アジア・ドイツ読書日誌と
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アジア読書日記
インド
中村屋のボース
著者:中島 岳志 
 先日ある日本での研究会で、「近代日本の右翼」と題する報告を聞いた北大のインド政治思想研究者である著者の出世作である。インド人ボースという名前は時折耳にしていたが、その思想と生涯について詳しく知る機会はないままであった。以前、太平洋戦争時の大失敗したインド侵攻作戦であるインパール作戦の指導者であった「ボース」という名前は耳にしていたが、この作戦がどのような経緯で企画されたのか、そしてそれを率いていたボースというのはどのような人間であったのか。2005年にこの本が出版された時の書評で、ボースというのは新宿中村屋にインドカレーをもたらした人間であるようだ、ということは知っていたが、それが彼の政治活動とどう関係するのかは分からなかった。今回、偶々本人の講演を聞いたのを契機に、この作品を図書館で借りることができ、今回の2ヶ月に及ぶ休暇の最後に集中して読了した。そして、この本の最後で、インパール作戦を率いた「ボース」との関係も正確に認識することになったのである。

 さて著者は、この本で、主人公ラース・ビハーリー・ボース(R.B.ボース)の生涯を詳細に追いかけながら、昭和初期から第二次大戦時までの、インド独立運動と日本の関係について考察していくが、まずはボースの生涯を見ていこう。

 1886年インドはコルカタ郊外の農村に生まれたボースは、15歳の頃に読んだ反イギリス大反乱に関する本の影響を受け、イギリスからの植民地解放運動に目覚め、森林研究所化学部門の有能な事務員として勤務しながら、裏では密かにインド独立運動に関わっていったという。特に彼はテロ戦術も許容する急進派に接近し、化学部門で材料を調達しながら自身で爆弾を製造できたことから、急速に組織の中で存在感を増していった。急進派指導者で且つ宗教哲学者であるオーロビンド・ゴーシュの「自己犠牲の精神」の影響も受け、1912年、デリーで実行された、時のインド総督ハーディングの爆殺事件の首謀者となる。

 この暗殺の試みはハーディングが怪我を負うだけで失敗したが、ボースはその後も研究機関員という表の顔で捜査情報なども入手していたというのは面白い。しかし翌年には、別の暗殺未遂事件で逮捕された仲間から押収された資料で正体がバレ、英国官憲から最も危険な急進派指導者として指名手配され逃亡生活に入ることになる。この間、製造した爆弾を吟味している最中の暴発事件で左手に大怪我を負い療養生活を送ることになるが、この左手の怪我はその後、彼を識別する重要なポイントになったという。

 1915年2月、彼はラホールでの決起を計画し実行するが、この計画は事前に英国官憲に漏れ、多くの同志が銃撃戦やその後の逮捕・処刑で命を落とすことになるが、彼自身は逮捕を免れる。しかし、これ以上インド国内で活動できないと悟ったボースは、当時、日露戦争に勝利し国力を高めつつあった極東の国日本への脱出を決意し、1915年5月12日、偽名の旅券により日本行きの船(日本郵船の讃岐丸)に乗船、ペナン、シンガポール、香港を経由し、6月5日神戸に到着する。この時、ボース29歳。日本は、彼にとって実質初めての外国滞在であったが、その後彼は二度と祖国インドに足を踏み入れることはなかったという。

 日本で、ボースは早速インド独立運動の関係者と接触する。既にこの時代、日本ではアメリカに本拠を置くガダル党が活動しており、その代表的活動家であるバグワール・シンは日本での武器調達等に関わり、また孫文とも面識があったという。ボースはこのシンを通じ、孫文とも面識を得る。しかし、日英同盟を結んでいた日本は、英国の要請でシンの動向を追いかけており、その筋からボースが偽名で日本に潜伏していることが判明すると、英国は直ちに日本政府に対しボースを逮捕し英国官憲に引き渡すよう圧力をかけてくる。

 日本政府がこの英国の要請をのらりくらりとはぐらかしていた要因が何であったのかは興味深いが、この間、ボースは別のインド人革命家ヘーランバ・ラール・グプターを通じ、当時まだ無名であった大川周明や、孫文の紹介を受け既に有名であった頭山満や寺尾亨らの右翼国家主義者との人脈を拡げることになる。しかし、1915年、大正天皇即位の礼に際し、日印交流の政治集会が開催されると、その反英的内容が問題となり、英国政府は激怒、ボースら首謀者の追放を要請し、日本政府も最早問題を先送りすることができなくなる。この日本政府の決定に対し、ボースと関係する有力者からの外務大臣レベルを含めた働きかけや、旧知の記者による東京朝日新聞等での論陣を含めた猛烈な反対の運動が繰り広げられるが、ついに追放期限が到来する。ここで「ボースとグプターの神隠し」事件が起こるのである。

 寺尾/頭山邸での送別の宴の中、尾行している公安の面前から忽然と姿を消したボースは、ここで新宿中村屋に匿われることになる。新聞でボースらの追放に憤った中村屋当主の相馬愛蔵が、危険を省みず旧知の人間に、彼らを匿うことを申し出ていたのである。相馬家の様子が語られるが、愛蔵以上に、妻の黒光はサロンを開催し芸術家の憧れとなるような先端的な女性であったようで、ボースはこの中村屋の敷地内にある窓のない暗いアトリエで3ヵ月半を過ごす傍ら(同時に匿われたグプターは、2ヶ月でここから逃亡し大川周明宅に跳びこむことになる)、インドカレーの製法を伝授することになる。

 天洋丸事件という英国との紛争を契機に、日本政府はボースらの英国への身柄引き渡しを行わないことを決定し、彼は晴れて警察の庇護を受ける身となり、中村屋を出る。しかし英国官憲は引続き彼を追っていたので、こうした追っ手からは身を隠し続けねばならなかったという。これを支えたのが玄洋社の志士たちで、また連絡役となった黒光の娘俊子は後にボースと結婚し、二子を設けることになる(が、俊子は肺炎のため27歳で死ぬ)。

 こうしてボースは玄洋社・黒龍会の支援を受けながら日本における精力的な「反英・インド独立運動」に邁進していく。「中村屋のボース」と題したこの本の3分の2は、それからのボースの活動を詳細に追いかけていくが、やはりここで興味深いのは、当時の右翼運動が、ボースのインド独立運動を始めとするアジア植民地独立運動を積極的に支援していったという事実の裏にある思想的背景である。例えば大川周明の出世作が、ボースらからの情報によって、当時としては最新且つ詳細なインドにおける独立運動に関する本であった、というのは初めて知った事実である。まさにこうした戦前右翼の西欧列強からの植民地解放という「アジア主義」は、現代の「アジア共同体」論を考える上でも、見ておかなければならない重要な論点であるが、著者は、結局彼らの活動は「あくまでも『皇室の敬重』を基盤とする日本ナショナリズムに依拠するもの」を出なかったため、中国や朝鮮における反発や抵抗を理解することができなかった、と見ている。まさに「独りよがりのアジア主義」である「心情的アジア主義」を越えることがなかったのである。彼らにとってボースの、「インド独立のために粉骨砕身活動する亡国の革命家の懸命な姿」は彼らの理想を体現した。しかし、彼らにとって「ボースがどのような思想の持ち主なのかは、全く関心となっていない。」結局日本のアジア主義は「思想的」基盤を欠いていたところに問題があったとされるのである。

 しかしボースは、こうした日本右翼の支援をフルに利用して活動を行っていく。皇室への敬意を含め、ボースの日本への適応力には目を見張るものがある。俊子との結婚を機会に日本に帰化し、日本語にも習熟し、雑誌への多くの論文寄稿や講演を行い(但し漢字は書けず、編集者が手を入れたという)、1920年代には彼の名前は日本の論壇では知られたものになっていった。しかし、同時に先程記載したアジア主義の関係では、ボースは「反帝国主義闘争が実を結ぶためにも、アジア諸国は連帯する必要があるとし、『東洋人連盟』実現の重要性を説く」と共に「日本が、明治維新以降(中略)有色友邦を失望せしめたのみならず、度々其の信頼に違背する行動があった」と批判している。まさに「西欧帝国主義からの解放が、新たな権力的抑圧を生み出してはならない」という至極まともな発想をボースは持っていたのである。但し、彼が「東洋人連盟」の中心的位置を占めるのが日本、中国、インドであるとし、これらの国の「精神的乃至思想的共通点」である精神主義により、西欧の物質主義を克服していこうと議論する時は、西欧思想等の理解の平板さや他の東南アジア諸国の無視といった側面があり、時代や彼の置かれた環境からすれば止むを得ないものかもしれないが、現代の我々がこの問題を考える時にはこの点はきちんと認識しなければならないだろう。

 1926年に開催された「第一回全亜細亜民族会議」にボースは中心メンバーとして関わっていくが、著者はこれも、日本の中国や朝鮮に対する帝国主義的支配への批判の欠如した「心情的アジア主義者たちの典型的なスローガン」に満ちた、アジアに対する「支配欲が見え隠れした」ものであったと考える。実際、会議では日本から中国に対する21か条要求の撤廃を巡る中国の要求や、韓国代表を巡る問題等で紛糾するが、「アジアの連帯」という観点から必死に妥協を試みたボースの努力で会議は終了する。しかし、以降「ボースはインド独立の達成を目的論的に追求する現実主義者として、日本の帝国主義的歩調に柔軟に対応」し、「日本での(中略)政治的影響力を獲得していく」が「その代償として、日本の帝国主義的姿勢に対する批判力を徐々に失い、インド本国の独立運動との間に大きな溝を作っていくことになる。」ボース、この時40歳であった。

 その後、彼は新たな雑誌を発行も含めた言論活動を続け、自らの宗教的心情も加えた思想を表明していくが、政治的には日本帝国主義との微妙な距離感の中で苦戦していく。彼の政治思想は、常に、インドの英国からの独立が最優先の目的で、日中戦争さえも、日本の軍事力によるインド独立の契機と考え、そのため英国の敵であるドイツ・イタリアとの連盟さえも歓迎した。そして、現実政治においては、彼は、ガンジーよりもチャンドラ・ボースに期待を寄せる。こうして太平洋戦争勃発によりインドシナに進出した日本の軍事力をもって、インドもいっきに英国から解放することを考えるようになるのである。日本軍が、「マレー工作」として、この地域にいるインド人をシンパとする工作(モハン・シンに率いられた「インド国民軍」の結成支援)をしたというのは、この作戦の裏面であるが、表の大きな活動としては、ボースが議長を務め、1942年6月にバンコクで開催されたインド解放のための「バンコク会議」が注目される。ここでは激論の末、インド国民軍をインド独立連盟の指揮下に入れることが正式決定され、ボースがその双方を指揮する正式な代表者となったという。しかし、日本軍がインド独立連盟に影響力を及ぼそうとする動きを見せ、その調整に尽力したボースは、国内で活動する国民会議派の影響力が強い人々からは日本軍の「傀儡」と見なされ、彼の求心力は低下したという。こうして日本軍(岩畔機関)とボース、インド国民軍指揮官のモーハン・シンとその一派、そしてインド独立連盟幹部の三者の間の疑心暗鬼が広がっていく。特に12月、日本軍がモーハン・シンを罷免、軟禁すると、独立連盟はボースを日本軍のただの繰り人形に過ぎないと見なすようになり、ボース個人の体調も極度のストレスから急速に悪化していった。

 低下する影響力を回復するため、彼はベルリンに滞在していた別の実力者チャンドラ・ボースをアジアに招聘する。ナチスと日本軍の潜水艦によるC.ボースの極秘の輸送作戦が展開される。日本での「二人のボース」の邂逅。1943年6月、シンガポールで、独立連盟代表がC.ボースへバトンタッチされ、同年9月、R.B.ボースは日本に帰国する。その体はこの1年で30キロ近くも痩せていたという。そして時折療養も取りながら、以降は日本でのインド独立活動を続けるが、1944年喀血。その時期、C.ボースが、かの有名な日本軍との「インパール作戦」を敢行し、決定的な失敗に終わる。しかし、日本でその結果を聞いたボースは、インド独立のため多くの血を流した日本軍に感謝こそすれ、決してこの作戦の失敗を非難することはなかったという。そして1945年1月、日本軍の敗戦が濃厚となる中、彼は脳溢血で倒れ、インドの独立を見ることなく58年の生涯を終えた。俊子との間に生まれた一男一女らがボースの最期を看取ったが、その長男も6月に沖縄戦で戦死したという。

 ボースの生涯を追いかけることで、既に長いスペースを費やしてしまったが、彼の生涯は、幾つかの興味深い問題群を提示している。それは何よりもアジアの植民地帝国としての英国に対する民族独立運動と戦前の日本右翼との関係であり、二つ目はそれを通じて、新たな経済グローバリズム(経済的帝国主義)の下での新たなアジア主義をどう展望するかという問題である。後者は、言わば現代のアジア共同体に対する我々の姿勢と展望の問題ということができる。

 前者については、著者が繰り返し指摘しているように、一方で日本の植民地支配を支持、あるいは積極的に主導しながら、欧米諸国による植民地支配を批判し、その解放を支援するという二枚舌が、戦前右翼の限界であったことは疑いない。しかし、それでも、当時のボースのような植民地解放運動指導者を支援した日本右翼の心情には、あえて共感できるものがあると言っておこう。その部分においては、彼らはリスクを犯してボースらの「神隠し」を行うなど、政府に対抗し、腹をすえて仁義を通したのである。また大川周明等が、積極的にアジア解放の論陣を張っていったことも、それなりに評価されることである。しかし繰り返しになるが、彼らは、その一方で自分たちが新たな植民地支配者となっていることに余りに無頓着であった。軍国主義日本は、彼らを政治的に利用し、欧米諸国から解放したアジア諸国の新たな支配者として君臨した。「大東亜共栄圏」はその支配のための隠れ蓑でしかなかったのである。「現実政治家」のボースが後年苦難したのが、この日本政府の「二枚舌」に気がついていたからであったことは間違いない。

 それでは、これを踏まえて二つ目の問題、新たな経済グローバリズム(経済的帝国主義)の下での新たなアジア主義をどう展望するのか。

 これに答えることが、これからしばらくシンガポールで働くことになる私自身の当面の課題となる。しかし、最低限言えることは、「経済グローバリズム」という形を変えた巧妙な「新帝国主義」に対して、アジア諸国は構造的な免疫を作る必要があり、そうした共通の利害を念頭において連携する必要は益々強まっている、という事実である。そしてその中における日本の指導力の形が、如何に他のアジア諸国の日本に対する警戒感を押さえられるものになるか、というのがその際の最大の鍵であろう。

 欧州統合がそうであったように、当然アジアにおいても個々の国家は夫々のエゴを持っており、また国内要因に起因する対外政策の拘束を受けることも多い。更に、個々の国の体制自体が、民主主義や自由経済から乖離したものであるケースも多い。こうした多様性の中で、日本が政治・経済・社会の夫々の側面において、アジア諸国の連携のためにどこまで力を発揮できるのか。そしてアジアの多様性を尊重しながら、共通の政策努力を進めることができるのか。まさに近々始まることになる私のシンガポール生活は、これを考える絶好の機会となる。ボースがインド解放のための基点のひとつとしたシンガポールで、彼の夢を時々思い浮かべながら、アジアの将来を考えるのはたいへん刺激的である。

読了:2008年3月22日