ヒンドゥー教 インドの聖と俗
著者:森本 達雄
ビジネスでインドに注目している日々であるが、今まで現代のインドの政治・経済・社会の概説書は何冊か読んできたものの、その中でもっとも「インド的」な部分であるヒンドゥー教の世界はあまり詳しく見てこなかった。それが現在のインドの政治・経済・社会で発生する色々な事象の通奏低音として存在しているのは確かであるが、それが具体的にどのようなものであるかは、必ずしも分かっているとは言い難かったのである。そうしたこともあり、今回は、その宗教そのものを説明した新書を読むことになった。そして、その結果、改めてインド社会の基底にあるこの宗教の果てしない深淵を覗き見ると共に、そこには確かにこの国を見る時に、ある種の宗教社会学的なアプローチの余地があることが分かったのである。
著者は、若い頃にガンジーの非暴力抵抗運動の映画を見てインド研究を志し、その後詩人のタゴールやガンジーの研究に長く従事してきたインド研究の重鎮。本書は、彼のそうしたインド研究の総括となるべきものであるという。
実際に、この本で取り上げられるヒンドゥー教の側面は多岐に渡る。プロローグでの、この宗教の日本との関わりから始まり、この概要、歴史、エートス(教義の内容)、そしてその宗教に帰依した人間たちの実際の生活と解脱への道を解説した後、最後は近代に生きたある聖者の姿を紹介して終わる。特に、後半に描かれる実際の人々の姿に入ってくると、この宗教が俄然リアリティを増し、そして解脱への道まで読み進めると、何故今までインドが多くの人々を魅了してきたか、ということが分かりかけてくる。まさに、この国が持つ不思議な魅力の本質に迫ってくると感じられるのである。こうした全体観を持ちながら、細部に入っていこう。
まず日本の民間宗教への影響。七福神として日本人に親しまれている神々のうち、弁才天(弁天)、大黒天、毘沙門天、吉祥天の四神が、ヒンドゥー起源の神であるという。弁天様はインドのヴィーナーという女神、大黒様は、それこそヒンドゥーの主要な神であるシヴァ神の別名「マハーカーラ」の直訳であるという。また仏教を通じて日本に持ち込まれた輪廻転生思想は、明らかにヒンドゥーが起源であるという。確かに、仏教もヒンドゥーも共にインドが起源であることを考えれば、日本にそれと気がつかずに持ち込まれているヒンドゥー起源の慣習があることは当然である。
それでは、ヒンドゥー教とは如何なる宗教なのか?一言で言えば、それはキリスト教やイスラム教等の他の世界宗教と異なり、特定の開祖や統一された「聖典」、そして「全体に通用する明確な教義・教理」の存在しない、ある種の生活習慣そのものである。あるいは著者は「ヒンドゥー教とは、ヒンドゥーの個人と社会をつらぬく生命原理である」と表現しているが、それは、西欧的な「宗教」概念に留まることのない、そしてそれ故に、それに帰依した者にとっては、その生を全体的に覆い尽くす、とてつもなく大きな行動指針・生活原理になるのである。
こうした漠たる生活習慣であり、また神話世界でもあるヒンドゥーの一端を、著者はまず軽いタッチで紹介する。前者は、例えば商店主による長い祈りの間待たされた経験や、男根を象った石像である「リンガ」に毎日祈りを捧げる女たちの姿であり、また後者は古代の二大叙事詩「マハーバーラタ」と「ラーマーナヤ」に登場するシヴァやカーリーといった「横暴で身勝手、エロチックでふしだらな神々たち」の物語である。しかし、信者が崇拝するのは、「そうした神話に登場する英雄たちのパーソナリティそのものではなく、彼らによって表された人知を超えた大いなる力であり、人間や社会の運命を支配する目に見えない意志である」ということである。
こうして軽くこの宗教を紹介した上で、次にこの宗教の歴史を遡ることになるが、それは言わばインドの歴史そのものである。即ち、英国植民地時代に、発掘が始まったインダス文明の解読から始まり、その後、アーリア人が先住異民族を次々と征服し、パンジャブ地方を中心に勢力を固めた様子が説明される。この経緯がインド最古の文献である「リグ・ヴェーダ」の中での軍神インドラ(仏教の「帝釈天」となった)による悪魔退治の神話として伝えられている他、ここでは「アーリア人がインドに到来する以前から、司祭たちによって代々口づてに伝えられてきた数々の祈願や賛歌も含まれている」という。そして紀元前500年ごろまでには、この「リグ・ヴェーダ」に加え3つのヴェーダが順次編纂され、「ヴェーダ聖典」が完成することになったという。しかし、これらは基本的に「口承」で伝承され、文字に落とされたのは紀元8世紀頃になってからであった。そしてここでの言葉は、「人間が思惟し語ったものではなく、世界が存在する以前から存在し、現在も未来も、そして世界が滅び去った後までも永劫に存在しつづける不変の真理」と看做され、現代においてもこの「天啓の書」である4つのヴェーダを暗記し、唱えることがバラモンの重要な任務とされているということである。
こうしたヴェーダの神々は自然現象を神格化したものであり、日本の神話やギリシャ神話の世界と類似性を持っているのは面白い。著者は、こうした神々を敬う古代ヴェーダ人の祭忌で現在までに伝えられている「アルポナ」(美しい装飾模様の神々の御座(祭壇))や「アグニ崇拝」(拝火思想・儀礼)、ソーマ祭(ソーマと呼ばれる薬草をすり潰した液体を神々に捧げる儀式。幻覚剤の一種と言われる)、アシュヴァメーダ(馬祀祭りー動物供犠)等について逐次説明をしている。
こうした古代アーリア人の宗教は、西欧のインド史家に「バラモン教」と呼ばれているが、これが紀元前5世紀前後から反ヴェーダ的な新しい宗教として勃興したジャイナ教や仏教との緊張関係の中で大衆化され、民族宗教として形成されていったというのが、ヒンドゥー教の歴史的成立過程であったと言う。
そして、いよいよこの宗教の実態についての説明に入る。まさに普遍的な宇宙観であり、また生活習慣であるこの宗教の、多くの場合に極端で特異でもあるエートスが語られる。詳細は省略するが、例えば「浄・不浄観」ということでは、極度なまでに「死と血を忌み嫌う」傾向。どの世界にもあるこの傾向が、「カーストの上下関係が、そのまま穢れの濃淡と比例する」形を取り、不可触民差別に繋がると共に、上位カーストは逆にこの穢れの伝播を極度に恐れることになると言う。これがガンジス崇拝と沐浴による「心の穢れや罪の清め」を促す。何故なら、ガンジス川は、もともと「天界の各地を滔々と流れる川」で、それが神の一人により地上にもたらされたものであるからである。聖牛崇拝は、「実用的な価値観に発し、神話や信仰はあとから加えられた。」この文化では、牛の成長段階により様々な呼び方があるとのことであるが、「一つの動物について、これほど多くの語彙を持った民族は他にない」といわれるほどである。そしてその聖牛崇拝を強くしたのが、「単なる牛飼い」に過ぎないが、一方で「宇宙の創造主の化身」という神話の英雄でもある、クリシュナ(前七世紀以前の実在の人物であるという)に対する伝説であった。バラモン教の大衆化の過程で、このクリシュナが「より身近な英雄」として、「複雑な神々の系譜」に置き換わる形で、最高神ヴィシュヌの化身と看做されるようになっていったというのである。60年代末の欧米ロック・ミュージシャンたちも大きな影響を受けた「ハレ・クリシュナ」の歴史を、それから40年以上経った今、こうして改めて学び直しているというのも感慨深いものである。
そして次は、こうしたエートスを基礎にした日常生活の詳細である。まず語られるのは、最終的な解脱に向けた通過儀礼である、学生期、家住期、林住期、遊行期からなる「四住期」と呼ばれる習慣である。またサティー(「寡婦焚死」)等の悲惨な習慣を生みだしてきたヒンドゥーの女性観とその社会的位置についても詳細に語られている。
前者の人生の通過儀礼は、日本人を含め、どの文化にもそれなりに存在し、伝統とそれの風化が常に語られる世界である。しかし、ヒンドゥーの通過儀礼を特殊なものにしているのは、人生の最終段階で完成期である「遊行期」での信者たちの振る舞いであろう。もちろん、全てのインド人がそうである訳ではないだろうが、かつて政府の要職を務めたり、実業界の大御所であった人々が、退職後、それこそ全てを捨てた隠居・出家生活―極端な場合は、乞食をしたり、穴倉生活に入るーを送るケースが多く見られるという。そしてそうした人々が、ベナレスに移り、ガンジスの畔で静かな最期を迎えるというのである。
これがまさに「インド的解脱」への道である。著者は「自主的な現世放棄者」である「サードゥ」の様々な姿を紹介しているが、これはまさに60年代のインドへの強い関心の核心にあったものである。「普遍的な宇宙との合一」という観念は、特に芸術家にとっては抗し難い魅力的な世界であり、また他方でそれを求めて現世放棄の戦いに入るサードゥには、極端な奇行に走る者も多く、また超能力や霊能力を巡り詐欺師まがいの胡散臭い輩も登場することになり、それこそ話題に事欠かないことになる。著者も、霊能力を行使する高名なサードゥの話しから、普通の人間が民衆によりサードゥに祭り上げられる悲喜劇小説まで、色々なエピソードを紹介しているが、まさにこれがインドの神秘であり、また一歩間違えれば単なる奇行や詐欺行為にもなり得るような世界が、現在でもまだ存在しているという訳である。
また、ここシンガポールのみならず、世界各地で人気を増しているヨーガも、もともとは「心身の鍛練によって肉体を制御し、精神を統一して人生究極の目標である「解脱」に至ろうとする宗教行為」であり、この経典である「ヨーガ・スートラ」は紀元前五世紀に既に編纂されていたという。そしてこうした瞑想型の静的なヨーガとは別に、肉体的・生理的な鍛練を目指す「ハータ・ヨーガ」と呼ばれる流派も存在し、こちらが、現代の「ヨーガ教室」に連なると共に、他方では曲芸まがいのポーズを追求する、もう一つの極端なインドを示現することになる。著者は、こうしたヨーガの思想も詳述しているが、それは省略する。
こうしたインドの神秘的世界を慫慂した後、著者は、そうした極端なヒンドゥーの教理に従いながらも、民衆の支持を得たサードゥの何人かを紹介している。15世紀末に地方豪族の王女として生まれながら、若くして寡婦になり、夫を悼む多くの詩歌を残したミーラー・バーイー、17世紀の宗教思想家・詩人トゥーカーラーム等。そしてガンジーが愛謡したというクリシュナ神を崇拝するバクティ派の詩人の詩歌なども紹介する。そして輪廻転生思想と、それからの最終的脱却としての解脱に至る三つの道を解説した後、彼が最も心に残る修道者としてのシュリー・ラーマクリシュナの生涯を紹介し、この作品を終える。
前半の理論的部分は、比較的冷静に読めるが、後半、まさにその教義の現実生活での実現という話になると、よりリアルな世界に入る。そして、言わば「宇宙との合一」という思索が、日常の営為を通じて体験できるかもしれない、というインド思想の神髄が、ここで明らかになるのである。巻末の参考文献リストを見ていると、この世界について日本語文献だけでも、いかに多くの研究が行われ、本が出版されてきたかを思い知らされる。実際、自分の少し離れた周辺でも、インド哲学研究家の話しは時折耳にしていたが、まさにこうした魅力を放つ世界なのである。60年末、ビートルズから始まり、カルロス・サンタナやジョン・マクローリン等、インド音楽のみならず、その思想に傾倒したミュージシャンには枚挙にいとまがないが、まさにその背景にあったのは、この世界が、普遍と日常生活を結び付ける強いモティベーションを持っていたからである。
他方で、ヒンドゥーが人生での努力目標とした三大目的(「トリヴァルガ」)は、法(ダルマ)、利益(アルタ)、そして愛欲(カーマ)であるが、この中に「利益」を含めたことにより、解脱という究極目標とは別に、人生の活動期において現世での成功を認める哲学となり、それが商売におけるポジティブな姿勢をもたらしたという指摘は、ある意味で、ウェーバー的な「資本主義的精神」を連想させる。彼らがビジネスの世界でも徹底的に議論をする傾向があり、時としてこちらをうんざりさせることがあるが、それがこうした宗教的伝統に根ざしているとすれば、それは如何ともしがたく、こちらもそれを前提として対応せざるを得ないだろう。いずれにしろ、新書の割には、神秘と悠久のインドの宗教・思想世界の一端に入ったという感じを抱かせる、インパクトの大きな作品であった。
読了:2010年5月3日