インド財閥のすべて
著者:須貝 信一
この本は、出張で滞在中のブルネイのホテルで読了した。仕事面では、この週の出張で、取り敢えず旧正月明けの域内行脚は一段落し、これからしばらくは内向きの課題に集中せざるを得なくなりそうである。そんな中で久々に読んだインドに関するこの本は、ここのところ多く接してきた東南アジア物とはまた異なった趣を持っている。それは、恐らくインドという国が持つ東南アジア諸国とは異質の歴史と社会構造の故ではないかと思われる。中国や東南アジア諸国が労働集約型の産業を梃子に経済成長を進めてきたのに対し、インドは資本集約型の産業育成を行ったと言われている。しかし、一党独裁型の政治構造を持つ中国や一定期間「開発独裁」と呼ばれる政治体制をとった東南アジア諸国が、国家主導による強力な資源・資本配分を行ってきたのに対し、インドの政治体制はまがりなりにも「世界最大の民主主義国」という体裁を持っていた。そのせいか、国内の経済政策も必ずしも国家主導で一貫して進められたものではなかった。特に独立後は、パキスタンとの分離という大きな政治経済的事件から、インディラ・ガンジー時代の社会主義的国有化政策の時代を経て、1991年の市場経済への移行と、中国以上に大きな変動を余儀なくされてきた。そうした中でインド経済の中核基幹産業を担う「インド財閥」もある意味翻弄され数々の危機に直面してきた。こうした政治・経済的変動期に消えていった財閥も多いというが、しかし主要な財閥はそうした危機を乗り切り現在に至っている。この本が取り上げているのは、そうした現在のインド経済を牛耳っているこれらの財閥と国家との関係、そして特徴的な一族間での財閥承継を巡る争い等の歴史である。これらの要因はこれからもインド経済を見ていく時に重要な切り口になっていくのであろう。著者は、1973年生まれの、インド関連のコンサル会社を経営する経済人である。
英国では、例えばタタ財閥がジャガー・ローバーの買収を行う等した結果、今やインド企業は10万人を雇う雇用者となった。またロンドンではインド人の経営する「東インド会社」という名前を冠した高級食料品店がオープンしたという。タタの名前を私が初めて耳にしたのは、1980年代のロンドン時代、その財閥が所有するロンドンのホテルに対するファイナンス案件に接した時であったが、それ以来、彼らのコミットは、英国のみならず、その他世界にも拡大している。そして彼らは、インドのGDPの6,7割をもたらすことで、インドの国内経済成長の牽引役を果たしている。こうしたインドの財閥の内、著者が主として取り上げているのは、このタタに加え、ビルラ、リライアンスの3つ。その他は末尾に簡単な説明が行われているだけであるので、ここでは、この3つ財閥を中心とした歴史と現在を見ていこう。
ここで「財閥」という時に著者が念頭に置いているのは、「同族支配、多角化、大規模(寡占)」という3条件を満たす企業グループで、特にその「富裕個人」への富の蓄積の規模は、日本の財閥のそれとは比較にならないほど大きいという。その中で、インド独立後はタタとビルラの2強時代が半世紀以上も続いたが、その後新興財閥のリライアンスが台頭し、現在はタタ、リライアンスの「新2強時代」になっているという。彼らの成功の特徴としては「外資との提携」、「技術獲得への高い関心」、「戦略が国策と一致」、「斜陽産業からの早期撤退」、「新産業への早期参入」、「財務戦略の上手さ」、「同業でのM&A」、「選択と集中」、「継承者教育」が挙げられているが、これらは基本的にインドの財閥のみならず、一般の企業グループ全般にも言える事項である。しかし、特にインド財閥の場合には、その資本力の規模と富の一部個人への集中が極度に進んでいることから、意思決定も迅速であると共に、その判断の成否が直ちにその後の財閥の運命に影響することになる。その意味で、ここで取り上げられている三大財閥は、まさにこうした意思決定に成功した財閥と言っても良いのであろう。
インド財閥形成史で興味深いのは、彼らがカルカッタ(現コルカタ)とボンベイ(現ムンバイ)という二つの商業都市を起源としているが、前者では支配者英国にインド商人が従属する傾向が強かったのに対し、後者では英国とインド商人が対等の関係であったということである。この2大商業都市の「商人のコミュニティ」は、ボンペイでは「パルシー(ゾロアスター教徒)―タタ財閥」、「グジャラーティ(グローバル活動が特徴)―リライアンス財閥」、カルカッタでは「マルワリ(地縁中心)―ビルラ財閥」と呼ばれ、「土地」、「宗教」、「民族」等で強く結び付けられ、インド財閥はこの基盤の上で、それぞれの才覚を生かしながら成長していくことになる。
彼らは、当初は英国東インド会社の下請け商人として、「阿片取引(特にパルシー)と綿バブルによる収益」を蓄積すると共に、東インド会社の没落(1857年のセポイの反乱の責任をとる形で、翌年清算)後は、「植民地金融の自由化」政策の下、会社化し資金調達も行いながら、蓄積した資本を綿紡績産業等の製造業にも投資していくことになる。また「経営代理制度」という、英国植民地企業特有の「持ち株会社」形態が、インドの財閥にも使われていったという指摘も面白い。
19世紀末以降、国民会議派が形成され、インド独立運動が盛り上がりを見せると、特にその急進派をマルワリ商人が支援することになったという。他方、初期の独立運動の理論的指導者であり、ガンジーに影響を与えたというダダパイ・ナオロジーは、パルシー商人で、英国留学と英国での起業を経て、インド人初のイギリス議会議員となるが、彼のように、商人の富の中から英国留学者が増加し、独立運動を支える知識エリート層を形成するようになったという。ただこうした財閥による独立運動の支援の中でも、それなりの対抗関係があったようで、例えばこの本で取り上げられている三大財閥の内、マルワリであるビルラ財閥の三代目会長のGDビルラは、急進派支援の嫌疑で逮捕状まで受け潜伏生活を余儀なくされる。結局この逮捕状は取り下げられ、その後彼は急進派支持からガンジー支持に変わることになるが、こうしたマルワリの独立運動への関与は、「『イギリス人資本の有利な状況を打破したい』」という純粋な企業家としての国益思考」もあったが、他方で「タタ財閥などパルシー勢力にできない社会活動をすることで、差別化を図りたい」という、財閥間の権力抗争も関係していたと著者は考えている。そして1930年代に入るとソ連の成功もあり「社会主義型社会」の建設が唱導され、知識人層のみならず政財界も「計画経済」と「主要産業の国有化」を支持し、国民会議派が設けた「全インド国民計画会議」やネルーを議長とする「計画委員会」が発足し、タタの役員等も参加することになる。但し、「社会主義者」と「財閥」という「相容れない立場のはずの者同士」による共同作業は、特に産業規制について対立することが多く、著者は「当初はまとまりを欠いた」と評価している。
第二次大戦が始まると、英領であるインドは自動的に参戦する。政治的には、日本軍のビルマ占領とそこからの大量のインド商人を含めた難民の移動というという緊急事態が発生したが、国内では英国のインド政庁と独立を志向する国民会議派との疑心暗鬼や国民会議派(ヒンドゥー)とムスレム連盟との軋轢は続いていたという。しかし、タタやビルラ等の財閥は、そうした政治的混乱の中でも戦時特需を利用して砂糖生産や綿製品、皮革事業、セメント、製紙業等で膨大な利益を得ていた。そしてこうした財閥は、危機に陥った経済再建の計画策定に参加しながら、戦後の独立も展望した影響力を競い合っていたという。
戦後の1946年6月の「マウントバッテン裁定」を受けたインドと東西パキスタンの分離独立は、こうした幾つかの勢力の抗争を終わらせたが、その後の混乱の代償は大きかった。財閥の多くはインドに残ることを選択し、東西パキスタン地域を拠点としていたマルワリ系財閥やパンジャビー系財閥は大きな打撃を受けたという。またビルラ財閥は、他社よりも周到に準備をしていたが、それでも工場の襲撃、強奪や不法占拠を受けた他、ジュード産業では原料調達が東パキスタン中心であったことから分離後はパキスタンからの輸入を余儀なくされ、その後のインドでのジュード産業の衰退に繋がったという。また独立後は、英国資本が撤退し、「その資産をインドの財閥が買収する構図が一般化し」、「それを主要な成長戦略とする財閥も現れた」ものの、全般的には資本不足が顕在化し、それを米国やソ連からの援助で埋める方向に転換していくことになる。
この時期のインドの経済政策で面白いのは、「社会主義的」な主要産業(例えば「インドステート銀行」)の国有化を進める一方で、「左傾化に対するブレーキ役」として「株主が大財閥、海外資本、政府」というインド工業信用投資会社(現在の民間銀行最大手のICICI銀行の前身)といった特異な金融機関を設立し、その資金が財閥に振り向けられた点である。特にタタやビルラは、こうした機関に多くの役員を派遣し、その影響力を行使したという。ただこの時代の財閥と政府の関係は簡単ではなく、1955年のダルミア・ジェイン財閥の不正資金引き出し事件では、この財閥が政府に多くの資金援助を行い人的パイプ持っていたものの、ネルー首相の義理の息子(インディラ・ガンジーの夫)が議会で取り上げ、その結果、当時はタタやビルラと並ぶ勢いを振るっていたこの財閥の凋落をもたらしたという。また60年代に中国が核実験に成功すると、その脅威に対抗するためインドの核開発を進めたのがタタ基礎研究所のハーバー博士であり、彼はまたインドのIT産業成長の基盤をも創ったという。
1965年の第二次印パ戦争を契機に、インドはパキスタンを支援するアメリカに見放され、政治・経済的混迷の時代に突入。1970年から72年にかけては、左傾化したインディラ・ガンジー政権下で「財閥と政府の癒着」批判が高揚し、財閥にとっては受難の時代であったようであるが、結局経済の低迷により、ガンジーが退陣した1973年以降、再び財閥に対する規制が緩和される。1980年、一旦下野したインディラ・ガンジー率いる国民会議派が政権に復帰すると、今度は一転「漸次的な(経済)開放政策」に踏み出していく。この時期に外資規制が緩和された自動車産業に進出した日本のスズキが、その後成長したのは有名である。そしてその後、冷戦終結によるソ連との取引急減とイラク戦争による石油価格高騰による「外貨危機」を経て、1991年の最終的な規制緩和に向かっていくのである。現首相のマンモハン・シンがこの規制緩和の立役者であり、これを契機にインド財閥は新たな成長時期に入ることになる。もちろん、この時期は優勝劣敗が鮮明になった時期であり、タタ、ビルラは生き残り、リライアンスやマヒンドラが新興財閥として台頭、他方でシンガニアやイスパット(ミタルの源流)等は凋落していったという。
こうした大きな流れを説明した上で、著者は現在も君臨するタタ、ビルラ、そしてリライアンスという3つの財閥の過去と現在を詳述している。ここでは、個々の財閥の歴史や創業者・経営者の詳細等は省略し、夫々の大きな特徴だけ簡単に押えておくことにする。
タタについては、既に多くが説明されているので、現在の中核事業が「自動車」、「鉄鋼」そして「IT」ということだけまず確認しておこう。自動車事業のトップにドイツ人を起用する等、同属経営による「インドの財閥」から「グローバル・カンパニー」への転換も図っているという。
タタ財閥の先祖がゾロアスター教徒のペルシャ人で、その富の蓄積の源泉が19世紀の阿片取引にあったことは既に見たが、それ以降も英国軍との関係を築くことで、戦争物資の調達で成り上っていったようである。英国綿産業視察で得た知識で、この業界にいち早く参入している。面白いのは、19世紀末に、英国P&Oによる独占に挑戦するため、日本郵船と同盟し海運業に進出したという話。これはP&Oの力の前に敗北するが、この功績により当時のタタの盟主が、日本政府から勲章を授与されたという。
「タジ・マハール・ホテル」の建設等による不動産業への進出、インド資本による初の製鉄業の開始(第一次大戦で急成長。一時チャンドラ・ボーズが労働組合委員長を努め、労使関係の改善に貢献したという)、ユダヤ系のサッスーン財閥との連携による中国貿易の強化、そして第二次大戦後は、いち早く自動車産業やIT産業に参入することで、政治や景気の波を乗り切って現在に至っている。現在の問題としては、強力な後継者が閨閥内部にいないこと、及び電力開発等のインフラ事業への傾斜を強めているが、グループ内に強力な金融機関を有していないため、資本調達を外部に頼らざるを得ない点等が指摘されている。
ビルラ財閥は、現在6−7系統に分かれているが、その中では「アディティア・ビルラ」が突出しているという。彼らの現在の中核事業は、「非鉄(アルミ)」、「セメント」、「化学・繊維」の3部門であり、それぞれの部門でグローバルな買収を仕掛けて規模を拡大している。元々はインド北部、デリーに近いシェカワティという地方の出自のマルワリ商人であるが、まずはボンベイを基盤に19世紀に綿バブルと阿片取引で成長。その後カルカッタに移り、第一次大戦時の銀投機で成功。また戦争用のジュード(黄麻)に進出したことが、商人から工業化、「財閥」への転換点となる。その後インド商工会議所を率いると共に、世界恐慌ももろともせず製糖業や製糸業、そして機械工業などに拡大。第二次大戦中にはこれを基盤に自動車専業にも手を広げる。面白い挿話としては、1948年1月、ガンジーが暗殺されたのはデリーのビルラ邸であり、警備の甘さをガンジー支持者から非難されることになったそうである。また特にインディラ・ガンジー政権での左傾化時期には標的になったこともあり、「企業規模を小さくして集団化する」という経営方針から企業数が圧倒的に多く、同業種の重複も発生していることから、90年代以降は、その事業整理を進めているという。相続を巡る争いでは、「プリヤンバダ遺書」事件が遺書の信憑性を巡る法廷闘争にまで発展し現在も続いているという。
3つ目のリライアンス財閥は、第二次大戦後、石油化学を中心に台頭した新興財閥である。創業者の死後、二人の兄弟の間で事業継承を巡る争いが起こり、財閥は二つに分裂している。長男のムケシュが継承したのが、本業の石油精製事業で、また小売業でもチェーン店数でインド最大手に成長している。他方二男のアニルの中核企業は移動体通信サービスと電力などのインフラ関連企業であるが、後者は頻繁な組織改編を経て構造が分かり難くなっているという。
このグループの創業者は貧しい村の教師の子供として生まれた後、アデンに渡り商売の訓練を受け、結婚した後の二回目のアデン滞在時にはシェル石油に勤務し、石油精製事業の知識を得て、インドに帰国後、繊維商社から始め、そこからポリエステル紡績を経て石油精製業に進み、1989年には、売上げでタタ、ビルラに次ぐ第三位の財閥に成長したという。しかし、創業者死後の2004年に上記の兄弟間の争いが表面化し、インドの株価指数が暴落するほどの事件になる。その後も両グループ間での天然ガス供給契約等を巡る争いが勃発しており、それが現在でも時折メディアにも面白おかしく取り上げられることになっている。しかし、「兄への競争心や劣等感からくる焦り」からか、アニルは数々の不祥事に見舞われており、資産も急減しているという。
最後に、それ以外の中堅財閥を簡単に紹介している。名前だけ残しておくと、TVS財閥(二輪事業)、アヴァンサ(旧タパール)財閥(石炭・ガラス事業)、エッサール財閥(鉄鋼・石油事業)、オベロイ財閥(ホテル事業)、キルロスカ財閥(電機・自動車部品事業)、ゴエンカ財閥(小売・インフラ事業)、ゴドレジ財閥(電機事業)、ジンダル財閥(鉄鋼事業)、バジャージ財閥(二輪車事業)、ヒーロー財閥(二輪車事業)、マヒンドラ財閥(四輪車事業)、UB財閥(酒・ビール事業)、ラルバイ財閥(繊維事業)、DCMシュリラム財閥(製糖業・化学・繊維事業)等々といったところである。この中にはマヒンドラのように、我々の業務で頻繁に登場する名前もあれば、オベロイのように、かつてムンバイで宿泊したホテルもある。
繰り返しになるが、こうした財閥企業群は、インドへの株式投資のみならず、この国とのビジネス一般を考える時には常に付き合っていかなければならない名前である。一方で、インドと日本の一筋縄ではいかないが、かといって決して因縁浅からぬ関係もある。他方で、この国の商人は、中国人商人と同様、ここで紹介されているような長い歴史の荒波を潜り抜けてきた百戦錬磨のハードネゴシエーターでもある。宗教と実業がある意味これだけ乖離している社会も珍しいのではないかと思われるが、今後業務でこれらのインド財閥との具体的な関係が出てきた際には、常にこの本に戻って確認をしていくことになることは間違いない。
読了:2012年2月9日