習近平vs.中国人
著者:宮崎 紀秀
著者は、1970年生まれで、日本テレビに記者として入社。2004年から2009年までNNNの中国総局に勤務した後フリーとなり、2013年から改めてNNNの特約記者として北京に滞在した(している)時期の中国ルポで、出版は、丁度コロナが拡大し始めた2020年3月である。一般的な中国報告と思って読み始めたら、規制の多い中国での取材を、現場に足を運んだ「突撃ルポ」的に行っており、結構面白く読むことになった。政治的にも、経済的にも大きな転機を迎えている習近平政権の下での、庶民生活の負の側面に焦点を当てた報告になっている。
扱っているテーマは、官僚の腐敗に始まり、死刑を含めた冤罪事件、庶民生活への数々の脅威、不動産不況、天安門への想いと人権派弁護士への弾圧といった、中国について頻繁に語られているものであるが、それを実際の現場に足を運び、その被害を受けた人々の立場から報告しているのがこの新書の特徴である。
まずは重慶市で、愛人との浮気現場のビデオが暴露され摘発された「エロ腐敗官僚」と、そのビデオをインターネットで流した男の取材現場への同行。彼はそうした「腐敗官僚」の証拠を集めて公開しているが、そうした告発が対象者の処罰となるか、逆に官僚側からの反撃を受けるかは紙一重である。「腐敗官僚」の愛人となり職を得た例や、騙されて産んだ子供と共に捨てられ、その後は脅された例、あるいは2008年の四川地震での被害が、行政の「おから工事」によるものだと告発している人々の姿等。もちろん日本でも全くない世界ではないが、中国の場合はより深刻である。
冤罪で死刑に処されたが、18年後に無罪とされた内モンゴルの18歳の青年遺族への取材。こうした冤罪事件は、特に2014年に頻繁に公になったようで、その背景には習近平による「依法治国」という政策があったとされるが、それは他方では彼の権力闘争の一環としての「反腐敗キャンペーン」でもあったことは言うまでもない。結局庶民はそうした権力者の意向に振り回されるが、冤罪で死刑となった者たちは帰ってこない。そもそも冤罪自体はどの社会でもあるが、中国では死刑の統計さえも公表されていないというのが、欧米日本などとの大きな相違である。「車椅子の自爆犯」は、些細な事件で警察の暴行を受け半身不随になった男の爆弾犯罪とその裁判経緯を巡る話である。
多発する児童誘拐事件とその被害者への取材。もちろん未然に子供が保護され、犯罪グループが摘発された例もあるが、被害者からは、貧しい庶民の子供が誘拐されても警察は真剣に捜査しないという不満が語られる。そしてその子供の売買価格が上がっているというあきれた話も報告されている。数々の環境汚染の現場や、これも新聞報道で読んだ記憶のある大量の豚の死骸が河に流され下流に漂着した事件の背景等も、依然改善が進まない中国の環境問題の実態報告である。
ネット上でのパフォーマンスを通じで女優への道が開けた女や、それを目指して、自分の際どい映像などを流す女、そしてそれに「スポンサー」として群がる男たち等への取材。他方で、中国不動産不況の象徴である「鬼城」への投資でなけなしの貯蓄を失った人々。反日デモを組織した男への取材と、中国での反日教育の実態なども、頻繁に報道されている事象の、庶民ベースでの現場の姿である。そして中国での「蒼井そら」の人気と彼女へのインタビュー。この辺りは週刊誌感覚で流し読むことができる。「尖閣諸島は中国のモノ。蒼井そらは世界のモノ」というフレーズには笑ってしまう。
そしてルポの最後は、国内に残って天安門の記憶を消さない活動をしている男や、地方議員に候補した「独立候補」の苦難、そしてそうした活動にも関連し拘束された人権派弁護士とその家族の話。これも一般に言われている報道の個別事例の実態報告になっている。
本書の冒頭で、著者は、中国での取材で頻繁に発生する、官憲による記者の「プチ拘束」を「お茶を飲む」と皮肉っているが、こうした取材では、著者の同僚記者は度々それに遭遇したようである。著者自身がそうした目にあったということは語られていないが、恐らくここでの取材はそうしたリスクと紙一重のものであったと想像される。その意味で、繰返し述べているように、著者が扱っているテーマ自体は良く知られているものばかりであるが、その具体的な事例を当事者に「突撃取材」し伝えていることは大いに評価したい。著者がこうした活動で、当局にそれこそ「プチ」ではない、「長期拘束」を食らわないことを願っている。
読了:2024年6月18日