習近平と永楽帝
著者:山本 秀也
習近平と永楽帝を比較ながら、習が「中華帝国皇帝」となる野望を抱いている姿を論じた新書である。そもそも産経新聞編集員兼論説委員ということで、中国への批判的・警戒的姿勢は予想できたが、それ以上に著者は中国政府から「ペルソナ・ノングラータ」として追放された実績を持っているということから、その姿勢は筋金入りである。
永楽帝については、以前に読んだ、英国人元潜水艦船長による鄭和の大航海を扱った2冊でおなじみであるが、そこでの姿は、元を北方に放逐した後、北京に遷都し、朝貢貿易拡大のために鄭和を送り出すが、莫大な費用を要して建築した紫禁城炎上により落胆し、鎖国に引き籠ってしまう悲劇の皇帝であった。しかし、ここでの姿は、叔父である明朝第二代の建文帝との激しい権力闘争の末に皇帝の座を奪取し、その後建文帝一派に壮絶な粛清・処刑を行った冷酷無慈悲な暴君である。著者は、そうした暴君に、現在の習近平を重ね合わせながら、彼の危険性をこれでもかこれでもか、と示していくことになる。
著者が両者を重ねる際の共通項は、以下の5つである。
@権門の出身という血統の良さ
A権力掌握前の若年〜中年期の苦節
Bレジティマシー(正統性)を証明するため、政権の創設者に範を取りつつ、前任者を越える政治実績を示すことを通常以上に求めた(あるいは迫られた)立ち位置
C「法治」を掲げた政敵排除や国内統制のありかた
D政権の威光を高めるための対外拡張とアジア秩序構築への意欲
以降、夫々のポイントにつき議論を進めていくが、まず@については、永楽帝が、明の開祖である洪武帝の四男、習近平は、革命の元勲である習仲勲の二人目の妻との間の長男(父親の一人目の妻との間に、別に4人の子供がいるという。因みに弟は習遠平、というのは笑わせる!)という血統であることから、その通り。そしてAについては、永楽帝が、甥に当たる第二代の皇帝、建文帝により粛清の対象となったものの、逆に決起し、建文帝から権力を奪取(「靖難の変」)するということで、「逆境」であった期間は数年であるのに対し、文化大革命により父親が失脚し、自身も15歳で、陕西省(首都は西安)の寒村に一人で下放することとなり、そこで6年9ヶ月、「横穴式住居に住み、乾いた農地を駆け回る生活」を送ることになる習近平は、より過酷な苦節を味わったといえる。
Bについては、永楽帝が即位前に、北方に派遣され、そこで元の勢力を放逐する武勲を立てていたのに対し、習近平は、取り立てた功績もなく、どちらかというと、太子党(江沢民)と共青団(胡錦濤)との妥協の産物として、「無害」でありそうなことから選別されたことから、永楽帝以上に「正統性」と実績をアピールする必要があったことは間違いない。永楽帝は、それでも建文帝より権力を奪取した後、建文帝の治世をなかったことにして「正史」から抹殺したり、自身を二代目の皇帝として「太宗」の称号を名乗ったりして、その正統性を誇示したということである。ただ建文帝の遺体が、攻撃され炎上する王宮で見つからなかったことから、永楽帝の正統性に傷がつくと共に、「義経伝説」のように、建文帝のその後には色々な説が流布された、というのは面白い。
永楽帝のような「クーデターによる政権奪取」といった劇的な事件を経ての権力奪取ということがなかった習近平が、その正統性を確保するのは大仕事であったことは間違いない。青年時代の下放で、正規教育をほとんど受けず、両親の名誉回復後、名門精華大学に入学したものの授業の質は低く、更に修士課程を飛ばして精華大学人文社会学院で「法学博士号」を得ているが、これも「学部時代と専攻がまったく異なる点を含めて、この博士号の授与に至った経緯が大いに疑問視されている」ような習近平は、まさに党書記の地位を得てから、自らの実績を示すことを余儀なくされたのである。彼が、精華大学を卒業して、中央軍事委員会で国防省の秘書官としてキャリアを始めたのは、名誉回復された父親の威光があったとされるが、その後は、2010年10月に、中央軍事委員会副主席として中央政界入りするまで、地方の党務を続けることになる。またこの地方行きに前後して、最初の結婚をするが、妻の英国留学中に離婚することになったという。これらの点は、著者は、習近平の英語力を含めた国際感覚の欠如の理由とも指摘している部分であるが、これは、結果的にスターリン等と同様、国内の泥臭い人間関係の世界で生きることで、その後のキャリアを重ねることに成功した、と言えるのであろう。しかし、その地味な経歴は、中国の指導者としてのカリスマ性を示すには明らかに不十分である。
こうした正統性の欠如を埋め合わせるために習近平が利用したのは、言うまでもなくCの「法治」を掲げた「汚職腐敗」の徹底的取締りと、それによる政敵排除という戦略であったが、著者はその背後に、「完膚なきまでの敗北を経験した紅衛兵のリベンジ(復仇)という、非常にゆがんだ経験総括が深層にあるためではないか」と考えている。そしてそれ以外にも、例えば毛沢東の権威や、「大一統(王による天下の統一=台湾統一)」という中華思想、更には尖閣問題などでの反日(日本による国有化が、まさに習の党書記就任直後のタイミング)等々、自らの正統性確保=権力掌握のために使えるものは何でも使っていくということになる。どの国の指導者もそうであるが、報道統制は厳しい中国とは言え、メディアの視線が注がれている状況では、どうしても国内向けの「ポピュリズム」的手法は必要であり、それが露骨に現れたのが、そもそも政治的基盤の弱い習の政治手法であったと言える。確かに、この「汚職腐敗」の徹底的取締りは、格差意識が強まる民衆のルサンチマンを利用するということで、ある意味文化大革命にも比肩される有効な手法であった。しかし、自らにも場合によっては跳ね返る可能性のあるこの手法を、どのように自身とその関係者に向かわないようにさせるか、そして多くの支配層が汚職に関与している中で、それをどこで終息させるかというのは簡単ではなく、今後の習の手腕が問われるところであろう。
この権力掌握の手法に関連し、著者は、永楽帝を含めた中国歴代の支配者による政敵粛清とその残虐な手法について延々と説明しているが、ここは特に気持ち悪い部分なので省略する。ただ、こうした世界を紹介することで、中国に対する読者の印象を低下さようという著者の意図は十分感じることができる。この辺りも、中国から「ペルソナ・ノングラ−タ」に指定された著者の怨恨の産物であろう。また習が、「汚職腐敗」摘発に使った党の中央規律検査委員会というのは、既往の治安機関とは別の、ある意味、党の私設警察であり、永楽帝が宦官を使い組織した情報機関である「東廠」という組織と類似性を持つというのは、それなりに面白い視点である。まさに、それにより、治安機関を牛耳っていた周永康の摘発が可能になったという。
そして最後が、Dの「政権の威光を高めるための対外拡張とアジア秩序構築への意欲」である。永楽帝については、私が親しんできた鄭和の南海遠征以外にも、安南(ベトナム)出兵、遼東半島での倭寇平定、そして5度に及ぶモンゴル親征といった「対外的なパワーの拡大と国家の安全保障政策」が紹介されている。これに対する習の野望は、言うまでもなく「中華民族の偉大な復興」を成し遂げるための、台湾統一を含めた地理的空間(清の最大版図を想定?)の回復、そして日本も巻き込まれている海洋覇権の奪還である。後者については、既にいろいろなところで議論してきたので、ここでは繰り返さないが、言うまでもなくこれは「国際社会において普遍的な『法の支配』と、華夷秩序に基づく『天下』の構築を目指す『大一統』との対立」である。そして習が、自らの権力基盤を固めるための突出した功績を求める「焦慮」に駆られているとすれば、彼がここで「法の支配」を認める可能性はほとんどない。それを認めることは、明らかに彼の「正統性」を打ち砕くことになるからである。従って、習にとっては、中華帝国復権に向けての疾走は、今や立ち止まることのできないものになっている。中国の経済力が飛躍的に高まっている現在、そうした習近平の立ち位置を考えると、やはり安全保障面で、日本を含めた周辺諸国が最後の拠り所とできるのは、外部の軍事力だけれはないか、という気持ちを抑えるのは残念ながら難しい、というのが正直なところある。
露骨な著者の反中国的な姿勢は鼻につくが、他方で、その中国の古典や歴史に通暁した議論はそれなりの説得力を持っているのは確かである。
読了:2018年2月3日