インド現代史
著者:石田 保昭
1968年9月刊のインド現代史である。著者は、1930年生まれ。ウキペディアによると、1958年から3年間、インド政府外国語教官としてニューデリーで暮らし、その時の体験をまとめた「インドで暮らす」(1963年)は、ユニークなインド・ルポルタージュとしてある筋には評価されたという。その後、東大教養学部講師として東洋史を教えていたが、時期不明ながら病気療養のため辞職したようである。私が教養学部に入学したのが1972年であるので、恐らくその時期はまだ教鞭をとっていたのであろうが、著者の名前を聞いた覚えはない。そして、彼は結構長生きして2018年5月に逝去している。
この作品は、上記のとおり1968年9月刊ということなので、著者38歳の時の著作であるが、そもそも、いつ、どうしてこんな古い本を入手したのか全く覚えていない。そして、そのくらい記憶がないほど昔に調達しながら、どうしても今まで読もうという気にならなかった。しかしコロナ自粛で、日本語の本が枯渇する中、ついにアジア関係で唯一残っていたこの本にようやく手を付けることになったのである。今や、インドは、この本で描かれた50年前とは全く変わっている。歴史とは、現在から解釈される事実の体系化である、ということを考えると、当然同じ事実を解釈するにしても、50年前と現在では異なってくるのは当然である。それでも、少なくとも個々の事実に関しては、それなりに今まで触れることのなかった世界もみえてくるのではないか、というのが、読み始めた際の微かな期待感であった。しかし、やはり読み始めるや否や、直ぐに時代を感じさせられることになったのである。
端的に言ってしまうと、著者のインド現代史解釈は、毛沢東主義の視点からで、その結果、反英闘争から始まるインド現代の反政府運動は、第二次大戦前においては、ブルジョア知識人や単純な反英テロリストに主導された、労働者の組織化も行われない冒険主義的なもので、また戦後においてはインド共産党自体が、ソ連修正主義の影響下、資本家や封建地主階級と結託したインド国民会議派に対し融和的な立場から脱却できず、その結果として、インドで大多数を占める農村の小作農民にとって決定的に重要である土地改革も進めることもできず、結局存在感を示すことがなかった、と規定されることになる。そして、例えば、当時のインドの最貧地域であるケララ州で、中央政府に対する不満から、1957年に共産党政権が成立するが、これは結局2年で潰されることになる。著者によると、その主たる理由は、もちろん米国帝国主義やソ連修正主義の支援を受けた中央政府からの徹底的な攻撃によるものであるが、それに加え、州の共産党政権自体が、「規制権力の枠内での(修正主義的)改革」しか試みず、土地改革を含めた根本的な変革に及び腰であったことも大きな要因であったとされる。そして、インド人民の解放のためには、中国共産党が行ったような、「明確な階級意識」に基づいた「文化大革命」による人々の意識改革も含めた革命が必要である、ということになるのである。ただ、その後1977年、コルカタを首都とする西ベンガル州では、インド共産党を中心とする左翼戦線が政権を獲得、その後40年以上維持してきている。著者は、当然、この西ベンガルでの共産党主導政権成立も目撃していると思うのだが、これも彼に言わせると「修正主義」的共産主義政権ということになるのだろうか?
1968年という時代が、まさに中国の文化大革命が進行中で、日本を含めた多くの知識人や労働運動が、それを理想化する傾向があったことを考えると、著者のそうした立場も、ある意味普通であったかもしれないが、その後の50年の歴史の中で、中国自体でも、全面否定ではないにしても、むしろこの時代が「悲惨な時代」と位置付けられていることを考えると、今や過去の遺物的な議論である。もちろん、欧米や日本でのこの時代の社会運動が、その後の其々の社会の変化を促したことは否定できないが、単純にこの時代の中国を賛美する立場から書かれたこの作品をきちんと読めようという意欲はなくなってしまうのである。
しかし、それでも、いくつか当時の視点から描かれたインドでの事件には、興味を抱かせる部分はある。特に現代まで、その問題が残されてきている、チベット問題を含めた中印国境紛争と、パキスタンとの国境紛争については、触れておく価値があろう。もちろん、多くの国境紛争がそうであるように、これらも、英国植民地時代からの歴史遺産である。
チベットについては、ヒマラヤ高山地帯でもあることから、英国支配下のインドからも、中華民国からも実効支配は及んでおらず、ダライラマ政権の統治下にあった。しかし、英国はラサに連絡部を置き、インドのルピーがそのままラサで通用する等、経済的にはインドに近かったという。戦後中華人民共和国のもとで、1951年中国がチベットに侵攻した際も、ネルーと周恩来との間では、チベットの自治権が認められたこともあり、チベットに対する中国の主権を認めることで合意が結ばれていたという。しかし、次第に、遊休地の取上げや漢民族の入植、宗教排撃などの中国による「民主改革」が進められると、1955年以降、チベット民族による反乱が発生。そして1959年、その反乱の中で、ダライラマの中国による拉致懸念が広がったこともあり、彼のインドへの亡命が行われ、それを契機にインド内でも対中強硬論が強まることになる。
この経緯につき、著者は、反乱は農奴主貴族が起こしたもので、人口のほとんどを占める農奴らに支えられたものではない、との人民日報の記事を引用しているが、少なくとも自治をなし崩しにし、且つ漢民族の入植による中共化を進めたことが、地域の民族意識を高めたことは否定できず、著者の主張は、いまや誰も共感することはなくなっているだろう。また著者は、インドがこの紛争を、ケララに共産党政権ができるなど、国内情勢を懸念するインド国民党政権が、国民の目を外圧に逸らすために利用した、としているが、これも、もちろんそうした面も皆無ではないが、実態はやはり民族自決を巡る根深い問題と考えるべきであろう。そしてもっと言ってしまえば、現在の香港「一国二制度」を巡る中国側からの締め付けも、こうした過去の歴史の繰返しであると考えるのは私だけであろうか?
それに対し、パキスタンとの国境問題は、これよりももっと単純な民族と宗教の交錯の問題であると考えられる。著者に言わせると、「(チベットで)中国を打ち負かすことははなはだ困難であることを身にしみて知ったので、排外主義の直接のはけ口をパキスタンに向けた」のがこの紛争、ということになるが、実際は、特にカシミールの中でもモスレム人口の多いジャンムーカシミール州等の帰属を巡る歴史、宗教問題であると考えられる。その意味では、北アイルランド問題などと同様、単に階級史観では説明できないものである。この問題は、現在でも双方の交戦が行われているが、著者のように、単に中国の支援を受けたパキスタンが、米国・ソ連(1966年当時)の支援を受けたインドと互角に戦っていることを賞賛するだけではあまり意味はない。
本の最後の部分で、19世紀末から20世紀初めにかけての反英・反政府運動を行った人々と彼らが引き起こした事件等が多く紹介されている。その中で、1912年のインド総督ハーディングに対する爆弾テロ事件(失敗)も出てくるが、この事件に拘わりその後逮捕・処刑された数人の紹介は行われているが、その首謀者の一人とされ、その後日本に逃亡し、そこから反英闘争を行ったラース・ビハーリー・ボースには全く言及されていない。また彼とよく混同する、インパール作戦を指導、失敗したチャンドラ・ボースへの言及も全くない。当然1968年の時点で、反英闘争の闘士としての彼らの名前は知られていたと思われるが、著者があえて彼らに言及していないのは、彼らが「インド解放」という名目の下に「日本帝国主義」の片棒を担いだという想いがあるからなのだろうか?
ということで、この現在も続いている上記二つの国境紛争が、当時どのような論調で議論されていたかを知る意味では多少の参考になったというのが正直なところである。いずれにしろ、最近友人から、分野は様々であるが、少なくとも最近刊行された著作を借り受けることができたので、気分を新たに、これからは現在の議論に向き合うことにしたい。
読了:2020年6月6日