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アジア読書日記
中国
中国、科学技術覇権への野望
著者:倉澤 治雄 
 1952年生まれの科学ジャーナリストによる、科学技術を巡る米中戦争を核に繰り広げられている抗争・競争から日本の科学技術政策までを論じた、2020年6月出版の新書である。テーマとなっている議論は、私自身のシンガポール滞在後半の研究機関駐在員時代にまさに興味を持って眺めていた分野であるが、併せて著者の経歴も非常に気になった。東大教養学部を卒業した後、フランス留学で博士号(物理化学専攻)を取得後、日本テレビに就職。北京支局長、政治局長、解説委員等を務めた後、2012年には科学技術振興機構(JST)で中国総合研究センター・フェローとなり2017年に独立したという。まさに私自身がJSTとの関係が深かった時期にこの組織にいたということで、どこかで接点があったのではないかと思う。間違いなく私の所属した研究機関の北京事務所はコンタクトがあったことは間違いない。そんなこともあり、著者の議論は大いに興味を抱かせてくれた。

 米中の科学技術を巡る攻防は、宇宙、就中「月」の争奪戦から始まる。日本も最近SLIMと称される探索機が月面に軟着陸し、米、ロシア、中国、インドに続く5か国目の月面着陸国になると共に、搭載したカメラが月面を撮影したり(そのカメラ機材を開発した民間玩具メーカーの同級生の社長がテレビに映っていた)、そこの物質を収集し帰還することが期待されているが、この分野では、従来は米国が圧倒的に先行していた。そこに中国が参入し、急速に格差を縮めているということが紹介される。宇宙条約では、月を含む天体については「いかなる国も領有権を主張できない」と定めているが、着陸地点の「命名権」行使は許されており、この時点で既に中国は27か所に「中国名」をつけており、これが米国を刺激し、新たな月(更に火星も含まれる)への飛行士着陸を含めた「アルテミス」計画を始動させることになっているという。言うまでもなく、こうした宇宙開発技術は、弾道ミサイル技術の発達も促すと共に、GPSの数でも、既にこの時点で35基と、米国の31基を上回り民生用のみならず軍事用の測位情報を提供することになっている。関連従業員数でも、NASAの約1.8万人、JAXAの1,600人を上回る約30万人と、人海戦術でこうした開発競争が支えられている。こうした「スペース・レース」は、その後も激しさを増しているのは間違いなく、今後の展開を注視したいと思う。

 次のテーマは「原発」。日本が、福島第一原発事故以降、原発稼働に慎重になっているのと対照的に、中国では1994年の第一号機運転開始(これには三菱重工が原子炉圧力容器を提供したという)以降原発開発は加速され、この時点で47基が稼働、日本を抜いて世界第三位の原発大国となった(この時点では、米国98基、フランス58基)。そして現在も「建設中・計画中の原発は40基を越え、2050年には小型原子炉を含めて200基を越える」と予想されている。

 こうした背景には、もちろん核兵器開発という軍事目的があったことは言うまでもないが、福島原発事故後も中国の原発増強方針は変わらず、それに加え、途上国への原発輸出も戦略的に強化している。更に、当初は米国やフランスからの技術移転に頼っていた原発開発も、現在では独自開発ができるようになり、それは高速増殖炉や超小型原子炉といった次世代原子炉開発で米国などと競争できる水準まで達していると著者は見ている。他方で、内陸部での新規原発開発については、河川や湖水の水資源の逼迫、重大事故発生時の影響、放射性廃棄物処理問題、そしてそれらを含めた住民の建設反対運動もあり、政府部内でも対立があり、やや停滞しているともいう。確かに現在のところ、中国では原発での重大事故は発生していないが、この国の技術水準を考えるとそれが何時起こってもおかしくないし、それが中央政府に与える影響も無視できないということであろう。これも今後のこの隣国の政治・経済を観る上でのポイントのひとつであることは間違いない。

 第三章以降は、米中の半導体関係での攻防、就中その中で何故ファーウェイが米国の標的になったかが詳細に説明されることになる。もちろん表向きは、ファーウェイ機材により情報が中国に流出するという「安全保障上の脅威」であるが、これはまさに米国情報機関などが自ら行ってきたことから、同じことを中国にされることに懸念を頂いているということである。しかし、ファーウェイのみならず、こうした中国初のIT企業は既に欧米日本との密接なサプライチェーンに複雑に組み込まれていることから、これを規制することは、自らの首を絞めることになりかねない。しかし、近時の米国、特に議会の大勢は、それを犠牲にしても、これ以上の中国企業のグローバル経済への浸透を阻止しようという方向になっている。こうた攻防の象徴となっているのがファーウェイということであるが、それは、90年代の米国でトヨタが対日経済制裁の象徴となったことも想起される。ただ、相手が同盟国で、それなりに「従順である」日本とは異なる中国であることが、米国の対応をより強硬ではあるが、他方で難しくすることにもなる。著者は、実際に同社の研究開発センターを訪れる等の取材を行いながら、同じ中国初のIT企業であるZTEによる米国での訴訟合戦等も含めた経緯を説明し、加えてファーウェイの、創業から急速に成長した過程を詳細に追いかけ、その「研究開発に賭ける凄まじいまでの執念」を伝えている。また著者は続けて、アリババやバイトダンス等に象徴される中国でのデジタル産業の急成長と、それに伴う電子決済、シェアリング・エコノミー、顔認証、「信用スコア」等の新技術の急速な社会実装化も報告し、それが「究極的な管理(監視)社会」というディストピアを促す懸念も指摘することになるが、この辺りは一般的に知られている部分なので省略する。

 こうした中国の科学技術研究一般についての報告が続くことになるが、これは前職時代に、私も身近で見てきたテーマである。米国大学・大学院への中国人留学生は、この時点で約36万人(全留学生の約3分の1)、特に大学院生はT3万人を超える等、米国研究室での中国人パワーは圧倒的で、それに対し日本人留学生の数は大きく減少している。しかし、こうした中国人留学生が研究秘密を不正流出しているという懸念から、急速に米国内での規制・監視が強まっているのも良く知られているとおりである。また専門誌掲載の論文数でも、中国は米国も凌駕しつつあるが、それは「応用科学」分野が主流であり、「基礎科学」においてはまだ欧米と中国の差はまだまだ広いと言われている。大学ランキング、知財出願件数といった分野での中国の存在感も頻繁に報道されるテーマである。そして再びファーウェイ問題にも示される、科学技術の「軍事と民生のデュアルユース」問題に触れた後、日本の科学技術政策についての提言でこの新書を終えることになる。そこでの著者の結論は、「日本は基礎研究分野で従来も存在感を示しており、今後もそれが日本の科学技術の国際競争力の源泉になる」ということに尽きるのである。

 中国の科学技術について、特にファーウェイを始めとするIT企業や、研究開発の現状について、著者はやや過大な評価をしているのではないか、という見方もできるが、他方で、著者の懸念は、米国のみならず日本の研究機関でも一般的に共有されている見解であるとも思われる。この新書でも度々繰り返されている、予算と要員数という中国の優位が、今後「量から質」への研究水準上昇に繋がるかどうかがポイントであることは言うまでもないが、それを評価する基準も、立場によって異なることも予想される。そうした錯綜する見解がある中で、米国による中国への各種制裁は、次の大統領選挙で、バイデンとトランプのどちらが勝利しようとも基本的には維持・強化されることは間違いない。しかし、その具体的な内容や国際経済に及ぼす影響、それを受けた米国のみならず欧米日本の政府、民間企業の対応も予測が難しい。そうした複雑な現状認識、将来展望について、是非日本の研究機関の識者の話を聞く機会を持ちたいと改めて感じさせる著作であった。

読了:2024年2月1日