭和の船団による世界一周航海という仮説を提示した英国人元潜水艦艦長による続編。改めて、鄭和関係者による、各種の世界周航の可能性につき紹介している。
 
 今回の物語は、1424年、永楽帝の死去と共にいったん停止された鄭和らの航海が、その孫であるZhu Zhanji(宣徳帝)のもとで再開されることで始まる。鄭和は再び外交大使に任命され、「野蛮人の国」への航海に出発する。

 まずは、航海術であるが、ここでは彼らが西欧の航海士などに先駆けて、独自の天体観測術(なかんずく北極星を中心にした観測術)と、それに基づき経度・緯度を算出し、自らの位置を確認する技術を持っていたことが紹介されている。そして彼らが、エジプトを経由して、1434年、当時隆盛を誇っていたヴェニスに到達し、「The Year A Magnificent Chinese Fleet Sailed to Italy and Ignited the Renaissance」との副題のとおり、そこでまさに勃興しつつあったルネサンスに大きな影響を与えたとする。

 ここで、どうやって鄭和の船団は地中海に入ることができたのか、というのが当然の読者の疑問であるが、著者は、スエズ運河などなかったこの時代に、既に紅海とナイル川を結ぶ運河があったと主張している。そしてナイルを遡行してから穏やかな地中海に出て、それを越えるのは彼らにとっては簡単なことであったという。ダルマチアなど、バルカン半島の経由地となったであろう土地には、アジア系のDNA保有者が多い、というが、こうした人々は、鄭和の船団が連れてきたアジア系の女性奴隷がそれらの土地に定着したからであるとされている。

 そしてヴェニス。まさにメディチの支配が固まりつつあったこの町に、鄭和の配下に率いられた一行は大きな影響を及ぼすことになる。ルネサンスは、「ギリシア・ローマ文化の復興」というのが通説であるが、著者は、これは西欧優先史観であり、むしろ中国・東洋文化が大きな影響を与えたことを認めるべきであると考えている。そしてヴェニスの繁栄を象徴するDodge Houseに描かれた世界地図。これが描かれたのは、コロンブスがアメリカを「発見」する以前である。ここにアメリカが描かれているのは何故なのか?こうして改めて著者は、これが鄭和を通じてヴェニスが入手した地図がコピーされたものである、という仮説の検証に入る。欧州には同様の世界地図が至る所に残されているとされる。

 ここで著者は、この時代の二人の事物を引き合いに出している。それはパウロ・トスカネリとヨハン・ミューラー(レジオモンテナス)の二人。前者はイタリア人の地理学者、数学者、天文学者で、コロンブスに地球が丸いことを教えると共に、それを示す地図を彼に渡したとされる。後者はドイツ人で、天文学を研究し、経度や緯度を正確に測定したとされる。その二人が、依拠したのが、「中国からの大使」がもたらした数々の資料であったというのである。更にイタリア・ルネサンスを代表する二人の巨匠、バティスタ・アルベルティやダ・ヴィンチも中国の影響を受けたとされる。前者については、彼の建築について記した書物の中にある、建物の高さを計測する手法と全く同じものが、彼以前の時代に出た中国の書物に描かれているという。そしてそのトスカネリが、1434年当時フィレンツェに滞在していたローマ法王が、ヴェニスで中国からの大使と面談した、という手紙を1474年に書いているという。彼はそこで、この大使から、「地球が丸い」ことや「西に航海をすると中国に到達できる」ことなどを学んだと記している。もちろんこれはコロンブスのアメリカ大陸「発見」以前のことである。また後者は、何よりもガリレオに先立ち、地動説を理論的に証明しており、月の満ち欠け観測から経度を測定する手法はコロンブスが彼から学んだとされている。

 著者は、この中国の大使達が、ヴェニス経緯、欧州にもたらしたものは、地図や航海術、それを支える天文学に留まらず、数学、印刷術、芸術、建築、鉄鋼精製、軍事技術等、様々な分野に渡っているとして、ルネッサンス期の夫々の分野の叙述が、それ以前に書かれたとされる中国の古典で紹介されていることを次から次に示していく。そこで引き合いに出されるのは、アルベルティやダ・ヴィンチといったルネサンスの万能人の発明や発見である。例えばアルベルティの有名な著作に書かれている建設理論や建設物の高さの計測方法などは、彼以前の次代の中国の古典に同じ記載がある。あるいはダ・ヴィンチの「発明」とされるギア・システムやそれを応用した工作機械や船等も、同様に中国の古典で既に紹介されている。ダ・ヴィンチについては、その他、パラシュートやヘリコプター、大砲のような軍事技術、印刷術等、多くが同じ源泉から模写されたのではないかとされる。彼ら以外のルネサンス期の人物とその「発明」も含めて、著者はそれらが西欧ルネサンスの「発明」ではなく、彼らが中国からの使節を通じて習得したに過ぎないものであるとするのである。

 同様の項目リストは、更に広がる。絹の織機やコメの生産技術。後者は、中国がもたらした灌漑技術により、自然条件が類似しているポー川流域に拡大したとされる。灌漑技術の大規模なものが運河構築技術であるが、これも揚子江・黄河流域で古代から中国が発展させてきた技術(特に通常時と雪融け期で推移が大きく変わる問題への対策としての堰の構築等)が、この時期に本格的に欧州に伝えられたとされる。火薬が中国の「発明」であることは通説であるが、それを利用した武器や、鉄鋼精製技術も、この時代の伝搬である。そしてルネサンスの三大発明の一つである印刷術さえも、グーテンベルグの技術は、中国のそれをまねたものであるという。この時代、明らかに中国に比較して欧州は「野蛮人」の国々であった。しかし、こうした智慧が中国から伝搬された直後に突然中国は長い鎖国に入り、その間に西欧はこの中国からの「贅沢な贈り物」を活用し、世界の支配者となっていった、というのが著者の結論である。

 こうした本論の後に、直接本書に議論と関係のない2つの挿話―米州大陸や豪州、ニュージーランド等での中世の中国難破船調査と、それが巨大津波によりもたらされたという説と、スペイン・ポルトガルによる、中南米大陸の征服と植民地化が、スペインにおけるコンキスタドールの闘いの延長として行われたという議論―が紹介されている。前者については、古代から米州や豪州等の太平洋沿岸に中国船が到達していた、ということの証左として既に「1421」でも紹介されていたが、ここではそれが「大地震(彗星の衝突という説もある)に伴う大津波」により難破した、と主張されているのが新しい議論である。後者は、コロンブスによる「アメリカ大陸発見」の後日談ということであろうが、著者は、中国船が往来していた時期は、まさに「平和的な」交易が行われていたこの地を、中国がもたらした近代兵器を利用した西欧人が残虐の限りを尽くし植民地化した、という皮肉を言いたかったのだろうか?

 前作「1421」と同様、この作品も、近代西洋の一般的な議論を大きく転換させる仮説で、その意味ではたいへん刺激的である。同時に、そうした議論は、常に既成のアカデミズムからは多くの批判に晒される。その議論のどちらに賛同すべきかは、素人の私には判断が難しいというのが、正直なところである。しかし、そうした新しい見方があるということ事態が重要で、それが最終的に学問的に認知されるかどうかは、どうでもよい。その意味では、前著と同様、この作品も、「壮大なフィクション」として読んだ方が面白い。中国の使節団が、幾多の苦難を乗り越えヴェニスに到達し、そこで中国の各種の文明を伝播し、それが欧州で燎原の火が広がるように、新たな発展を遂げる、というのは、なんともロマンチックな夢想ではないか。

 他方、これはよくある西欧文明と中国文明の比較で、著者は、当時の中国文明が先進的であったこと示すため、西欧のいろいろな「発明」と類似した記載を、中国の古典や研究書の中に必死で探している。ただ、著者が行っているのは、あくまで中国との比較であり、同じことは、実は中国以外の古典、例えばサンスクリットやアラブ、あるいは日本の古典等々にも出てくるものもあるのではないだろうか?そして偶々中国は、西欧の研究者も多いことから、こうした「類似商品」の発掘が容易だったということではないか?構造主義ではないが、人間の発想は、場所が異なってもある類似性を持っており、あとはそれが記載されたものが残っているかどうかの差でしかないのではないか?その中で、このように中国を強調することは、現在においては、現政権による「中国の夢の復権」を支える有力な議論となり、極度の政治性を帯びることになる。前著の邦訳はすぐに出版されたにもかかわらず、こちらが2008年の出版以降未だに邦訳が出ていないのは、もしかしたら、その頃急速に悪化していた日中関係の緊張から来る中国への反発が要因であったのではないか?そんなことも考えられる作品である。

読了:2017年12月25日