インド IT革命の驚異
著者:榊原 英資
8年前に出版された元財務官他による、IT革命に焦点を当てたインド経済の分析である。その後、一部はこの本でも言及されている2001−2年のITバブル崩壊を経て、足下はサブ・プライム問題とリーマン破綻を契機としたグローバル経済の低迷という道筋を辿っていった訳であるが、この本はまだインドがソフト開発のアウトソーシング先として注目を浴び始めていた時期のものであることから、我々はその後の展開とこの国の現状を踏まえて、この本に「歴史的な評価」を下すことができる。しかし、結論的に言えば、ブックオフで、100円で買った割には、インドに対する見方は決して現在でも古くなっていないし、また現在の視点から振り返って見ても、決してここでの分析と予想は的外れという訳ではないと言える。
プロローグとエピローグを除くと、全体は四章からなっているが、第一章がインドIT革命の総論、二章がそのフィールド・ワーク、三章が戦後インド経済の展開と現状の分析、そして四章でそのグローバル経済への影響と日本の対応を扱っている。二章と三章は、著者のチームの研究者が執筆している。
18世紀始め、インドが木綿製品で世界の最先端を走り、英国の木綿産業を壊滅状態に追い込んだことから、英国はインドの木綿の輸入禁止措置をとったという逸話からこの本は始まる。その後、産業革命で逆にインドの木綿産業が衰退し、そしてインド自体が英国の植民地となり経済発展が停滞していくのであるが、それから300年、再びインドがIT革命で世界の先端に立つ可能性が見えてきたという。それはどのようにして発生し、またどこへ向かっていくのだろうか?
IT技術自体は、米国が軍事産業への投資を行なう中から発展してきたが、それを担うソフトとしてのシステム・エンジニアは、シリコンバレーでも3−4割りが中国人かインド人だという。著者は、これを「情報・通信分野におけるアメリカとアジアのシナジー」と呼んでいるが、いわばアメリカはインド人たちの才能を吸収しながらその付加価値を安価で生産してきたと言えるのである。しかし、そこで「何故インド人」だったのか?
まずは有名な、インド人による「ゼロの発見」。6世紀のインドで、コンピューター科学の基礎である「零の発見」と「インド記数法」の確立があったというのは、一般的にインド人が「数学のような高度に抽象的で知的な学問が重んじられてきた」ことを物語っている。それに宗教・哲学という別の意味で抽象度の高い思考様式と、それを尊ぶ雰囲気。反面としての肉体労働を嫌う傾向。これはコンピューター科学への適応力の基礎にある要素であるとする。
加えて、インドの実務的な教育と英語力が、情報革命への適応力を高めることになる。面白いのは、インドの小学校では、日本の九九の代わりに19×19までを暗記させているという。更に大学や大学院でコンピューター・サイエンスを特に重視した教育を行っている。以前に読んだ本で、インドは、教育分野では、初等教育ではなく、高等教育に集中投資したことから、一部のエリートと大多数の文盲との格差が広がることになった、と書かれていたが、一部のエリートに関しては、それはインド人の数学能力を伸ばし、有効利用することになったといえる。
こうした中で、バンガロールを含むカルナタカ州を始めとする南部3州が、圧倒的に多くの人材を供給しているという。その中でも特にバンガロールは、そもそも軍事産業の拠点であったことと工科大学を有する科学技術の先端都市であったこともあり、米国からの帰国者を含め、ITベンチャーが生まれやすかったとしている。
こうした総論を受け、実際のインドのIT産業のフィールド・ワークが報告される。まずインドのIT産業の統計であるが、この本が書かれた時期1999年の統計で、インドの輸出額の約20%、逆にソフトウェアー産業の輸出比率は70%を占めるという。そして輸出先は、同じ年度で米国62%、欧州23.4%、日本は僅か3.5%と、「インドのソフトウェアー産業がアメリカにおけるIT革命の進展とのシナジーで、急速に成長した」ことを物語っている。
これだけの輸出産業としての地位を築いたのは、インドのソフトウェアー産業が高い品質であるという国際的評価を築いた結果であった。同じ時期に発生したY2K問題が、彼らにとってフォローの風になった。2000年問題対応での評価を受け、バンガロールのITセンターに対するGEの追加投資といった、外国企業による直接投資も急増する。
この産業を支える個別企業として、著者はウィプロ社を紹介しているが、創業者のプレムジはインドのゲーツとも言われ、この会社が2000年5月にNY証券取引所に上場したことにより、彼も億万長者になっている。この会社の成功の秘訣は、時差を利用した低コストで高品質のオフサイト・ソフト・サービス提供というビジネス・モデルであったという。またウィプロ社がITの総合型企業であるのに対し、そもそもシティバンクの子会社としてスタートしたアイ・フレックス社は専門業者として金融分野に特化したシステム開発で成長しているという。
こうした産業に人材を供給しているのが、前述の高等教育機関であるが、1999年で推計34万人のIT技術者は、2008年には250万人になると予想されている。既にその2008年を越えた現在、これがどのくらいの規模になっているのかは興味深いところである。
もうひとつ、インドのIT産業の成長を支えたのは、政府による優遇処置であった。それはコンピューター・ソフトウェアーの輸入関税の免除やソフト輸出から得られる所得の税控除措置、テクノロジー・パークに進出した企業の10年間の所得税免税、コンピューター機器の減価償却の加速化、更にはコンピューター・ソフトウェアーに対する物品税・サービス税の無税化といったものである。他方、ソフト関連の著作権法の強化も同時に進められたという。著者は、その内、カルナタカ州にあるソフトウェアー・テクノロジー・パーク(STP)を実査しているが、そこでは高速通信網を含めたインフラが十分に整備されているのみならず住宅、ショッピング・モール、病院、フィットネス・センター等が完備され、外部と隔絶された一つの町を形成しているという。また興味深いことに、1992年頃、このSTP開発を主導したのが当時のシンガポールの首相ゴーチョクトンで、開発は州政府、タタ・グループに加え、シンガポール政府系のデベロッパーが参加したとのことである。最近は中国での工場団地開発に積極的に関わっているシンガポールであるが、同時にインドにも早い段階から関与していたというのも、この国の戦略的外交の姿を物語っていると言える。
他方、1999年10月に設置された情報技術省(IT省)の大臣は、ソフトウェアー産業の更なる成長を目標に掲げると共に、併せてハード部門の育成も課題としたという。これだけのソフトウェアー産業と技術者をもちながらも、インド国内におけるパソコンの普及率は低く、それどころか家庭への電話の普及さえ進まず、街角に公共の電話屋が数多存在するというインド社会の歪な姿こそがこの国の変わらぬ根本問題なのである。既に述べた通り、別に掲載している最近のインド関連本でも指摘されているが、一部の富裕層と大多数の貧困層が共存するこの社会は、デジタル革命においても一部の最先端技術と大多数のそれを享受できない人々の、いわゆる「デジタル・デバイド」を拡大させているのである。こうした格差を埋める契機も、やはりこのIT技術・産業にしかない、ということで、筆者は、そこではITを梃子にした新たな形の経済成長を模索する実験が行なわれていると見る。しかし、この本が書かれてから10年、この格差が大きく縮まったという話しは聞こえてこない。それどころか、最近は、ある大手インドIT企業の粉飾決算と、その総帥の詐欺罪での逮捕をきっかけに、インドIT企業の財務の健全性や信頼性に大きな懸念が投げかけられるという事件も発生している。IT革命から10年、ここで大きく賞賛されたインドのIT産業は、大きな壁に突き当たっていると言えるのかもしれない。
こうしたインド経済のマクロの歩みが、次の章で説明されるが、ポイントは、戦後ほとんど一貫して内向的・閉鎖的な経済政策を取ってきたインドが、1991年にようやく経済自由化に舵を切るまでとその後の展開を確認することである。
1947年の独立を受け、49年に憲法が制定されるが、前文では「主権的・社会主義的・政教分離の民主国家」とうたわれる。「友愛」(最近よく聞く言葉である!)に基づく社会主義が初代首相ネールの理想であり、旧ソ連型の産業国有化による重工業化が経済政策の基本となる。しかしそれは完全な国有化政策ではなく「国家主導の混合経済」であり、60年代から90年代を通じ、常に5割以上の民間セクターが存在していたという。この経済政策が結果的にインド経済を疲弊させることになったが、その理由として筆者は、@公共部門優先政策による公的部門の肥大化、A産業認可制度に見られる民間セクターに対する厳しい規制、B内向的な輸入代替化政策による国内企業の非効率性と低生産性の助長、C経済開発目標の多元化による開発資本の分散が挙げている。
この結果、1951年から始まった数次にわたる5ヵ年計画は、当初から2−4%の成長と低調で(「ヒンズー的成長」と揶揄されたという)、更にこの時期からインドが独立後40年間に渡って一貫して悩まされる経常赤字と財政赤字の萌芽が現れてきたという。また制約的な資金の配分をコントロールするため導入された産業許認可制と輸出認可制が、国内外の競争に抑制的に働き、ライセンス企業には(楽をしての)高利潤を与えることにより、産業の国際競争力低下の主因になったのである。
60年代後半から70年代にかけてのインディラ・ガンジー政権の時代は、特にインドの「失われた10年」として記憶されているという。この時期、インドは政治的には、中印国境紛争やカシミール帰属を巡るパキスタンとの紛争を始めとする武力抗争に巻き込まれ、また経済的には65,66年と二年連続の旱魃で、そもそも軽視されてきた農業部門が壊滅的な打撃を受けることになる。穀物食料輸入に貴重な外貨を使用せざるを得なくなったことから、資本財や技術輸入を抑制せざるを得ず、その結果工業生産も大きく減少することになる。66−80年の成長率は年平均4.2%と低下し、政府と学者の間で「工業停滞論争」が起こったという。当然外貨準備も枯渇し、西欧諸国からルピー切り上げや経済自由化への圧力も強まることになる。そうした中、パキスタンとの紛争で、米国がパキスタンを支援したこともあり、インドは西欧諸国と距離を置き、ソ連に接近していくのである。
しかし食料自給問題については、60年代後半から普及し始めた米と小麦の高収量品種(「奇跡の種子」)と新農法(「緑の革命」)により改善することになり、70年代終わりには輸入体質の脱却、80年代に余剰、90年には輸出に回す余裕までできたという。但し
この農業革命は、英国統治時代からある程度の灌漑設備が整っていたインダス・ガンジス流域が中心であったことから、それ以外の地域との格差を生むことになり、これが原因となり政権交代することも多かったという(77年の国民会議派の敗北・下野等)。
81年に政権に復帰したインディラ・ガンジー、及び彼女が暗殺された後、跡を継いだラジブ・ガンジーのもとで、再び工業化に舵が切られる。81年の経済危機をIMFの緊急融資で乗り切った(この際、借り入れの条件として若干の経済自由化が行なわれるが、それは最低限に留まった)後、再び5−6%台の巡航速度に戻るが、半面で経常収支と財政収支の悪化には拍車がかかることになる。
こうしてラジブが暗殺された後の選挙で政権に復帰した国民会議派のナラシムハ・ラオ首相が、IMFの支援も含めた本格的な経済自由化に踏み出すことになる。特に当時の蔵相であり、現在の首相であるマンモハン・シンが主導的な役割を果たしたという。具体的には、二割近いルピーの切り下げに始まり、@産業許認可制度、輸入許認可制度の事実上の撤廃、A公的部門独占事業の民間への開放、B輸出補助金の撤廃、C平均関税率の大幅引き上げ、D外貨出資比率制限の緩和等であった。そしてこの新経済政策(NEP)自体は、IT産業支援を強く意識していたとは言えないにしても、結果的には1984年のラジブによる「コンピューター産業育成策」とも相まって、その後のインドIT産業の成長の誘因になったことは間違いない。
著者は、従来の社会主義政策から大きく転換する契機となったこのNEPにつき、細かく報告しているが、それは省略する。しかし、現在の私の仕事の関係で重要な事実は、これ以降、資本市場への外国資金の流入を促進する政策も同時に取られたことである。そもそもムンバイ証券取引所は、1875年にアジア最古の証券取引所として設立され、その他23箇所の取引所が存在したが、1994年国立証券取引所(NSE)が設置され、こうした地方の証券取引所を繋ぐコンピューター取引センターとして、現在はこの取引所に取引が集中するようになっている。また派生商品や外国資金の投資促進策も矢継ぎ早に整備されて現在に至っているという。
1997−8年のアジア通貨危機を、為替管理政策で乗り切った後、インド経済は現在に至るまで、大きな混乱はなく推移しているように見える。今回のサブ・プライム、リーマン・ショックでも、インド株式市場はそれまで高騰していたこともあり、株価自体は大きく調整したが、国内経済の構造問題となる事態は避けられている。
インドの経済成長路線は、他のアジア諸国のように、日本を先頭とした「雁行形態」による、労働集約型→資本集約型→技術・知識集約型の成長路線とは異なる自助型の成長路線であった。それは91年以降、それなりの成長を促したが、他方で一般の医療・教育の充実や貧困の絶滅という課題は引続き残っている。それに対応した戦略が、ここで取り上げられているIT産業に牽引される経済成長路線であると考えられるのである。「人口増加率が年率2%を超え、毎年マレーシアの総人口に匹敵する数の人口が増えていく」状態で、人口の7割に及ぶという貧困と戦うには、それなりに成長している中間層、IT産業からの利益を分配することにより購買力を強化し、経済全般のパイを広げることで、貧困の解消につながる方法しかないという考え方である。IT産業が、巨額の資本を必要としないことも、「時間をかけずに中間層を育成する」というインドの経済的ニーズにマッチしているということも筆者は指摘している。
こうして最後は、グローバル経済の中でのインド、ないしはアジア全般の役割を総括して、この本の結論としている。
言うまでもなく21世紀のアジアの課題は、この地域の2大人口大国である中国とインドの台頭であり、IT化の流れは、こうした国を含めたアジアの新たな分業体制化を更に急速に推し進めることになる。これは別の見方をすれば「アメリカン・ヘゲモニー」の弱体化であり、それは「情報化を伴った新しい«中世»」とも言える世界に入ると筆者は予想する。そこでは、「一つの地域、一つの国では、たとえマイノリティであっても、世界的にネットワーク化されることによってグローバルな影響力を持ち得るわけだし、一地域では強力なエスニック・グループも、ネットワークを使えば、グローバルにその主張を展開できる」のである。こうした求心力と遠心力が働く情報社会の中で、インドが今後どのような役割を果たしていくのか?そして翻って、「鎖国国家」日本が、こうした流れの中で、どのような対応ができるのか?外国人技術者・労働者の受け入れ問題を含め、この本でインド情報産業の報告を通じて予見されている未来は、この本が書かれて10年経った今も、まだ我々が真剣に立ち向かわねばならない問題を提起していると言える。
読了:2009年10月4日