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アジア読書日記
インド
現代インドを知るための60章
編著者:広瀬崇子他 
 ここのところ、仕事でインドと関わることが多くなってきていることもあり、このシリーズで出ている各国事情のインド編を、正月安も出野日本滞在時に購入した。久し振りのインド関係本であるが、ただ出版が2007年10月と、私がこちらに来た2008年以前であることが気になった。実際、その時期は、政治的にはマンモハン・シン首相率いる国民会議派政権が、もっとも安定していた時期であり、私の以前の職業であった金融面でも、明らかなインド投資ブームが起こっていた。しかし、その後、リーマン・ショックを契機に、世界経済が低迷期に入ると、その影響もあり、国民会議派政権が失速、昨年のインド人民党(BJP)政権への交替が行われることになった。そして、かつてのヒンドゥー至上主義という宗教色を表に出さず、むしろ自身が州知事を務め、外資導入により州経済を成長させたことを喧伝し政権交替を達成したナレンドラ・モディ首相が、現在は国内外を通じてもてはやされることになっている。この本は、当然ながら、そうした政治面での最近の変化は、まったく踏まえていない。しかし、人口12−13億を要する巨大なこの国の変化は時間がかかる。そして出版から既に7年以上が経過しているというものの、多くの項目については、引続き参考になる記載が見られる。それは、分析がややマニアックになるものの、専門家に項目ごとに執筆させているこのシリーズのメリットである。ここでは、そのように、現在も念頭に置く価値のあると思われるいくつかを以下に抽出していこう。

 まずは、現在政権を獲得したBJPの2007年までの歴史が語られているので見ておこう。1951年に生まれた国民会議派に対抗する中道左派政党が前身となり、1980年にBJPとして再編・誕生する。1980年代後半から「ヒンドゥー・ナショナリズムのイデオロギーによって有権者を動員し」勢力を拡大、1996年の選挙で第一党となるが、イデオロギーを強調したために連立に失敗し、政権は13日で崩壊した。その経験から、1998年には、宗教色を弱める戦術で、他党との連立により、初めて政権交替を実現する。しかし、2004年の選挙で国民会議派に敗北し、この本の出版時点では野党第一党となっているが、宗教色はむしろ強まっているという。特に、1992年に発生した「モスク破壊事件=アヨーディヤー問題(ヒンドゥー神ラーマの生誕地とされる場所にあるモスクを破壊し、その跡地にヒンドゥー寺院を設立すべき、という運動)」は、BJPの幹部も関わっているとされ、この時点ではまだ解決の見通しが立っていないとのこと。まさに、これは、現首相のモディが、この事件以降、「これに関わったBJP幹部」として、米国の入国が認められなかった理由のひとつであるが、首相就任後、米国はこれを覆して彼の訪米が実現することになったのは昨年9月の話である。国連でのスピーチの後、マディソン・スクエア・ガーデンで開催したモディの屋外講演会に、2万人近い米国在住インド人が集まったという記事と写真は、私にも強い印象を残すことになった。その意味でも、ここでは「今後のBJPの動向が注目される」と書かれているが、現在は、BJPは宗教色よりも経済政策を前面に出すことで取りあえず成功していると考えられる。

 カシミール問題は、今まで深く見たことがなかったが、そもそも独立以前のこの地域、「カシミール藩王国」は「住民の多数がモスレムで構成されていたものの、ヒンドゥー教徒の藩王=マハラジャが支配する『半独立国』であった」という。しかし、英国の撤退とインド・パキスタンの分離の際に、まずは「藩王国」としての独立を試みたものの、パキスタンの圧力に抗しきれず、インドに助けを求めたことで、この地域をめぐる両国の紛争が開始されることになった。その結果、現在は、インド、パキスタンそれぞれに加え、中国の実効支配地域を含めると3つに分割された形になっているという。1948年、1965年、1971年と、インド・パキスタン間で3度の全面戦争が戦われた他、1998年に両国が核保有国になってからは、1999年、2001年−2002年の2回、核戦争の危機まで発生することになった。現在は、両国の雪解けムードが高まっており、2年前、私が始めてのインド観光旅行に行く直前に発生したこの地域での砲火の応酬を交えた局地戦も、直ちに平和解決されたということもあった。しかし、ボスニア等と同様、多くの民族・宗教が絡まりあった国境問題であるだけに、解決は簡単ではない。

 経済面では、まず三大財閥としてタタ、ビルラ、リライアンスが紹介されているが、その中で、タタが「社会貢献にも積極的」で、「インドの最高学府として知られるバンガロールのインド科学技術大学(IISC)は、もともとタタ財閥によって設立されたものである」とある。まさに、この大学、及びその関係機関とは、私自身、業務上の関係が始まったところである。そして彼らに牽引された経済成長―株式市場の活況、不動産投資ブーム、IT産業の興隆、バイオ・医薬品(特に後発医薬品―ジェネリック)、自動車産業、ダイヤモンド加工等の成長が個別に説明されている。この中で特に目を引くのは途上国援助に使用されている後発医薬品で、「国境なき医師団が30か国で治療している6万人のうち、84%がインド製の後発薬を用いている」という。他方で、特許の関係等で欧米メーカーとのトラブルも多かったが、その欧米メーカーも、最近では、製造コストの安さや、臨床試験データ取得の優位性といったインドのメリットを利用するために、インド企業を取り込む方向に転換しているという。またダイヤモンドは、そもそも5000年前に、ハイデラバード近郊で発見され、17世紀まではインドが唯一の産出国であったというが、戦後その生産地としての地位はボスニア等のアフリカ諸国に譲ったものの、研磨・加工については中低級品についてはグジャラート中心に、世界的な競争力を持っているという。特に、「日本で手に入る一般のダイヤモンドの7割は、インドでカット、研摩されたものである」というのは意外であった。

 貿易や対内外投資で注目されるのは、既に2007年の時点で、中国、韓国、ASEAN諸国との経済関係が相当進んでいたという点である。特に中国との関係は、かつての大規模な国境紛争にもかかわらず、2003年のヴァジパイ首相の訪中以降、急速に拡大し、また石油大消費国としての両国が、かつての権益獲得競争におけるライバル関係から、共同事業による権益獲得という動きに変わりつつあるという。更に韓国やASEAN諸国の積極的なインド進出に対し、日本のスピードが極めて遅いことも指摘されている。今回の私自身のこの国との関係強化も、遅ればせではあるが、こうした流れに乗り遅れないための日本の動きの一環として位置付けられることを再認識した。

 電力、道路・鉄道を中心とするインフラ整備の遅れという問題も、ゆっくりではあるが改善に向かいつつある、というのは、先日初めてバンガロールを訪れた時に、私自身も抱いた印象である。中国と同様、産業化による大気汚染や廃棄物処理といった環境問題も深刻になりつつあるが、その対応として、設置は一部の地域に偏ってはいるものの、政府ベースで風力発電に力を入れているという。更に経済面では、拡大する中間層の購買力への期待と、それにも拘わらず存在する巨大な貧困層の問題や、それを解決するための鍵となる農業・農村の発展問題についてもコメントされている。

 社会面では、まず何よりもカーストの存在と、それに対する「留保制度(アファーマティブ・アクション)」の経緯と現在が説明される。変わってきた部分と変わらない部分があるのは、こうした伝統的な社会制度では当然である。また中国と同様の「言語とアイデンティティ」の問題。筆者は、この国の言語状況については、「英語、ヒンディー語、地域の有力言語(多くは州公用語)の三者が三つ巴の状態で拮抗しながら、それぞれの言語の識字率を上昇させる方向へ向かって進んでいる」とまとめている。

 若者の就職問題も、特に中国以上に若年人口の多いインドでは深刻で、時として社会紛争を発生させている。特に、都市部に移民を大量に送り出しているビハール州出身者に対する、受入側であるアサムやムンバイでの暴力的な排斥運動などに繋がっているというのは、同じく農村から都市部への出稼ぎが多い中国でもあまり聞かれない地域対立として注目される。また女性問題については、80年代に大きな議論となった、女性の離婚手当やサティー(寡婦の殉死)の問題が取り上げられているが、最近の話題は、言うまでもなく頻繁に起こっているレイプ問題であろう。「能力主義か、機会平等か」といった教育制度問題も、若年人口が多いだけに、簡単に解決される問題ではないだろう。

 インドの主要都市の説明。デリーに関しては、インドの首都が、「デリー」ではなく、「ニューデリー」であることは、筆者だけでなく私も知らなかった。また先般初めて訪れる機会があったバンガロールは、もともとパキスタンや中国国境から遠いことから軍事産業が集結し、それが現在のIT産業成長の基礎になったという。そのIT産業や「エレクトロニクス・シティ」と呼ばれる産業集積は、私が先日訪れた町の中心部ではなく、郊外に10−20キロ行った地域に広がっているという。州都であるコルカタがある西ベンガル州は、1977年から(この本の出版時点で)30年に渡り左翼戦線が政権の座にある。「民主的な選挙によって選ばれた共産党政権がこれほど長期にわたって政権を握っているのは例をみない。」そして(2015年の現在も)州首相の座にあるブッダデーブ・バッタチャリアは「組合やストライキといった左翼政権のイメージをできるだけ払拭し、国内外からの投資・企業進出を促すことによって、州経済の立て直しを図ろうとし」、それなりに成功してきたという。しかし、かつての英領インドの首都を象徴する瀟洒な植民地ホテルであったグレート・イースタン・ホテルは、州政府による民営化の英断の後も経営不振が続き、結局2005年9月ホテルの長い歴史に幕を下ろすことになったという。「文化の都」として発展してきたチェンナイは、現在でも音楽祭や(ムンバイと並ぶ)映画製作拠点として知られている。医療施設の整備や産業化も進むが、他方で水不足が深刻化し、その対策が急務になっている。ムンバイは、「巨万の富と貧困層が共存するインドの縮図」と紹介される。特に、2004年、国民会議派が政権を奪還すると、シン首相は、「ムンバイをインドの上海にする」としてインフラ等の集中投資を行ったという。しかしそれはシステマティックな開発になっておらず、「ムンバイの混沌としたイメージは当分払拭されそうもない」というのは、2007年初めにこの町を仕事で訪れた私も、同様に抱いた感覚である。

 その他の地方都市の中では、ケーララが面白い。全体としては低開発地域であるにも関わらず、整備された医療施設、低い出生率と幼児死亡率、長い平均寿命、そして高い識字率を有している。中東産油国への出稼ぎにより小金を貯める人々がいる半面で、そこに他州からの移民労働者が流入し、結果的に高い失業率をもたらしているという。やや変な現象と理屈である感じもするが。そして最後は「東洋のスイス」カシミール。ここは、州内に、ムスリム中心地域と、ヒンドゥー中心地域、そして仏教徒とムスリムが拮抗する地域の3つから構成されるが、特に州都スリナガルがある、風光明媚なモスレム中心地域は、1990年代にパキスタンから支援を受けた過激派のテロが頻発し、「危険地帯」となってしまった。和平気分は高まっているが、2006年にも、戻り始めたインド人観光客をターゲットとしたテロが発生し、この流れに水を差してしまった。この地域も安定までにはまだ時間がかかるようだ。

 インドの国際関係。まずは、1998年のインドの核保有であるが、筆者は、これは、軍事戦略上の見地からは、パキスタンというよりも、中国を意識したものであったとしている。しかし、それ以上に大きかったのは「大国としての自尊心、ナショナリズム」であり、非同盟運動のリーダーとして、一部の大国による核保有とその独占を批判してきた大国としての存在感を示すことにあったという。しかし、その前に、金の使いどころがあるだろうというのは、インドを訪れた人間であれば誰もが抱く疑問であろう。それは「国家のエゴ」以外の何物でもないのである。しかし、当初は米国による経済制裁をもたらしたこの決断も、2006年の米印間での首脳合意を経て、国際社会に受け入れられるところになる。そしてその後は、インドは、「経済、軍事、地政学的な位置、対中国要因」から、急速に米欧日から熱いラブコールを送られるようになる。しかし、一方では従来からの関係が深いロシアや、かつての敵国中国とも関係を維持、強化しており、基本的に「一方に偏る外交を避けている。」インドが、アジアの「フランス」、と呼ばれている、という筆者の指摘は、面白い。印パ、そして印中関係も整理されているが、既に多くが語られてきたので省略。またスリランカ、バングラやネパールが、地域大国としてのインドを意識した外交政策を取らざるを得ないのは当然である。

 そして最後に、日本の対インド関係について。少なくともインドは、日本との間で「歴史問題」を抱えていないことで、根源的な障害が少ないことは間違いない。そして米国によるインド政策が転換した今となっては、その強化を図らないという選択肢はない。しかし、日本がインドに、中国に対するバランサーとしての役割を期待すると間違いであるというのが、筆者の見方である。あくまでインドの外交は「等距離」であり、日本にとっても「パートナー」ではあるが、「同盟」となりえないことを認識すべきである。その意味で、できる分野から一つ一つ着実な協力関係を作っていくというのが、この国との付き合い方である。これから私が関わろうとしている、この国とのー人の興隆を含めたー科学技術外交が、その重要な一部であることは間違いない。

読了:2015年2月11日