香港はなぜ戦っているのか
著者:李怡(リー・イー)
この前に読んだ中国本では省略した、中国本土に対する香港の闘いの記録で、邦訳は、1941年生まれの元共同通信記者である坂井臣之助が行っている。著者の李怡(リー・イー)は1936年生まれの評論家。この本は、彼が蘋果日報(アップル・デイリー)のコラムに2007年から2013年にかけて執筆した評論をまとめたもので、原著は2013年末の出版である。2019年、香港での民主化運動が盛り上がったこともあり、やや古い作品ではあったが、その民主化運動に体現された香港人の想いを知ることができるということで翻訳が進められたということであるが、その後の民主化運動への弾圧の中で、まさにこれが掲載された蘋果日報(1995年創刊)創業者の黎智英(ジミー・ライ)や張剣虹・最高経営責任者(CEO)、羅偉光・編集長、関連法人3社が国安法違反罪で相次いで起訴され、当局に一部の資産を凍結されることになる。その結果、銀行口座への入金ができなくなり、従業員の給与支払いも難しい状況になったことから、昨年(2021年)6月、この新聞は廃刊され現在に至っている。その意味で、まさにこの本は、香港民主派を支持する略唯一の日刊紙であった蘋果日報のかつての栄光と最後の闘いを象徴する作品となった。今や、香港の民主化運動を語るのは虚しい、と何度も繰り返してきたが、この本については、著者が香港人として、その闘いを続けてきたということもあり、ここでは少し立ち入って見ていくことにする。
香港「本土意識」の台頭についての歴史が、この評論の通奏低音となっている。もともと香港の人々は、英国植民地時代及び返還後の初期は、「市民は法律の保護下での自由競争や安定した生活・仕事を享受する以外に、生活は中国の昔から伝統のある文化・習俗及び南方人の言語(広東語)と生活様式を保つ」以外は、「特段の政治意識を持つことはなかった」という。もし政治意識があったとしても、それは大陸と台湾の関係や大陸の革命・抗日・新中国の建設に関連するもので、「本土(香港)の利益を勝ちとる」といったものではなかった。そして、植民地支配者であった英国も、それに干渉することはなかったことから、香港人は、英国に対する感情をあからさまに出すことはほとんどなかった。しかし、中国返還が決まってからは、中国の「独裁政治に加え改革開放が形成した特権資本主義が社会を変え、人々の様相を変えた」。そして、そうした香港人としての帰属意識―香港の核心的価値(法治・自由・公正な競争)と香港が育成してきた中華文化と習性を守るという意識―がより鮮明となり、それが大陸による支配への反発となっていくのである。
1980年代、まさに私がロンドンに滞在していた時代に、サッチャー政権の下で香港の中国返還が決定された。当然、当時から香港では大きな懸念があったが、特に1989年の天安門事件以降は、香港の人々は、中国の民主化なくしては返還後の香港の民主主義は生き延びられないことを確信することとなり、中国の改革支援を行う姿勢が強くなる。当然、親中国派は、こうした動きを抑える動きに出るが、民主派は、例えば2003年の香港基本法(国家安全条例)の改訂阻止の大規模な反対運動で、そうした動きを阻止することになったという。また2009年以降は、香港入国ヴィザの簡素化で、中国からの大量の旅行者が香港に流れ込む中で、こうした「中港融合」的動きが益々強まることになる。こうして、2007年から始まる著者のコラムでは、そうした動きに加え、中国本国の独裁と特権資本主義(党官僚の汚職と彼らによる資産逃避の窓口としての香港利用)に対する批判が明確に表現されている。加えて、例えば大陸からの旅行者が、香港人の生活圏を奪っていく様子が語られる。また大陸妊婦の香港での出産ブームも、私が知らない当時の動きであった。国民教育(中国礼賛教育)や、深港統合計画、あるいは中国が進める「新香港人」による、香港の大陸化への批判等々。既にこの時期から、大陸中国と香港の軋轢が、社会の様々な部分で拡大していたことが伺われる。面白い議論は、2013年の四川省での地震に際し、香港政庁は義援金の募集を行ったが、著者を始めとする民主派は、こうした義援金のほとんどが中国の汚職党官僚に渡り、実質的な被害者の支援になっていないとして拒否したという話。これは同時に、香港政庁を含めた親中国派が、「血は水よりも濃い」という血縁政治を強調したことに対し、「独立した個体」としての香港を望む意思の表明であったとされる。
こうした経緯を経て、2019年、反中国の思いが「逃亡犯条例」改定(中国が犯罪者と認めたものは全て中国が本土に召喚し裁判権を有す)への反対運動として再び盛り上がり、この本の邦訳も出版されることになる。しかし、その民主化運動は、2020年以降は徹底的に弾圧され、現在は、ほとんど消滅したことは言うまでもない。今や、返還以降25年にわたる中国共産党と香港民主派の闘いは収束し、香港はその歴史的な役割を終えようとしているのである。その意味で、繰り返しになるが、現在この運動を振り返ることは虚しいが、それでも、そこに至る約20年の軌跡を香港人の視点を通して跡付けた本書は歴史に残されるべきものであろう。高齢の著者が、現在の状況をどのように見ているかは興味深いところではあるが、恐らくそれを表明する機会はないのであろう。
尚、2012年のコラムでは、「コールド・ウォー 香港警察 二つの正義」という当時の人気映画が取り上げられており、この作品は、劇中で「法治は香港の核心的価値だ」という言葉が述べられていることで、民主派の支持も得たという。また別のコラムでは、同時期に制作された台湾映画「郊遊 ピクニック」の監督が、ヴェネチア国際映画祭で審査員大賞を受賞した際のスピーチで、艾未未(アイ・ウェイウェイ)に触れたこと、そしてそれを聞かれたジャッキー・チェンが、「艾未未など知らない」と答えた話を伝えている。この2作は、機会があれば観ておきたいと考えている。
読了:2022年7月4日