新疆ウイグル自治区
著者:熊倉 潤
1986年生まれの研究者による、新疆ウイグル地区の歴史、なかんずく中国共産党支配時期に焦点を当てた新書で、出版は2022年6月である。言うまでもなく、ここは現在の中国の「自治区」の中で、ここのところ多くの著作を読んできた内モンゴル、そしてチベットと共に、あるいはその2地域以上に、最も民族問題が先鋭化しており、国際社会からも多くの批判が投げられている地域である。特にこの著作でも最後の部分で触れられている2019年12月、トランプ前政権時代のアメリカ下院で可決成立した、中国当局者への制裁発動を求める「ウイグル人権法案」を提出したルビオ議員は、今週発足したトランプ新政権で国務長官に就任したこともあり、今後この問題は再び顕在化する可能性が高くなっている。そうしたこの地域の特に現代史を、著者は出来る限り客観的な視点から叙述しようと試みている。
まずは古代からのこの地域の概要であるが、オアシスへの集落が散在していた地域は、漢や唐の時代から歴史に登場し、中国のみならず、モンゴルやチベット等との抗争で民族も入り混じるが、8世紀ごろからは、現在のカザフスタン、ウズベキスタンなどの旧ソ連中央アジア5か国(西トルキスタン)の主流であるチュルク系ウイグル人が中心勢力となっていき、この地域は「東トルキスタン」と呼ばれるようになる。そして宗教的にはそれまでは仏教文化が栄えていたが、10世紀にこの地を支配していた王朝がモスレムに改宗したことから、以降16世紀までにはイスラーム化を終えたという。しかし、同時に17世紀に入ると力を増した清がこの新疆地域への進出を進め、間接統治ではあるが支配権を確立、この地域は「中国」の支配下に入ることになったのである。しかし、19世紀後半、清の国力が衰えてくると、この地域でのチュルク系の反乱も増え、それにロシア等も介入して状況は流動化する。しかし、この時期、近代国際法秩序が唱えられる中、この地域が清の支配下にあったことから、清やその後の中国国家が、この地域への支配権を主張できる根拠となったという。しかし、それは「チュルク化、イスラーム化を経て、西方世界、とりわけロシア、オスマン帝国に靡く新疆を中華世界は抱え込むことになった」ということになる。
以降辛亥革命を経て中華民国が成立した頃から、この地域は独立運動も激しくなるが、それは他方で中国及びロシア等の周辺諸国の動きに翻弄される。1917年、ロシア革命が起こり、ウズベク等中央アジア5か国がソ連の枠組みの中で「共和国」が形成されると、その影響を受けて、1933年、新疆では「東トルキスタン・イスラーム共和国」が独立宣言を発するが、これは国際的な認知を得られないまま地方軍閥軍に圧殺され短期間で消滅する。その後、ソ連の支援を受けた地域独裁者(盛世才)なども現れるーこの時期、毛沢東の弟が、この独裁者の粛清で殺されたというーが、他方で彼はソ連に見切りをつけ国民党に接近、ソ連はそれに対抗してイスラーム蜂起を支援するが、その後ソ連は国民党とモンゴルや中国東北部の利権と引き換えにその支援を停止する等、日中戦争終了までこの地域の混乱は続くことになる。しかし最終的には中国で共産党が政権を握ると、共和国の流れを組む指導者も共産党の支配を受入れ、その後現在まで続くこの共産党支配の歴史が始まることになるのである。
中国共産党による新疆支配は、その後は、本土における共産党の政策の影響を受け、刻々と変わっていくことになる。1949年当初は、共産党は「解放軍」として地元の関心を買いながら、現地ムスリム指導者も優遇し地方政府を運営する体裁を取ったー但し、実質的な権力を握る地方党組織は漢人で固めていたーが、共産党支配に反発する「反革命分子」による抵抗は収まらなかったことから、この地域支配の方法を巡る論争も生じたという。ここで注目されるのは、習近平の父親の習仲勲が、毛沢東の指示を受け、穏健派の立場から、その後の土地改革やモスレム幹部の養成などに尽力したこと。しかし、この地域に敢然と残るソ連の影響力を受けた勢力が「ウイグル人民政府」を求め始めると、漢人強硬派からの彼らへの批判が高まり、結局1953年に、ソ連の中央アジア諸国の位置付けも参照された上で、それよりも独立性の低い「新疆ウイグル自治区」が成立することになったという。そこでは旧東トルキスタン・イスラーム共和国幹部のセイフディンが自治区主席に就任することになる。しかし、やはり実権は自治区党第一書記の王恩茂という漢人が握ることになる。そしてその王の指導で、その後の新疆の漢人化が急速に進められることになる。
民族区域自治の実施と略時を同じくして結成された新疆生産建設集団がその先兵であるが、これは「開発」という体裁を利用した漢人による植民活動で、内モンゴルでも使われた手法でもあった。興味深いのは、この新疆への漢人移住はスターリンが毛沢東に入れ知恵したもので、ソ連による支援を期待していたウイグル人幹部たちにとっては、その期待を裏切られるものであった。そしてフルシチョフ時代になると、ソ連がこの地域に持っていた利権も中国に返還し、地域に残っていたソ連人も引き上げていったということである。この結果、1949年には約29万人であったこの地域の漢人人口は1962年には記録されているものだけでも約209万人と、地域人口の30%まで膨れ上がったということである。
そして1955年以降、共産党中央が農業集団化等の急速な社会主義化を進めることになり、新疆でもそれが容赦なく進められることになる。そしてそれはその後の「反右派闘争」、「大躍進」、そして「文化大革命」、「中ソ論争」といった流れの中でも同様な形で新疆に襲い掛かる。そして当然ながら、本土以上に、これらの少数民族地域では、それが民族意識への批判という形でより厳しく進められ、本土以上の犠牲者を出すことになるが、他方で少数民族住民のソ連への逃亡も相当数に上ったと言われている。そして犠牲者は、一般庶民のみならず、セイフディンや王恩茂等の地域指導層にも及び、例えば習仲勲も、この地域への穏健な対応が大きな批判を受け失脚することになる。この父親の経験から習近平は、新疆への対応は配慮するのではないかとの期待があったが、それが裏切られることになるのは、その後の話である。
毛沢東が死に4人組が失脚すると1977年以降改革開放が始まる。文化大革命時の被害者の名誉回復も行われるが、同時にそれは漢人支配への不満が改めて表面化する要因ともなり、現地ムスリムによる蜂起事件等が再び活発化することになる。改革開放や現地伝統への一定の配慮という「アメ」はあったが、結局のところ、それが漢人側からの更なる報復―「ムチ」―を招くという悪循環に陥っていったのが、ケ小平、江沢民、胡耀邦時代を通じてのこの地域の歴史となる。「先富論」に基づく「西部大開発」ということで、この地域にある鉱物資源開発への投資も進められたが、現地ムスリムにとっては、それは民族資源の漢人による収奪であった。そして前述のとおり、父親がかつてそれなりにこの地域への配慮を行った習近平時代に入っても、一連のテロ事件(それらが政権のでっち上げではないかとの見方もあるが、真相は分からないという)を受けて、管理体制はむしろ強化されることになったということになる。2000年のラビア・カーディルというウイグル人女性幹部の逮捕と米国への追放(これは2012年の習近平の総書記就任前である)というのは、まだ軽い方であったが、2015年に制定された反テロリスト法による「教育改造強化」等もあり、些細な言動での摘発・逮捕もより頻繁に行われるようになる。極め付きは、「親戚制度」による監視強化と「職業技能教育訓練センター」への、「教育訓練」という名目での、党への忠誠心が疑われると見做された人々の大量収容で、後者は、特にフーコーの言う「パノプティコン(全体監視の刑務所)」の実践として、前述のルビオによるアメリカ下院決議を始めとする欧米からの人権批判の嵐を惹起することになる。また、こうした施設を含めた工場での「強制労働」も指摘され、そこでの生産物が、欧米や日本での最終製品のサプライチェーンに含まれていたことから、新疆産を排除する動きが広まったことも良く知られている通りである。更にここでの「産児制限」強化が、欧米側からの「ジェノサイド」という批判ももたらすことになる(この「ジェノサイド」議論には、私が最近集中的に読んだ楊海英による内モンゴルでの議論も援用されている)。こうして新疆はまさに「中国の負のショーウィンドウ」と化したのである。確かに共産党の締付けにより、近時騒乱の頻度は減っており、また欧米側の批判も、国連等では新興国による中国支持で、数では中国に優位に展開しているとは言うものの、実際にはウイグル人のマグマは溜まっており、それが何時また爆発するか、そしてそれにより中国対欧米の摩擦が再拡大するかは時間の問題と言えそうである。
こうして、新疆ウイグル地区は、内モンゴルやチベットと共に、否その2地域以上に中国共産党支配の大きな難題であり続けるのは間違いない。歴史は、こうした少数民族地域が、中国本土の政権が不安定性になった時に繰り返し騒乱の地となることを示してきた。それが私の生きている間に起こるかどうかは分からないが、いずれまたいつかは同じ歴史を繰り返すのだろう。その時、中国本土の支配者や国際社会がどのような対応を行うのだろうか?中国共産党政権の今後の動きを見る上でも、引続きこの地域の動向には注意していかなければならないだろう。そうしたこの地域の歴史を確かに客観性に配慮して綴った新書であった。そして続けて、もう一つの難題であるチベット問題を見ていくことにしている。
読了:2025年1月19日