アジア・ドイツ読書日誌と
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アジア読書日記
インド
これからはインド、という時代
著者:日下公人/森尻純夫 
 今回のインド旅行に備えて調達した、インド在住の学者と民間エコノミストの対談であるが、残念ながら全く焦点の定まらない、緩慢な対談である。特に、長銀出身のエコノミストのコメントとインタビューの仕切りは、出だしで突然イデオロギーが出てきたり(いきなり、「オーランド社会党政権でフランスが全体主義になる」などととんでもない発言をされると、「こいつは一体何を考えているのだ」と唖然とさせられる)、論理が跳んだりと、相当部分で読むに耐えられないことが多かった。折角北インドを旅行しながら、インドに関する議論を肌身で感じたいと思って持参したのであるが、結果的にやや興ざめする結果になってしまった。それでも、インド在住の学者は、一応長くインドの地方都市に住んでいることもあり、細部のコメントには面白いものも見られるので、ここではそれを中心に見ていこう。

 インドの転換期が、1989年に外貨準備がゼロになってしまったことにあることは間違いない。しかし、そのこれからの経済発展の一因に、1974年の核実験から始まり、既にその時点で原子力兵器を保有していたこともあったという指摘は、論理が全く不明である。むしろ国家破綻に近づいた理由が核開発にあったということが、現在の北朝鮮を連想させる点も含めきちんと指摘されるべきであろう。他方もう一つの転換の主因として挙げられているラジブ・ガンディーの教育政策(「自分の州の言葉での大学教育を承認」)は、「150の言語」があり、「紙幣に15の言葉が書かれている」多言語社会であるインドの特徴を示していて興味深い。即ち、それまでの大学教育は英語のみであったため、高校までローカル言語での教育しか受けてこなかった学生がついていけなかった。しかし、ローカル言語での大学教育が認められたことで、まず大学で専門職の資格を取り、それから英語を学ぶことが出来るようになり、その結果IT技術者を含め、もともと数学水準の高かったこの国から、絶対数としては大量のインテリ労働者が誕生することになったというのである。この指摘は、英語文化という私のインド認識をやや変えるものであり、興味深かった。続いて、同時期に農業の生産性が上がり飢えがなくなった、とコメントされているが、これについては「何度かの土地改革があった」といった説明しかなされていない。一般的に「グリーン革命」と呼ばれるこの改革は、インドにとってはたいへんな重要な問題であるので、ここではその実態と結果についてのきちんとした説明をすべきであろう(後半でも簡単な説明が行われているだけである)。

 分権国家としてのインドについて説明されている。例えば、2012年5月、イラン経済制裁のための石油輸入削減要請のため、米国クリントン国務長官が、インド中央政府ではなく、まず西ベンガル州政府首相を訪問したといった事実。これは逆に言うと、地方の勝手な行動を中央政府がコントロールできていない、ということでもあるのだろう。単純にインドの地方分権を日本でも取り入れろということではないが、交渉相手の状況によっては、相手の中央政府ではなく、地方政府と交渉しろ、ということは、その通りであろう。EUへのインドの100億ドルの支援策については、彼らの見方は、「EUと距離を置いている」のか、「身を削って打開策を開こうとしている」のか、論理が曖昧である。更に、「インドは中国にならない」で「独自の道を行く」等という当たり前の議論を如何にも蘊蓄があるように語っているのも興ざめである。問題は、なぜ両国の道が異なるのかをきちんと説明し、そしてその結果として今後の両国の展開として何を予想するかであるが、そうした展望は何も示されていない。

 一応説得力のある議論を展開しているのは、インドの「現実主義」的な外交政策である。経済的な負担を敢えて無視して核開発したのは、中国のみならず、対米関係さえも考慮すると、自らのイニシアティブと政治的交渉力を確保するのは「軍事力しかない」という、一見ガンジー主義とは異なる冷徹な思考の結果だという。同時に、外交・経済関係は、八方美人の全方位外交を展開し、最近は因縁の敵であるパキスタンにも接近する等、リスク・ヘッジをする強かさを持っているという。また原発については日本の技術を頼りにして、援助を期待しているが、米国追従の日本は、インドが核武装しているということで、この協定を棚上げしている。しかし、その米国は、対中国牽制にインドを使おうという思惑からインドに急接近している。こうした動きに遅れないで、いや先行してインドからの期待に答えながら、この国との関係を強化することを検討すべきであるというのが、ここでの著者の提案である。更に別のところでは、尖閣を巡る日中の緊張関係が、日印関係強化の絶好のチャンスである、というインド側の論議なども紹介されている。

 インドの食糧革命について、面白い昔話が語られている。「マンチェスターの織物業者がインドへ乗り込んで、織物を売ろうと思ったが、さっぱり売れない。これは当時のイギリスの技術が、インドよりも劣っていたためで、そのためインド総督がインド人織物職人の手首を切り落とし、その結果赤土のデカン高原がインドの織物職人の手首で白く見えた」という趣旨の記載がマルクスの資本論に出てくるという。その話に象徴されるように、英国はインドの産業のみならず、農業も搾取し、「第二次大戦中に、イギリスがありとあらゆる食糧を、インドから持って行ってしまった。しかもイギリスはその代金を払っていない」という。しかし、この記載だけでは、英国によるインドの農業収奪が、実際に如何に行われたかは説明されていない。あえて言うと、その後で、英国がインドの農地を自国の産業に必要な綿花生産に当て、国民の必要とする食糧作物の生産に使わなかった(インドネシアで、オランダが、米作を禁じて、胡椒生産を強制したことと同じと説明されている)ということくらいであろうか。いずれにしろ、この農業生産力の低下が、戦後インドの貧困の重要な原因であったことは間違いない。そして1989年の経済危機以降、中央からの教育改革に加え「綿から米や麦への転換による食糧の増産」が州の地方政党のイニシアティブで進められることにより、飢餓状態からの離脱がようやく行われたようである。しかし、それはまだまだ終わっていない。「さらなる農業改革とインフラストラクチャーの拡充」が引続き課題であるというのは、著者たちに言われるまでもない。

 インドの映像リテラシーについて説明されている。ボリウッドの盛況を引き合いに出すまでもなく、インド人の映画好きは有名であるが、これはヒンドゥーの神の図像化=アイドル化に源泉があるというのは、珍しく面白い指摘である。これに多言語社会であることが加わり、インド人の自己対象化と自己表現の技術が鍛えられることになったという。それを基礎にしたインドの教育制度と多言語社会であることに由来する困難と優位性のそれぞれが説明されているが、あまり興味を引く論点は提示されていないので省略する。

 「日本人とインド人、どちらが豊か」という章も、所得と物価の関係だとか、GDPだけで豊かさは図れない、といった、ほとんどありきたりの感覚的な議論だけで、眼を惹く指摘はない。中国、アメリカ、EUに対する政治的目配り、というのも、国際政治でキャスティング・ボートを握りたいと思えば、当然の行動である。ただ軍事力に関する議論が国内でオープンに行われているというのは、中国等とは決定的に異なる、「世界最大の民主主義国」としての特徴であろう。

 最終章は、日本の経済進出、特に大都市ではない中都市への進出の推奨である。丁度インドで最も成功しているマルチ・スズキの工場で、労働争議のデモが暴徒化し、管理者側で一人死者が出るという衝撃的な事件が発生したところであるが、著者たちは、これはスズキが、日本の契約社員制度をインドでも導入したことも一因であるとして、「日本式労働体制を安易にインドに導入するな」という矮小化された議論に落としてしまっている。インド人労働者側にも「景気の低迷と物価高に挟まれた厳しい状況」のもとで「その底に持つ粘り強い、忍耐としたたかさが失われてしまった」という指摘もされているが、恐らくこの事件の背後にあるのはそんな単純な話ではないと思う。日本の新聞は、これを単なる「カースト問題」として報道した、というが、少なくとも私が見ている限りは、日本の新聞でさえ、この事件の背後に、労働配分率を巡る、組織化された政党の支援も受けた意図的な動きがあったと報道していたと記憶している。インドでの事件をカーストだけで済ますような報道は、さすがの日本にももうないのではないだろうか。

 他方、インドの輸出産業として今後注目されるのは、ジェネリック医薬品と米を始めとする農産物であるとしている。いまや自給率130%になった農業は、現在は輸出ができない(インド政府が禁止?)そうであるが、これが出来ると日本にとっても大きなビジネス・チャンスが生まれてくる、としている。その上でこうしたビジネスは大都市ではなく、著者の一人が住むマンガロールやハイデラバードなどの中都市で生まれている。中国は既にこうした中都市に進出しているというが、既にインドでいろいろ失敗の経験のある日系企業がいきなりこうした街に出るのは容易ではない。あまりビジネスの実務を経験したことのない人間の発想だと感じるのは私だけであろうか?まあ新幹線計画といった、政府が間違いなく絡むような大型インフラ・プロジェクトを中心に攻めていくというのが、最もリスクの少ないインドでのビジネスなのではないだろうか。

 こうして、偶に眼を惹く個別のコメントはあるにしても、全体としては脈絡と論理性のないインド放談会という本である。特に、民間エコノミストが、何でも社会主義統制経済批判(今や時代錯誤的議論である!)に結び付けようとして話を飛ばしてしまうのが鼻につく。しかし、そうした不要な脱線を除いたインド本論に関しても、説得力のある説明やインドについての新たな発見は少なかった。「インド・ブーム」に便乗して、偶々インド在住の学者を引っ張り出して、あまり事前の準備もせず行った対談という感じである。インドに関しては、この本の前に読んだ外交官による古い作品の方が、圧倒的に勉強になったのであった。

読了:2013年2月15日