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アジア読書日記
中国
香港と日本
著者:銭 俊華 
 1992年生まれの香港人による、2020年6月出版の、香港と日本の関係を中心に論じた新書。著者は、日本語では「ちん ちゅんわ」と呼ばれているが、出版時点で東大大学院の博士課程に在籍している。内容以前に、数年の留学でこれだけの日本語で書けるということにー当然編集者の校正は入っているにしてもー驚かされる。

 本書の主題は、「香港人が自分のことを『中国人ではない』と言い切る」「香港の主体性と香港人の香港アイデンティティ」の確認と、その香港の日本に対する関係性である。前者は言うまでもなく、2014年の雨傘運動から始まり、2019年の「逃亡犯条例」反対を契機とする大規模なデモの背景となる。それは、その後大陸政府の介入もあり無残に圧殺され現在に至っている訳であるが、運動が潰された後も直ぐには消えることのないであろう、香港の自己意識の通奏低音の確認となる。

 冒頭の「香港旅行案内」的な部分には特記するようなことはない。香港人が、言語(「広東語は方言ではない」)を含めて大陸、なかんずく北京政府に対しては異なる主体性を持っていることや、1998年の返還以降、殺到する大陸からの旅行者の振舞いや、2010年以降強まる本土との同化政策に違和感を持っていたこと等は良く知られている通りである。また2019年の騒乱と、大陸との距離を巡って深まる香港社会の分断についてのルポも、現在に至っては虚しい抵抗であったとしか感じられない。「2019年に聞かれた言葉の小辞典」が、この運動を思い出す際の多少の参考になる程度である。またアニメを中心とする若い世代の日本との接点についての記述も、本土や韓国などと同様、アジア全域での日本文化の浸透として特段眼を引くものではない。ただここで紹介されていた「10年」(2015年公開)というオムニバス映画は是非観てみたいと思わせる(その後、この映画はレンタル・ショップで取り寄せ可能であることが分かり、現在到着待ちである)。この映画の最後で、若者グループに「ドラえもん」を観ることが禁じられる、という場面があるようで、著者はその理由を詮索している。その理由として著者が挙げている、大陸返還後益々強化されている反日傾向の中で、「ドラえもん」等のアニメが全盛期であった香港の70−90年代を消そうとしている、という指摘には留意しておこう。また「カードキャプターさくら」には、香港から転校してきたシャオランという男の子が登場し、それがこのアニメに対する香港人の「片思い」を強めると共に、「香港人の中国共産党/中国市民への嫌悪感、そして香港人としての目覚め」を示しているという指摘も面白い。更に「進撃の巨人」も、「凶暴な巨人による小さな城への侵入、および自由を守る信念が香港人の共感を引き出した」という。私はほとんど興味も情報もないこうしたアニメを使った議論は、若い世代の研究者では一般的になっているのだろう。但し、繰り返しになるが現実の香港社会では、いまやこうした意識が社会の表面に出ることはない状態になっているのである。

 この辺りまでは気楽に流し読める本であるが、以降、香港における日本のイメージとその変容についての議論はやや重たくなる。まずは、戦後香港の大衆文化の中にある日本を紹介しているが、J・チェンのカンフー映画などでも「中国人が卑怯な日本人を倒すという公式」は、つい最近まで使われており、また怪談等の中にも日本軍統治時代の不気味な事件がよく出てくる他、TV番組ではもっと露骨に対日批判が表に出ているという。しかし、著者に言わせると、日本の香港占領や解放は、日本と英国やカナダとの戦闘であり、TV番組などは、親中派による「記憶の歪曲」であった、と言うことになる。また1970年代、尖閣問題等が先鋭化し、香港でも反日機運が強まったことはあったが、そうした中でも文学者などの知識人の中では、日本は「警戒しながら学ぶべき国であるのみならず、ノスタルジアの対象でもあった」という。そして2000年代に入ると、新知日家と呼ばれる人々が「日本との対照によって香港の政権を批判する」あるいは「香港人として香港のために日本を語る」といった論調も出てくることになる。日本では公開されていないというので観るのは難しそうであるが、2016年公開で人気を博した「點五步」という日本対香港の野球の試合を取上げた映画も、野球という日本文化を素材にしつつ、大陸に対する「香港アイデンティティを喚起」する作品になっているという。そこでの日本は、正々堂々と戦う相手で、強権主義的な大陸を批判する媒介になっていると見るのである。そしてそうした香港人の日本に対する意識は「反日の変容」として改めて説明されることになる。

 著者は、戦前の反日意識にも触れているが、ここでは戦後の対日意識を見ていこう。それを見る上で著者が重視しているのが、重光(光復)記念日と平和記念日という二つの戦争記念日である。詳細は省くが、この2つの式典の詳細を見ていくと、双方とも「敵であった日本」の存在は不可欠ではあったが、英国統治下においては日本の存在感は「脱色」されていたという。そしてその理由は、「植民地支配者であるイギリスにとっては当地の合法性と権威の表象化、かつ華人の統合と承認という政治的機能がむしろ重要であった」ことによる。しかし1997年の大陸返還以降は、特に香港固有の祭日であった「重光記念日」が、一旦「抗戦勝利記念日」と名称変更された後、祭日ではなくなり、代わって2014年以降は大陸と合わせた「南京大虐殺死難者国家公祭日」が新たな祝日となったという。言うまでもなく、大陸の祝日は、戦争犯罪者としての日本をより強く想起させることになる。

 それではこうした返還以降の日本の取扱いに、実際の香港人はどう反応したかであるが、著者は、「本土派」と呼ばれる反大陸勢力が大陸に対する批判に加え、「重光記念日」の復権を目指したこと、そしてそれが2019年の大規模な社会運動にも影響を及ぼしたことを指摘している。この運動の中では1950年代から既に香港に存在していた「日本に関わる戦争記憶を中共政権に結びつけるレトリック」が使われている、というのが著者の主張である。それは繰り返しになるが、「日本との対照によって香港(そして大陸)の政権を批判する」レトリックなのである。しかし、そうした議論が強権により潰される中で、そうした「香港の主体性」を維持しようという香港固有の意識が今後どうなるかについては、著者は特段の展望を示していない。結局、中国はそうした「香港の固有意識」の変容を目指し、大陸との同化政策を進めていくことは間違いない。香港の「政治的主体性」の喪失は、中長期的に「意識の主体性」も蝕んでいくだろう。それを維持・回復する契機は、今のところ全く見えていない。

 ということで、著者の様に海外に滞在し、香港の反大陸的な独自性を意識している人々が、今後の抵抗の手段と契機をどこに見出していくのだろうか、というのが私の最大の関心である。それは簡単なことではないと思われるが、著者の今後の言論活動にも注意を払っていきたい。

読了:2023年6月1日