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アジア読書日記
中国
中国ナショナリズム
著者:小野寺 史郎 
 中国では、先日、第13期全国人民代表大会(全人代)が終了し、習近平政権の第二期が始まった。全人代では、前々から予定されていた、国家主席の任期制限をなくした憲法改正案がほぼ満場一致で可決され、その終了にあたり、その習近平が今後の戦略について長々と演説を行った。その中では、「中華民族の偉大な復興」や、「(台湾を念頭に置いた)ひとつの中国」、「中国の特色ある社会主義」等が改めて協調され、大国となった姿が強調されることになった。

 こうした中国の「ナショナリズム」の変遷を、19世紀末まで遡り、通時的に分析していったのが本書である。そもそも社会主義は、「コスモポリタン」であることが原則の思想であるが、実際には、国家建設の過程で、このナショナリズムが利用されてきたのは、中国も例外ではない。他方で、このナショナリズムが、国民の下からの動きとなり暴走すると、時として過大なほどの強権で抑圧してきた。そうした中国におけるナショナリズムの二面性がせめぎ合う近代史が、ここでの主たる課題である。

 まず著者は、清の末期、列強による中国進出が強まった時期が、中国近代のナショナリズムの形成期であったと見る。それまでの中国は、皇帝を中心としたアジア型のマンダラ国家で、近代の国民国家的なナショナリズムが発生する契機はなかったが、西欧列強や日本の進出により、これが生まれてくる。即ち、ナショナリズムというのは、外部からの敵の存在を前提にしているということが理解できる。欧州でも、神聖ローマ帝国時代は、小さい領邦国家が犇いてはいたため、固有のナショナリズムが生まれる余地はなかった。しかし、フランス革命を契機とする国民国家誕生と共に、それが芽吹くのであり、中国の場合は、19世紀の半ばから始まる列強の進出により初めてナショナリズムが誕生していくことになる。そしてまずは清末期の康有為らによる「知識人主導・西洋近代的・理性的手段」での「富国強兵」政策という「上からのナショナリズム」が誕生することになるが、それが「下からの民衆的・伝統的・感情的な『野蛮の排外』を否定したことから、国民の底辺からの「ナショナリズム」を吸収することができなかったと、著者は見る。こうした上からの「近代化政策が基層社会に浸透するのには、多大な困難を伴い」、そのために、求心力を失い、列強による分割に繋がっていったという訳である。

 清の改革には失敗し、日本に亡命した梁啓超等は、引続き近代化の論陣を張ることになるが、そこでは中国の国名や国史がないことが指摘されたという。それまでは、「中国」というのは「漠然とした文明圏を指していたが、それが「一国家の名称」となり、また「個々の君主や王朝の歴史を超えたネイションの歴史」を作り出す努力が続けられることになる。更に、この時期から「領土の一体性」が議論されるようになり、それが新たな教科書での地図の中で強く意識されていく。それとの対比で「領土の喪失」が浮かび上がり、現在まで続く「中国の領土問題に対する敏感さ」の一因となっていく。更に、この時期、政変で犠牲になった知識人層(維新六君子)を追悼する「烈士記念日」や、政府の体外的な弱腰が示された事件についての「国辱記念日」の制定といったナショナリズムが高まることになる。興味深いのは、そうした一連の「愛国主義的」活動は、日本の対応を模倣したものであった、という点で、明治維新後、日本が中国を含めたアジア諸国の改革派のモデルとなっていたことを示しているのである。

 徴兵制を含めた国民の「尚武」教育も、日本の影響から主張されたが、中国の場合は、戸籍などの行政制度の不備と、人口過剰により兵士の数だけは募兵制で事足りた、ということで「結果として安定した形で義務教育や徴兵制、戦死者の公的祭祀や遺族の援護制度を実施することができなかった」という。

 1911年の辛亥革命は、立憲派に対する革命派の勝利であったが、ここでは革命派による「より広い民衆を対象とした宣伝活動」が奏功したと著者は論じている。そこでは満州族に対する漢民族の復権といった民族主義的な主張が、より単純化された形で示され、また終末論的な言説も利用され、その結果として革命の過程で満州族に対する迫害も頻繁に発生したという。しかし、革命後リーダーとなった孫文を始めとする「南方出身の漢人革命家」たちは、「五族共和」を唱えることで、「中国のエスニック的な複雑さを身近な問題として感じることはなかった。」そしてチベット等の「非漢人居住地域」への漢人官僚派遣といった同化政策をとることで、それらの地域の不満を高めていった。これは、辛亥革命が成就した時点から、新たな中華民国が再び「知識人主導・西欧志向・理性重視」の国家建設を目指したと見做されるが、その結果「民衆の願望や世界観」をむしろ警戒し、抑圧する方向に舵を切っていったとされる。これは国語の統一や識字率引上げといった上からの改革が十分に進まなかった要因にもなる。そして孫文を引き継いだ袁世凱と旧革命派の対立激化と、二十一カ条要求など日本による干渉が強まる中で、「新国家に対する無条件の肯定という社会的な雰囲気が失われる」と、再び非合理な感情への訴えが力を増してくることになる。その二十一カ条要求と続く五・四運動は、それまでの親日的国民感情が、日本を「主要敵」と見る感情に取って代われる転換点となると共に、その後は、政府の「文明的・理性的な上からの公定ナショナリズム」と、民間主導の「暴力や感情的要素を含むナショナリズム」の齟齬が顕在化していくことになる。それは第一次大戦後の「国際秩序や世界主義・平和主義を欺瞞と批判する」ことで、左右の運動に共通し、そうした「現行の国際秩序や法体系自体に対する強烈な不信感は、現在の中国にも通じる問題となっていった」という著者の指摘は興味深い。

 蒋介石の実権掌握、国共合作から、上海クーデターによるその解消と内戦の開始、そして日本による侵略の本格化という時期を通じ、中国ナショナリズムはより強固なものとなる。そこでの最大の特徴は「共産党の主導による大衆・労働者に対する組織化と動員」であり、「ナショナリズムに基づく運動が知識人を越えて広まった」ことである。しかし、それは同時に、「列強とのプラグマティックな交渉や利害調整も必要」と考える国民党の政治指導者や知識人と民衆のナショナリズムの高まりとの隔たりを深めることになる。そして満州事変以降は、国民党と共産党の統一戦線形成と日中全面戦争の開始という形で、日本が中国ナショナリズムの最大の標的となる。抗日民族統一戦線の形成に際して、共産党が、「国際主義と愛国主義は矛盾しない」との立場をとったこと、そして「民族主義」ではなく「愛国主義」という言葉を使用したこと、及び民俗的慣習や民間信仰(毛沢東の個人崇拝!)も利用しながら、農村部に支持を浸透させたことが特徴的である。これが、日本の敗戦後の内戦を経て、共産党の政権樹立に繋がっていくのであるが、特に前者の「愛国主義」は、その後の冷戦期、中ソ論争を経て、現在の中国共産党に受け継がれていったことは重要である。

 中華人民共和国成立後の戦後史の中での中国ナショナリズムの変遷は、「人民」概念による「かつてない規模で基層社会の人々を政策遂行のために動員」し、それが文革の混乱となっていたこと、そしてその後の1970年代に入りアメリカや日本との関係改善の一方で発生した「領土・領海問題」、そして80年代に入っての日中歴史認識問題と「少数民族」問題の国際化」等を抑えておけば十分であろう。ここでのポイントは、「代議制民主主義や基本的人権の考えを否定する論理としてナショナリズムが動員されるという構図」が、そのまま現代に受け継がれてきているということである。これが、「以後の中国での民主主義や人権をめぐる冷静な議論を妨げる要因」となる。特に天安門事件以降の締め付けの中で中国政府がとったのは、「民族(=中華民族)」と「愛国」の再度の強調であった。そしてそれは、現在の習近平政権にも基本的受け継がれている。「中国政府は西欧由来の人権や憲政が普遍的な価値観ではないと強く反発する一方で、それに替わるような普遍性を持つ価値、つまり国家主権やナショナリズムを超える価値を示すことができていない。そして国家主権もナショナリズムも、それ自体が西欧を中心とする近代交際社会の産物であることは言うまでもない。」

 結局のところ、中国が国内統一と国際的な存在感のアピールのために、西欧近代の国民国家と同様に、ナショナリズムを利用せざるを得ない状況はこれからも続くことは間違いない。そしてそうしたナショナリズムは、容易に他国のナショナリズムと衝突する。そのナショナリズムを生み出した西欧国民国家は、現在、そのナショナリズムを超える地域統合の努力を進めているが、他方でその反動としての地域主義の盛り上がりという遠心力ももたらしている。そして統一国家形成の過程で、同様の多民族国家であることを宿命付けられた中国も、常に国内にそうした遠心力を抱えている。この国のナショナリズムの今後を見る上で、こうした国内要因は常に注意を払う必要がある。その動向次第で、この国はいつ何時、対外的な強硬策に転換することがあり得るのだから。そしてその場合に、日本は標的とするには手ごろな対象であることは確かであるのだから。

読了:2018年3月20日