ガンディー
著者:竹中 千春
今更ガンディーということでもないが、考えてみると、彼が名声を確立した後、晩年の神格化や暗殺等に関わる記述は至るところで繰り返し読んでいるが、彼の生い立ちや若い頃、そして政治家としてのし上がっていく壮年期の活動については、今まであまり接することがなかった。またこれまでガンディーに特段の思い入れがあった訳でもなく、例えばデリーのガンディー記念館を旅行で訪れた際も、特段の感慨もなく、簡単な展示や彼が暗殺された場所だという記念碑等を眺めただけであった。そんなことで、2018年出版のこの新書は、それまでの膨大なガンディー関係の書作を踏まえた彼の軌跡とその思想、政治活動等を、簡潔に理解するのにうってつけである。改めて、現代インド史におけるガンディーの意味合いをまとめておこう。
まず生い立ちから青年時代までの姿。この辺りはガンディーの自伝のまとめのようであるが、生まれはグジャラート州(現在のモディ首相の地盤である)のポールバンダルという街。商人カーストの上流家庭の末っ子として生まれ育ち、引っ込み思案ではあるが、当然優秀な学生であったようである。ただ注目されるのは、当時の「幼児婚」の風習に従い、13歳で、カストゥルパという同年代の娘と結婚したということ。また16歳で父が病死したが、縁戚の支援で、20歳の時に英国留学に向かい、そこで3年かけて弁護士資格を得ることになる。当時のインドエリートの多くがそうであるように、ロンドンでの経験は、彼に多くの新鮮な刺激を与えることになる。しかし、インドへの帰国後は、期待した仕事もなく、1893年、新天地を求め、家族を残し、南アフリカに移住する。そして、ここで著者言うところの、「青年モーハンダース(ガンディの本名)の時代が終わり、未知の国で果敢に道を切り開く指導者のガンディーへと変身し始めた」のである。
19世紀末の南アフリカでは、英国移民とオランダ系ボーア人の対立が激化していたが、そのどちらも土着やアジア系の有色人種に対する差別では変わりなかった。そんな中で、インド系移民の権利拡大を目指す運動に弁護士として関与する中で、彼の政治家としての経験が蓄積されていくことになる。彼は「戦いの方針を示し、同志を募り、運動を率先する」のに手腕を発揮したのみならず、政治的な課題に加え、「人々の生活を改善する運動」等も進めたという。そして1896年には、いったんインドに帰国し、家族を連れて南アフリカに腰を据える決断をする。26歳の時であるが、これから20年間、彼のこの地での活動が続き、評価もうなぎ上りに高まることになる。
1899年からのボーア戦争時には、インド人衛生看護部隊を結成・活動し、英国側で戦争に協力し、後年「非暴力主義との矛盾」を指摘されるような活動も行うことになる。またボーア戦争終結後の1901年には、いったんインドに帰国し、インド国民会議派の年次大会で、インド人移民についての決議案を提出・採択される等、国内政治でのデビューを飾ると共に、南アではインド人移民の待遇改善を訴える新聞を発行したり、これが資金的に息詰まると、平等な共同体としての「フェニックス農場」を建設・運営したりする。他方で、政治・社会活動では様々なアイデアを発想・実現していったガンディーであるが、4人の息子を含む家族は相当苦労をしたようで、特に長男のハリラールは、「父に猛反発し、家出し、挫折を重ねた」後「ついに家族も仕事も失い、非業の死をとげた」という。
いずれにしろ南アでの活動は続き、当局の弾圧・ガンディーの逮捕も頻繁に発生したが、彼はそうした弾圧さえも、次の展開の糧としたようである。1912年には、抗議のための「トランスバール大行進」を組織・指導したが、こうした「行進」スタイルは、その後も重要な場面で何度か繰り返されることになる。そして1915年ボンベイに帰国した彼は、その後10年で「インドの民衆的な指導者」となっていく。特に、1917年から18年にかけて、ビハール州やグジュラート州での農民運動の支援と成功が、彼の存在感を強めることになったという。また1920年に入ると、彼は「カーティー運動」と呼ばれる、「上半身は裸、下半身にはドーティーという白い布を巻くだけのスタイル」に一変する。「数年前までスーツを着ていた姿からは想像できないほどの変貌」を遂げるが、それは晩年の写真で、彼の一般的なスタイルとして我々の眼に焼き付いている姿である。こうした衣装を含めた全体が、「インド・ナショナリズム」における「伝統の創造」(ホブスボーム)をもたらし、彼を「神のようなマハートマ」に祭り上げていくことになる。
1930年の、「インド・ナショナリズムの山になる」「塩の行進」。ただし、その後は、指導部内では、ガンディーによる不服従運動の停止と、ロンドンでの円卓会議参加等、彼の指導方針が不協和音をもたらしていったという。また彼はこの時期、「不可触民」への差別撤廃を掲げる運動に傾倒していくが、他方でイスラムとヒンドゥの宗教対立の中で、あくまで両者の融和を主張する彼に対するヒンドゥ側からの反発も強まることになる。そうした中で、1936年、彼は寒村に向かい、「草の根の平和な社会を実現する運動に活路を見出そうとする。」しかし、「時代の波は、彼の信条とは異なる方向にはっきり進みつつあった。」彼は、その時66歳となっていた(関係ないが、ほぼ私の現在の年齢である)。
こうして第二次大戦がはじまり、その中で反英独立運動の分裂や、モスレム指導者ジンナーによる、モスレム国家分離独立運動が高まる。そして戦後の混乱の中で、ガンディーはモスレムとヒンドゥの分裂回避に奔走するが果たせず、双方による虐殺が続く中で、1947年のインドとパキスタン両国の独立に至るのは誰もが知っている歴史である。特にカシミール問題は、現在に至るまで、依然両国の緊張をもたらしていることも言うまでもない。そうした中で、彼が、ヨガに解決の契機を見出し、孫娘を寒村に呼び出し、裸の彼女と床を一緒にするという修行を行ったことは、初めて知ることになった事実である。この「奇行」が、周囲に大きな波紋を投げかけたのは当然であろう。
そして最後は、1948年1月、デリーでのヒンドゥ至上主義者による彼の暗殺。この「予告された殺人」については、いろいろな陰謀説があるが、それ以上にガンディーが、あえてそうした暗殺を阻止するような警備を受け付けず、その意味で暗殺を予見し、そしてそれをむしろ受け入れる心的準備をしていたということは間違いない。そして残された人々も、彼の死を「英雄神話」として利用していったのである。しかし、パキスタンとの国境問題を含め、ヒンドゥとモスレムの宗教問題や、政治世界での「暗殺」は、その後もインド社会の底流に連綿と流れ続けることになる。現在のモディ首相は、かつてヒンドゥ至上主義者の暴動を主導したとして米国入国禁止リストに加えられたことも、よく知られた事実である。ガンディーが神格化される中で、晩年の彼が解決できなかったかの国の政治・社会問題は依然続いていることを痛感する。
いずれにしろ、この「現代インドの父」の青年・壮年期の豊かな活動を改めて認識する上で、格好な読み物であった。ガンディーに関する著作は、彼自身のものを含め数限りないが、取合えず図書館で借りてきた別のガンディー本と、場合によっては1982年制作のアッテンボロー監督の大作映画「ガンディー」だけは見ておこうと思う。
読了:2021年4月19日