アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
アジア読書日記
中国
中国共産党 葬られた歴史
著者:譚 瓐美 
 中国人女性研究者による、中国共産党史である。著者は、1950年東京生まれであるが、本籍は中国広東省。慶応大学文学部卒業後、同大講師、中国広東省の大学講師を経て著述業に入り、今まで多くの著作を発表しているようである。日本育ちであることから、この新書も翻訳ではなく、日本語で書かれている。そして出版は2001年10月(この時点では、著者はニューヨーク在住の様である)であるが、黎明期を中心とした中国共産党史であることから、古さは感じない。

 その歴史は、1980年、著者が父親と共に広東州を訪問し、著者と同じ譚一族の大叔父で、中国共産党の創成期のメンバーであった当時87歳であった譚平山と会うところから始まる。更に香港の中国返還直前の1997年、既に104歳になっていた彼の甥で1893年生まれの譚天度とも再会、こうした老人の証言―特に日本軍敗北前後の香港を巡る英米及び中国国民党と共産党の駆け引き等―を聞くことになる。それらを譚平山や譚天度の数奇な運命と共に描く、ある意味、「一族の英雄たち」の物語である。

 物語は、1920年、辛亥革命に参加した後、地方議員などを経験し、再度北京大学で学び卒業した譚平山(33歳)らが、広東省に「凱旋」するところから始まる。彼らは、辛亥革命が、袁世凱ら軍閥の権力奪取に終わったことや、その後列強の中国進出が強まり、特に第一次大戦後、領土の分割が進んだことを憂慮して、北京にいる共産党指導者陳独秀の指導も受けながら、広東を基盤に新たな新聞を創刊する。そして、その年の12月、北京から広東の彼らを訪問した陳独秀の提案で、既に北京と上海で立ち上がった「共産主義小組」に倣って、翌1921年、広東にも同じ組織が立ち上がり、譚平山と譚天度がその活動の中心になる。以降、広東を含めた共産党の前身組織が広がっていき、それが統合され1921年7月、「中国共産党」が誕生するのであるが、著者は、この創成期の広東での話が、1996年になって、譚天度の103歳の誕生日を記念するテレビ番組として制作・放映されたとしている。

 ここでまず著者が取り上げているのは、この広東での共産党の創立メンバーが誰であったかという議論で、譚平山はその一員として認められているが、譚天度については諸説あるという。それは、これから説明されるこの創成期の共産党組織が直面した多くの苦難に当たっての譚天度の評価が複雑であることによると思われる。他方、例えば周恩来は、自身では入党は1922年だとしているが、また毛沢東も一度は1921年と申告しながらも、両名とも結果的には1920年からの「創成期メンバー」として認知されているというのも、こうした独裁的政治組織の一般的な対応であろう。

 こうして創成期共産党の経緯が詳細に語られる。まずは1927年4月に起きた蒋介石のクーデター(4・12クーデター)までであるが、これはコミンテルンの強力な指導の下で、第一次国共合作ということで、共産党も国民党に合流して(共産党員は、二つの党籍を持って)活動することになる。そして孫文と個人的に親しかった譚天度は、国民党の組織部長(大臣)に就任し、また毛沢東も、孫文亡き後、主席を継いだ汪兆銘から国民政府の宣伝部長代理に取り立てられたということである。こうした中で、国民党では左右両派の抗争が激化したのに対し、共産党は順調に指示を拡大、特に広東地区での党員増加は目覚ましく、譚平山は「カリスマ的存在」にまで持ち上げられることになる。それが大きな転機を迎えるのが、上記の蒋介石による4・12クーデターである。

 このクーデターに先立つ1926年3月、「中山艦事件」という、未だに真相が不明な事件があり、これを契機に蒋介石は国民党、国民政府、国民革命軍のすべての重要ポストを掌握し、それが翌年のクーデターと共産党員の大量粛清に連なったとされている。そして蒋介石による4・12クーデターが上海から始まり、広東その他の地方へも波及する。これについては、かつて学生時代に、A.マルローの小説「人間の条件」で初めて知って以来、多くの叙述に触れてきたので、詳細は省くが、多くの共産党員が粛清される中、毛沢東(当時34歳)や周恩来(同29歳)のみならず、この本の主人公である譚平山(同41歳)と譚天度も何とか生き延びる。そしてスターリン率いるコミンテルンも混乱する中、中国共産党内部では、反攻の蜂起を巡って激論が闘わされたことが説明されている。結果的には、広東東部を起点にした、朱徳らが率いる南昌蜂起が開始されるが、蒋介石軍に敗北し、周恩来や譚天度は香港に落ち延びることなる。他方、毛沢東も、長沙で蜂起するが、やはり敗北し、江西省西部の井崗山に逃亡、そこに香港から周恩来らも合流し、そしてその後、あの12500キロに及ぶ長征を行うことになる。この過程で、「インテリ中心であった中国共産党の大部分の指導者は一掃され、(中略)泥臭さを身に備えた戦士たちの党へと生まれ変わる」と共に、「動員する対象も、労働者から農民に転換された」と著者は評価している。他方、共産党内部では、この蜂起失敗の責任者への処罰が下されるが、周恩来などは軽い処分で済んだものの、譚平山は党からの「除名」となり、結果的にその後、共産党内における広東派の力が弱まったという。著者は、その理由をいろいろ説明しているが、基本的には党内権力闘争とコミンテルンの介入が要因であったようである。ただ周恩来は、その後譚平山の復権に尽力した、ということが語られており、この本に通奏している主人公に対する周恩来への評価が、ここでも垣間見られている。しかし譚平山復権について、毛沢東の了解を得た周恩来の指示を受け、譚平山の下を訪れた譚天度の説得に彼は応じず、その後は共産党とは距離を置いた著作活動などに注力したようである。

 国民党の攻勢が続く中、瑞金に籠る毛沢東らに人の移動や物資の供給を確保するために、香港から瑞金に向かう幾つかの秘密ルートが開拓されたことが記されている。そしてその多くが国民党により潰されたが、「中央地下輸送ルート」という東江の水路を経由するルートだけは残り、その後大きな力を発揮したということである。しかし、この本の主人公の一人譚天度も、1933年に上海で逮捕され、監獄で監禁と拷問の日々を送ることになる。そしてこの状況が大きく転換したのは、かの有名な1936年の張学良による「西安事件」を契機とする第二次国境合作で、この時、譚天度も晴れて釈放されるのである。

 こうして、在外華僑も巻き込んだ全面的な抗日戦争が始まることになるが、この辺りの大きな歴史は良く知られているとおりなので、省略する。ただ蒋介石は、抗日運動に全力投球するということはなかったようである。しかし、香港が日本軍に占領されると、香港の英軍の依頼も受け、廖承志率いる共産党軍は日本軍に対するゲリラ戦を続け、譚天度もその一員として活躍したとされる。その彼の3度目の再婚と、その後長く消息が失われていた2番目の妻が何10年振りに戻ってきて再会した話が挿入されている。著者は、その裏に、延安に籠った毛沢東らの「性的狂態」があったのではないか、と推測している。

 そしてこの本の最後の大舞台は、1945年の日本敗戦後の半ば「真空地帯」であった香港で、英国と中国共産党の間で繰り広げられた「中英談判」となる。ここで周恩来の極秘指令を受けて、香港の施政権を英国に任せながら、そこまでの力のない英国を支援して、この地での活動の余地を確保しようという方針で、この交渉に臨んだのが譚天度であったというのである。そして、周恩来が意図した「香港を長期に利用する方針」は最終的に英国側も受入れ、共産党は香港で合法的に活動することができるようになる。内戦から、建国後の冷戦期を経て、中国共産党にとって香港は重要な物流、金融拠点として機能すると共に、最後は1997年の返還に至ることになったことは言うまでもない。

 1949年10月1日、中華人民共和国の誕生を宣言する毛沢東の横に譚平山の姿が写っている。長く共産党から距離を置いていた彼は、この時までに共産党に復帰し、建国後の要職にも就き、1956年70歳で逝去することになる。こうして著者は、彼の復党の経緯を推測しながら、この中国共産党の「創立メンバー」の激動の人生を振り返る。そしてもう一人の主人公譚天度も、文化大革命で「下放」を余儀なくされながらも復権し、104歳で栄誉を受けたことは、冒頭に記したとおりである。こうして、二人の縁戚の英雄と、彼らの証言を基に構成した創成期から始まる中国共産党の歴史が完結することになる。

 中国激動の20世紀について、4・12クーデターや西安事件を含めた、よく知られている大きな歴史の背後にある秘話を、二人の縁戚である活動家の軌跡を追いかけながら再構築した、なかなか読み応えのある著作であった。もちろん縁戚である二人への思い入れは強いことかあら、ある程度のバイアスは免れないが、それでも彼らの共産党内外での動きと毛沢東や周恩来との関係など、より客観的に見る姿勢は失われていない。こうした日本で育った中国人による中国研究は貴重である。この作家の名前は、今までメディアでも全く耳にしてこなかったが、最近のこの国の動きについての意見も是非聞いてみたいものである。

読了:2023年9月24日