アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
アジア読書日記
中国
モンゴル人の中国革命
著者:楊 海英 
1964年、内モンゴル・オルドス高原生まれの静岡大学教授による、内モンゴルでの民族運動と共産主義革命の内幕を描いた作品である。

 モンゴルというと、まずは独立国家としてのモンゴル人民共和国を想起するが、ここで取り上げられているのは、中国領となっている「内モンゴル」であり、この地域が、満州事変から抗日戦争、そして戦後の国共内乱から、中国共産党の支配下に入っていくまでの歴史を、著者と所縁のある人々の運命を含めて描いている。もちろんモンゴル人民共和国自体も、当時のソ連と中国の影響下で、戦後社会主義国家として成立したので、その過程では、自由主義勢力と社会主義勢力の権力闘争があったのだろうが、この外縁部に広がり、中国の影響をより強く受ける内モンゴルの場合は、日本軍、国民党軍、共産軍が入り混じって、遥かに複雑且つ壮絶な権力闘争と、そこでの人間ドラマが繰り広げられたようである。著者は、そこに埋もれた歴史を、まさに自分自身に所縁のある人々へのヒアリングも含めて掘り起こそうとしている。それは、まさに自らの近い過去を探す旅であり、またそこで道半ばで倒れていった縁者への鎮魂歌でもある。

 中国河北省、山西省から北に広がる地域は、古くから12世紀のチンギス・ハーンに代表されるモンゴル系遊牧民が住み、時として「匈奴」として中国本土へ侵入し、中国の主流である漢民族は,長城を建設するなどして、それに対抗してきた。14世紀末に、明の永楽帝が、元を駆逐して、元が建設した北京に遷都して以降、この地域へのモンゴル民族の侵入こそなかったが、その他の周辺地域である新疆ウイグルやチベット等と同様、中国本土とは異なる文化・民族が住む地域として、そこをどのように統治していくかというのは中国の政権にとっては常に大きな課題であった。そして1930年代、満州国を建設した日本軍も、この地域に大きな影響力をもたらすことになる。即ち、中国への進出のため、こうした周辺の民族への政治的・軍事的支援を行うことになるのである(満州国の約3分の1は、内モンゴルの草原であったという)。そうした中、この地域の人々は、国民党、共産党そして日本軍の影響の下で分裂して、同じ民族が壮絶な闘争を繰り広げることになるのである。

 著者の記述は、極めて細部に及び、量的にも膨大なので、詳細は省略するが、1930年代以降、日本軍の支援により、この地域から多くの軍人が、満州国軍の幹部養成機関や場合によっては、そこから日本の陸軍士官学校に留学していったという。彼らは、「伝統的な騎馬軍の優勢を日本式の重火器と結びつけたことで、優れた戦闘能力を誇り、日本軍と共に北部中国(華北)の攻略で数々の戦功を立てた」。しかし、1945年、日本軍の敗戦撤兵後、満州国とモンゴル自治共和国という日本軍が残した近代国家につき、「独立建国ないしはモンゴル人民共和国との統一」が目指されたものの、「ヤルタ協定」では、この地域は中国に組み入れることが合意される。その結果、戦後は、こうした民族独立等を目指す勢力と、国共其々の影響下にある勢力が入り混じった権力闘争が行われることになったのである。そして最終的には共産党軍が国民党軍を駆逐することになるが、この地域において軍事的に主要な役割を果たしたのは、「騎兵第五師団」と呼ばれる日本式の訓練を受けた人々(別称「日本刀を吊るした奴ら」)であったが、共産党軍は、彼らは日本軍の影響下にあったとして決して警戒を緩めなかったという。

 またこのオルドス高原という地域は、著者によると、戦略的な重要性を持っていたという。長安(西安)から黄河を渡るとすぐこの高原地域に入り、北京へも近い。そして西に向かうとそのままシルクロードに入ることから軍事の要衝で、更に豊富な塩や羊毛といった資源を有していたという。1935年10月、著者に言わせると「不名誉な逃亡を、『北上抗日』や『長征』との美談に作り変え」、オルドスに近い寒村、延安に落ち延びてきた毛沢東らが、国民党が抗日戦争を戦っている時に、ここで生き延びることができたのは、こうしたオルドスの資源と、そして共産党が持ち込んだアヘン栽培によって得られた資金があったからであるという。そしてこうした共産党の政策が、豊かだったオルドスの資源を蝕んでいったと回顧されることになる。

こうして、この作品は、@「中国共産党が解放したモンゴル史」という官製史観に対し、モンゴル人が如何に中国共産党による併合に抵抗したか、A抗日戦争では前面に出ず、むしろ国民党軍による抗日を妨害していた共産党が、モンゴルでの「静養」を経て、如何に反攻に転じていったかという「共産党のもう一つの成功物語」という裏話、そしてB「中国革命の成功が、そのままモンゴル人の受難を意味していることを明らかにする」ことを主目的とすることになる。以降、こうした本論に関連した個別事象と、それ以外の興味深い逸話等を抜粋していく。

日中戦争以前の、この地域を巡る面白い逸話は、大本教の出口王仁三郎の出現である。彼はもともとこの地域で生まれたが、母親の日本人との再婚で6歳の時に日本に移り住んだという。その後、出口ナオに従い、大本教の布教に努めるが、日本での弾圧を受け、1920年代初期に、「生まれ故郷」内モンゴルに移り、そこで、日本軍部内の右翼勢力とも連絡をとりながら、「チンギス・ハ−ンの再来」と嘯きながら、この地での布教を行った。しかし、結局官憲に捕えられ、一旦死刑判決を受けるが、その後日本に強制送還されたという。かつて高橋和己の「邪宗門」で壮大に描かれたこの宗教運動の前史の一部が、この地にあったというのはたいへん面白い。

この1920年代の内モンゴルでは、中国の支配に対抗する民族独立運動が盛り上がっていたが、著者は、運動を、「特王」と「ムグデンボー」という二人の指導者を中心に追いかけている。独立運動は、関東軍の影響力の拡大と、南京の国民党政権との間で揺れ動くことになるが、それとは別に、この時期モンゴルを放浪した日本人が現地の乳製品からヒントを得て開発したのがカルピスであった、というのは面白い話である。この地域は、1945年の日本敗戦まで、「モンゴル自治邦」として日本の統治下に入り、それなりの近代化が進められたという。

 1945年の日本軍撤収後、まずこの地に侵入してきたのは、ソ連・モンゴル人民共和国連合軍で、この支持の下で、内モンゴル人民共和国臨時政府が成立する。しかし、ヤルタ協定の秘密条項を受けて、この地域の主権は中国とされる(「スターリンは対日出兵の条件として内モンゴルを中国に売り渡し、日本の北方四島を自国に併合するのをアメリカとイギリスに認めさせた」)。モンゴル人民共和国元帥のチョウバルサンが、ムグデンボーを団長とする内モンゴルの代表団に、「中国共産党と協力して革命運動を続けて下さい」と語ったという現在の中国共産党の公式記録は、著者によると後日共産党により作られた虚言であるという。そしてこの代表団がウランバートルにいる間に、中国共産党の雲沢という男が、日本統治時の政権幹部を対日協力者と非難し、この臨時政府を乗っ取ったという。

ただ実際は、1946年からの国共内戦で、この地域も双方の間を揺れ動き、同胞が敵味方に分かれて殺し合う事態が発生した。徳王やムグデンボーは、反中国の立場から民族の独立あるいは自治を目指すが、結局前中国での共産党の勝利と共に、この地域の共産党支配も確立する。徳王は一旦ウランバートルに亡命するが、その後中国に引き渡され客死。ムグデンボーは1950年に銃殺されることになる(ムグデンボーは、2002年に名誉回復される)。

続いて、著者は、もう一人、この内モンゴルを代表する英雄で、チンギス・ハーンの末裔とされるラドナバンサル(中国名「奇玉山」)の生涯を辿りながら、共産党によるこの地域の支配が進む様子を描いている。

1930年代、延安に拠点を移した共産党員がこの地域に出没するようになるが、彼らは、地域の有力者と、モンゴル人社会の古い伝統である義兄弟の契りを結び関係を深めていく。こうした義兄弟の契りを結んだ中国共産党関係者は、幹部級が結構多く、中には毛沢東の弟、毛沢民や、習近平の父親、習仲勲もいたという。後日、中国共産党は、公式文書で、こうした対応が、この地域に共産党の影響力を浸透させるための「単なる利便的方策にすぎなかったこと」を認めているという。また毛沢東は、1935年12月に、「内モンゴルの独立を支持する」等と明示した「三五宣言」を発表しているが、これも同様で、毛沢東には「中国人移民をモンゴルから撤退させ、中国とは連邦関係を締結する」などというつもりは毛頭なかった。そして、それはチベットや新疆ウイグルについても同じである。「約束を守らないのは、中国人の文化である。」そしてそれを信じたモンゴル人が馬鹿であった、というのが著者の結論である。

こうした事態を冷ややかに見ると共に、共産党によるアヘン栽培の拡大を苦々しく感じていた奇玉山は、国民党軍の少将となっていたが、共産党とも連絡を取りながら、オルドスの自治権拡大のために奔走していた。1945年、日本の敗戦、撤兵後は、オルドス内での国民党支持者と共産党支持者、あるいは親アメリカ派と親ソ連派の分裂と抗争が深まる。僧を装った共産党スパイの地域への潜入等も詳細に語られる。そうした混沌とした情勢の中、1947年9月、北平(北京)の国民党司令部からの帰途、奇玉山は、破壊された鉄道で立ち往生しているところを八路軍に逮捕され、その後は、共産党司令部の捕虜として、意に沿わぬ多くの声明を発することとなり、そして国境内戦の終了と共に、共産党による内モンゴル制圧の犠牲となるのである(1951年6月、死刑判決、直ちに処刑)。1950年、奇玉山亡き後のオルドスの民族主義者が集結し、共産党政権に対し、大規模な反乱を起こすが、それを待ち構えていた共産党軍の前に全滅し、ここにオルドス民族主義の自治運動は潰えることになる。同じ頃、チベットや新疆ウイグルでも同じ事態が進行する。

著者の父親は、八路軍の軍人で、ここで描かれている内モンゴルの民族運動を共産党の立場から弾圧したということで、著者は、犠牲者の家族、末裔等に、悔恨の情を持ちながらインタビューを重ね、この作品を完成している。その際に、自らのそうした立場を正直に告白できなかったことを改めて悔いている。そうした個人的感情が、故郷の民族運動を、とことん記録に残そうという原動力になっていることは間違いない。

歴史は常に勝者の歴史であるが、その引力から逃れた立場の人間は、それに拘泥されない歴史を紡ぐことができる。その意味で、内モンゴルという、世界史全体の中ではあまり注目されることのない地域の、権力とは反対の立場から書かれた記録はたいへん貴重である。チベットや新疆ウイグルという、中国の中でもより注目されている地域の歴史と併せて、この国の民族運動の原点を知る意味でも、また共産党政権が権力奪取の過程で、こうした地域の民族運動を如何に制圧していったかを知る意味でも、たいへん刺激的な作品である。

読了:2019年5月9日