アジア・ドイツ読書日誌と
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アジア読書日記
インド
インドのことはインド人に聞け! 
著者:中島 岳志 
 「中村屋のボーズ」の著者によるインド関係の最新刊である。新聞の書評で、この著者の作品が同時に2冊取り上げられており、その内の気楽そうな一冊を一時帰国時に調達したのだが、「ボーズ」が明治から大正にかけての日本の右翼とインド独立運動をダイナミックに描いているのに対し、こっちの本は実に気楽な本であったため、やや拍子抜けした、というのが正直なところであった。実際、著者が自ら執筆している部分は、最終章の短い紀行文だけであり、それ以外は、インドの雑誌等に掲載された現代インドの諸問題に関する記事の翻訳である。しかも、その記事の選択は、どちらかというと、インドの特殊性に重点を置いたものではなく、むしろインド社会の「中産階級化・消費社会化」に伴う新たな社会問題が、例えば日本が直面しているそれとそれほど変わらない、という観点から行われているように思えるくらいである。その意味では、インドにある種のエキゾチズムを求めるような欲求はこの本では満たされることがなく、むしろインドの近代化を印象付けるような意図が感じられるものになっている。以下にいくつか、そうした例を抽出してみよう。

 まず第一章。「消費社会化するインド」でまず取り上げられるのは、所謂「ゲーテッド・コミュニティ」である。米国でも「要塞都市(Fortress City)」と呼ばれる、周辺から隔絶され、治安管理から日用品の購入まで、日常生活が完結して遂行できるこうした町は、地域内での所得格差が拡大し、社会インフラに対する期待度が異なる場合に発生するのだろうが、まさにインドでこうした地域が開発され、中産階級の「亡命」場所になっているというのである。あるゲーテッド・コニュニティでは、650あまりの家族を、85人ほどの警備員と96台の監視カメラが守っており、「ゴミのポイ捨てを禁止する看板」が立っているところなどは「まるでシンガポールのようだ」という。

 また「何十万uという土地に、建物が一気に造られる」「総合居住区」という町の建設も進んでいるが、これは周辺部との調和を考える必要のない、全く新たな町造りである。バンガロールにあるこうした空間の設計を行っているのはシンガポールの企業であるという。

 予想されるように、こうした空間は「不平等の新たな指標を生みだし、格差をこれまでにない方法で目立たせている」、という批判を受けることになる。更に大きな問題は、こうした風潮が、社会全体の公平な発展に協力しようと言う「公共性」を喪失させていくことであろう。米国などは、そもそも「格差は当然」という社会意識があるので、こうした隔絶された空間への社会的抵抗感はないのだろうが、例えば日本でこうした空間が出来たら相当の非難の対象になるであろう。せいぜいが「六本木ヒルズ」といった「高級マンション」程度が許容範囲である。インドの場合に、そもそもの宗教的な平等観から考えると、こうした空間に対する社会的反発がどの程度大きいのか、というのが気になるところである。しかし、一般地域のインフラや治安が極端に悪いとすると、拡大する中産階級が自力での治安管理やインフラ整備を享受しようとするのも許容されるのではないか?いずれにしろ「中産階級化・消費社会化」するインドの新たな社会的側面である。

 こうした「中産階級化・消費社会化」は、健康管理への高い関心を持つ新世代向けのヘルシーな加工食品ブームを生んでいるという。「無脂肪」や「無糖」といった健康志向食品から、「知能の発達を助ける」食品まで、需要は拡大している。これに対し伝統的な栄養士は、伝統的な家庭料理の方が栄養バランスはとれる、と主張しているようだが、食生活の変化という日本でもある現象は、インドでも例外ではない、ということである。

 そして最後に美容ビジネスの拡大。これもいまや「有名人や富裕層だけの特権ではない。」そして例えば、現在はまだ香港(40ドル)やマレーシア、台湾(各10ドル)よりも少ない人口一人当たりのブランド化粧品の消費額(0.68ドル)は、今後の労働人口の急増(2005−2015年で、約77百万人増加と予想)と個人の支出の中での比率増加により確実に増えると言われている。中国で女性に化粧の習慣を広めてブランドとしての確立に成功した資生堂のような企業ベースの動きが、今後インドでも出てくるかもしれないと思われる。フィットネスクラブの需要増大も、先進国全体で見られる「中産階級化・消費社会化」の傾向である。こうした中産階級化するインドで起こっている変化は、我々が日本でも観察している現象とそれ程大差があるものではない。

 現代化に伴い当然、結婚観や家庭観も変わっていく。親が、出身カーストや占星術師の助けを借りて結婚相手を見つけるという伝統的な手法を、若い世代は無視し、自分の選択権を主張し始めている。結婚サイトへの登録者数の増加は、彼らが新たな出会いの場を求めていることの表れであるが、インドの場合それは、日本の「婚活」のように、結婚年齢の高齢化に伴う現象とはやや違うのだろうという感じがする。但し、「カースト(家柄)」から「相性、教育、キャリア、趣味」へという、相手に求める基準の変化は、日本でもよく言われることである。もちろん打算的な思いも残っているというのも、どこでも同じである。

 こうした結婚の現代化の対極にあるのは「幼児婚」と呼ばれるインド固有の現象である(ヒンドゥー婚姻法上の女性の結婚年齢は18歳)。宗教儀式や寄り合いでのけ者にされる小学校2年生の「未亡人」。あるいは、通常の年齢で結婚しても、早く夫に先立たれた寡婦には厳しい生活が待ち構えている。農村部中心にまだ残るこうした伝統の被害者を救済する政党や宗教組織は限られているという。

 別の現代的問題は、子供の自殺率の増加であるという。インドでは、日本のようないじめ主因というよりも、試験ストレスからのそれが多いという。中産階級化と、勉強の競争に耐えられないと、その中産階級から転落するかもしれないという不安が、勉強に駆り立てられる子供たちのプレッシャーになっているという。更に核家族化の進行による家庭の崩壊が自殺以外の子供の犯罪の増加ももたらしているという。ゲームやネットを通じて「ハイテク化」した子供たちについていけない親たち。しかし、これもある程度はどこでも見られる現象である。

 インド社会の最も強い社会規範である宗教世界にも変化が見られるという。例えば、世界的に活動するヨーガ伝道師が設立したアート・オブ・リビングという財団のバンガロールの本部は新たな修行者のメッカになっているというが、そこを訪れる修行者たちは主としてIT業界で働く技術者やエンジニアたちであるという。物質的世界で成功した人間たちが、新たな霊的救済を求めて、こうした新興宗教に殺到している。都市にはこうした人々のための大規模な寺院(クリシュナ意識国際教会等)が建設され、週末に瞑想等の修業を行い、月曜日からまた俗世間に戻っていく。それは共同体の寺院に参拝するという伝統的な行動ではなく、都市におけるヒンドゥーの枠内で新たな「自分好みの宗教」を求める行動である。こうした流れに乗り、例えばインド創価学会(BSG)は、既に38000人を越える会員を獲得している。「中国式ヨーガ」である太極拳や日本人が生み出した民間療法である「レイキ」等も人気があるという。一方で、低位カースト出身者の中には「尊厳ある人生を歩むため」に、ヒンドゥー教を捨てて仏教などに改宗する人も増えているが、他方で中産階級のヒンドゥー教徒のための豪華な「巡礼パッケージ・ツアー」が売れているという。ヒマヤラ山麓にあるウッタラカンド州のハリドゥワールは、こうしたツアー巡礼客のメッカである。こうした中、宗教テレビ・チャンネルを通じて「スピリチャル改革」を宣言した著名なヨーガ伝道師は、政治的な影響力を持ち始めている。そして最後にニューデリーでの爆弾テロを実行したイスラーム・テロリストたちの素顔。彼らは高学歴の「普通の学生」であったというのも、オーム事件等で日本でも見られた現象である。

 最高の教育法としての「自宅教育」。競争社会から離れた新たな国を担う個性の育成か、それとも社会性の欠如した個性の誕生か?インドにおける教育方式が多様化している。「公文式」も人気があるという。また我々がいつも苦しめられている「インド英語」の習得も、実はインドの多くの若者にとっては結構大きな壁であり、それを巡って自殺者が出たり、英語力を求められるBPO企業で、英語力不足で応募者の90%以上が不採用になるという例があるという。インド人だから英語が出来る、という訳ではないようである。そして国際的な英語を身につければ待遇の良い仕事につけるという幻想が、怪しげな語学学校が林立する要因にもなっている。学校での英語教育をどのように改善するかが常に議論になっているというのも、実は日本の状況とそれ程大差はない。但し、日本よりも早く優秀な頭脳が欧米に流出していたが、インドの経済発展と共に、彼らの「帰国現象」が発生しているというのは日本とはやや異なる。インド工科大学を始めとし、国内の研究施設や研究予算が充実したことにより、給料は安くとも故郷で研究し、国に貢献したいと考える人々が増えているのである。かつて90年代、フランスの大学で1週間のビジネス・コースに参加した際、その教師の一人である優秀なインド人(ロンドン・ビジネス・スクールの教師であったが)が、「故郷カルカッタの気候は研究に向いていない」と言っていたのを思い出す。気候は変わらなくても研究環境は変わったということであろう。

 こうした大学での教育環境の改善は、他方で「教育渋滞」と呼ばれる、インド各地での専門大学や専門学校の乱立状態をもたらしているという。バンガロールだけでも、工学系の大学専門学校が25校、法学系14校、医学系11校等、計92校がひしめきあっている。ハイデラバードでは70校あり、学生数は12万人という。工学系の教育機関が集中しているマハラシュトラ州には実に1300以上の工科大学があり、別に認可されていないものも多数あり、且つ日々増えているという。まさに教育バブル状態であるが、これもある種、日本のベビーブーマーが青年に達した際によく言われた「駅弁大学」の興隆と軌跡を同じくする可能性はあるだろう。しかし、日本のベビーブーマー世代と同様に、エネルギーに溢れたこうしたインドの若者人口の増加が、経済を刺激するであろうことは間違いない。人口動態は、確かにインドの成長を予感させる。

 記事紹介の最後は、インド発の文化ということで、ボリウッド映画が取り上げられる。90年代前半までは、マフィアがインド映画界に深く関与していたが、90年代半ば以降、合法的な企業資金が流れ込み産業として認知され、続いてシネコンの成長が、内容の質的向上と大衆化に貢献したという。かつての単純な娯楽映画だけの世界から、社会的問題を取り上げる作品も含めテーマは拡大し、女性監督も進出している。かつて私が感銘した「サラーム・ボンベイ」もゾロアスター教徒の少数派出身のスーニー・ターラープルワーラーという女性監督の作品だ。この監督を始め、その他の女性監督の最近の作品も幾つか紹介されているが、今後これらを見る機会を探ってみたいと思う。また最近の話題作「スラムドック$ミリオネア」は、アカデミー賞の作曲賞・歌曲賞を受章したが、昔からインド人観客に人気のある映画音楽も、甲高い女性ボーカルに象徴される伝統的なインド音楽から少しずつ変わってきているという。しかし、ハリウッドやインドの知識人が絶賛した「スラムドック$ミリオネア」は、賛否両論があるようで、この本ではこの映画に批判的な論評が二つ収められている。それは、この作品が舞台とするスラムを、「活力と冒険心、人間の精神力の勝利を象徴する」場所として描き、そこに「芳香」を投げかけた、と批判する。「スラムは醜く、暗く、非衛生的で犯罪が蔓延る場所」で「破綻した国家の象徴である」という。またもう一人の監督は、この映画が描くスラムは現実の姿からかけ離れているとし、世界がこの映画を評価したのは「世界がインドをよく知らないからだ。インドはソマリアではない」とする。これに対する私自身の感想は、まだこの映画を見る機会を逃していることもあり、ここでは留保させてもらうことにする。

 そして最後に、著者・編者による、デリーを中心としたインド紀行。ここでも著者の視線は、変わりゆくインド、モダンへの転換を中心に、例えば清潔で広大なショッピング・モール、「宗教のディズニーランド」ことアクシャルダーム寺院、郊外の大規模高級マンションの建設現場、都市住民が懐かしい「虚構のインド的風景」楽しむ軽食屋、そして近代建築の雄「ル・コルビュジエ」が設計した現代都市チャンディーガルの現在の姿など。基本的には、日本と変わらないインド中間層の成長がインドを変えていく姿が語られている。

 こうして見てくると、改めて、この作品では、インドがむしろ若干時間的には遅れてではあるが、しかし急速に日本が抱えているのと同じ問題に直面し始めていることが分かる。しかし、同時に多民族、多宗教からなる12億人を越える巨大な人口を要するこの国が、日本のような地域的に限定された単一民族社会とは構造的に異なる要素を限りなく持っていることも間違いない。その意味で、この作品と同時に発表された「ガンディーからの〈問い〉」の方が、こうしたインド社会の現代化と文化的・宗教的特殊性のより厳しい軋轢に対する著者の考察を示しているのではないかという気がする。この作品は、そうした考察に向けての一つの素材と考えた方が良いのではないだろうか。

読了:2010年6月9日