満州国を産んだ蛇
著者:小林 英夫
満州は、私の父の誕生の地で、幸いにしてその移住を主導した祖父が早くしてその地で亡くなったことから、父は、戦後のソ連の侵攻に伴う混乱や抑留といった苦難を味わうことなく、早い時期(恐らく小学校低学年頃)に熊本に帰国している。しかし、その祖父の墓は、かの地の長春にあるということで、日中関係が落ち追いてからは父も何度かその墓参りに行っていたようであり、また満州国を特集していた雑誌に当時の写真を投稿していたことも思い出す。そんな満州での思い出を詳しく聞く機会もないまま、父は既に没してしまったが、偶々この書籍を図書館で見つけた際に、もちろん一般的な歴史知識は持っているにしても、もっと細かいこの地域の社会情勢を、そうした父親の少年時代の思い出を想像しながら辿ってみたいという気持ちが沸き起こったのである。2023年7月の出版。著者は1943年生まれで、早稲田大学名誉教授でもある日本近現代経済史、アジア経済論学者である。
日清、日露戦争により、日本が中国本土に本格的な進出(侵略)を始めてから、戦後ソ連の侵攻により満州国が消滅するまでの過程を、それまでの先行研究も踏まえながら克明に追った作品である。特徴は、その後満州国として独立する地域全体と、そこを貫く満州鉄道付属地、及びその満州国には含まれていなかったが日本が日露戦争後租借していた旅順・大連といった遼東半島の都市(関東州)が、日本による支配の中で性格を異にしていたことを意識しながら議論を進めている点にある。確かに、私の意識の中でも、これらの地域は「満州国」と同一のように捉えていたことから、こうした地域の違いは今回初めて認識することになった。
まず著者は関東州の説明から入るが、この地域はもともと日清戦争で日本が清国から割譲を受けたが、その後の「三国干渉」で返還させられた後、「南下政策」で、鉄道建設を含めこの地域へ進出していたロシアが清国から租借し、「念願の二つの不凍港」を手に入れることになる。そして日露戦争の結果、そのロシアの利権を、ロシアが敷設していた鉄道網と共に日本が継承し、その後の日本のこの地域支配へと続いていくことになるのである。しかし、1931年の満州事変と32年の満州国の成立を経て、満州地域と満鉄付属地は満州国の管理下に入ることになるが、「関東州は満州国とは異なる別の日本の租借地として政治・経済・社会活動を展開した」ということになる。実際、日本の支配時期にも、関東州と満州国の「国境」を通過するには「税関手続き」が必要であったという。現在の中国でも主要都市の一つとして成長してきた大連を中心としたこの関東州の歴史をまず確認した上で、満州国の展開に移ることになる。その満州国の基盤となったのが、やはり日露戦争の結果日本がロシアから継承した旅順・大連から長春に至る鉄道幹線とその支線であった。
その鉄道網に加え、その沿線の主要都市とその施設、及びそれに沿って存在した炭鉱などが日本の支配下に入り、その後の満州国の政治・経済的基盤となっていく。こうした日本の支配地域は、「あたかも満州の心臓部に食い込んだ蛇のような姿で、細長く、ところどころで蛇が卵を飲み込んだように市街地がこぶのようにふくらんでいた。」そしてそれがその後の中国革命の嵐の中で、満州事変から、「五族協和」「王道楽土」という「美しい装いを表面的に掲げた」満州国の成立へと連なっていくが、実際にはその「蛇」が変身しただけであった、というのが著者の視座となるのである。
こうして日清戦争以降の日露によるこれらの地の争奪戦が展開されるが、まず「三国干渉」後ロシアが東支鉄道建設により進出し、北はハルピンから旅順・台連を抑えることになる。特に1990年から1902年にかけてロシアによるハルピンと大連の都市建設、そして旅順の軍港化が進められ、特にハルピンではロシア人人口が約5000人から4万人余に急増したことが指摘されている。そして日露戦争の結果、こうしてロシアが建設した町を日本が継承する。支配機構としてまず関東都督府が旅順におかれるが、1906年に満鉄が大連を本社として設立され、鉄道とその沿線地域は実質的に満鉄による支配が強まっていくのである。日露戦争で破壊された大連の都市建設が急速に進められ、満鉄総裁の誘いで夏目漱石がこの地を訪れ、復興の格好の宣伝となったこと等にも触れられている。
他方満鉄沿線北方の都市建設はそれから遅れて進むことになる。父の故郷である長春に関しては、日露戦後も支配地域を巡るロシアとの紛争があったようだが、ロシアが設置した場所と違うところに新たな長春駅を設営し、そこを中心に都市建設を開始、1907年にはわずか235人であった日本人人口が、1917年には16000人強と急増することになる。父がここで誕生したのが1923年であるので、祖父はまさにこの日本人急増時代にこの地に移住したのであろう。また長春よりも北方にあり、ロシアの地域支配の拠点であったハルピンは、従来からロシア人人口が多かったが、ロシア革命後は革命に反対する亡命ロシア人がなだれ込み、ユダヤ人も交えた国際都市に変貌したという。父が雑誌に投稿した当時の写真に、日本人、中国人、ロシア人の子供が仲良く遊んでいるものがあったが、長春でもそうしたロシア人は多かったのだろう。
第一次大戦勃発による特需から、この地域への日系企業の進出も活発化し、戦後の反動不況にも関わらず、この地域での日本の存在感が高まっていく。こうした工業品の輸出港としての大連も躍進し、1919年には、上海に告ぐ中国第二の貿易額を誇るまでになったというのも、この地域経済の成長を物語っている。そして時折反日中国ゲリラによる攻撃などもあったが、1920年代前半までは、関東州と満鉄付属地の政治情勢は比較的平穏な状態が続いたという。
しかし、1920年代半ば以降、地域の情勢が流動化していくが、その大きな要因が中国人軍閥による内部抗争を含めた活動であった。特にこの地域では張作霖が大きな力を持っていたが、当初関東軍は、あくまで支配地域防衛の観点から、蒋介石や張作霖の戦いなどには中立的姿勢を取っていた。しかし、蒋介石や他の軍閥との抗争が激しくなるにつれて、関東軍は張作霖排除の方向に転じ、1928年6月の列車爆破による張作霖暗殺に至る。そして彼の死後跡を継いだ張学良は反日的姿勢に転じたことから、関東軍もこれに対抗し、支配地域拡大に転じていくことになる。1931年9月、奉天郊外柳条湖での張学良による鉄道破壊事件を口実に満州事変が勃発。以降関東軍が事実上の地域支配者となり、その後の1932年3月の満州国建設まで突っ走ることになるが、当然ながらそれは反日運動の激化と国際社会からの批判を浴びることになる。著者は、この満州国建国に至る経緯は複雑であったとして、詳細に論じているが、いずれにしろ、これがその後の敗戦と戦後の破局をもたらすことになるのである。
従来からあった、関東州や満鉄附属地の租借とそこでの日本人の治外法権といった日中間の「不平等条約」は一旦そのまま満州国に引き継がれ、また「日満議定書」で、関東軍の守備範囲が満州国全域に拡大されたこともあり、関東軍はこの地域での実質的支配者となる。但し国際法上の観点から、関東州や満鉄附属地の租借とそこでの日本人の治外法権は、様々な問題を抱えながらも、最終的には満州国に返還され、その地域での日系企業の活動再編等ももたらしたという。そして1937年7月の盧溝橋事件を契機とした日中全面戦争の開始と共に、満州国は「その戦争遂行のための後方兵站基地」となっていく。そうした日中戦争下での産業構造の転換や、満州国への日本人移民の拡大や彼らの植民地域の拡大等も触れられているが、その辺りはもはや失われた過去の話である。そして第二次大戦の勃発以降は、関東軍も南方等への兵力提供を求められ戦力が低下したところで、終戦直後の圧倒的なソ連軍の侵攻を受けて、この国の短い歴史が終わるのである。
現在の中国にとっては、満州国は、日本の中国侵略の大きな象徴であり、また国際的にも日本の傀儡国という評価は建国以降も変わることはなかった。まさにそうであるのだが、それでもこの地が、当時の支配者のみならず、私の祖父のような一般人にも大きな夢と野望を抱かせたことも否定することは出来ない。狭い島国の日本から広大な大陸に夢を求めて移住する人々。そうした人間の衝動がこの昭和史の恥部を作り出したということ、そしてそれは今後の国際関係を考える際に、我々は常に意識していなければならない。同時に、ウクライナでは、今も尚、入植したロシア人保護という名目でのロシアによる「力による支配地拡大」が行われており、また台湾問題でもそうした懸念が意識されるなど、この時代の国家間権力闘争は決して過去のものになっている訳ではない。否、むしろ現在そうした事態は益々現実的な脅威となっていると言える。今は亡き父の懐かしい思い出を想像することから手に取った書物であったが、それだけに留めてはいけない、という思いも改めて感じることになった作品であった。
読了:2024年4月25日