アジア・ドイツ読書日誌と
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アジア読書日記
インド
ガンディー 反近代の実験
著者:長崎 暢子 
 続けて、図書館で見つけた別のガンディー本である。「現代アジアの肖像」と題されたシリーズの一冊で、このシリーズは、「孫文と袁世凱」から始まり、中国、台湾、北朝鮮、韓国、そして東南アジア各国とインドの戦前・戦後にかけての指導者の紹介が全15冊揃っている。リー・クアンユーやラーマン・マハティール等も取り上げられており、これから恐らく何冊か読むことになるのだろう。著者も、それぞれの国と人物についておなじみの名前が並んでおり(例えば、リー・クアンユーは岩崎育夫、スカルノとスハルトは白石隆等々。マルコスについて藤原帰一が書いているのも面白い)、その点でも読む価値があると思われる。

 但し、このガンディー本は、事実については、先に読んだ新書とそれほど新たな記述はなく、むしろ彼の思想や哲学を、時代の中に位置付けようとする議論が目を引く程度の作品である。またそれに加え、S.Cボーズやネルー等、彼の同時代のライバルや後継者との関係などについてやや踏み込んだ説明を行っているのも特徴である。ここではそうした点のみ簡単にまとめておくことにする。

 まず前者の論点であるが、著者は、ロンドン仕込みのエリート弁護士が、南アメリカからインドに至る政治闘争の過程で、西欧的な行動様式と距離を置き、インド固有の菜食主義や断食、そして抗議のための行進といった個人的な生活倫理や伝統的な行動を政治活動に持ち込み、それにより大衆を動員するエネルギーを構築していったところに、この時代のインド独立運動における彼のユニークな指導力を見る。南ア時代の1904年に読んだラスキンの著作「この最後の者にも」に彼が大きく衝撃を受けたことが指摘されているが、ここで彼は、人々の仕事に貴賎はなく、肉体労働を軽蔑すべきではないとことを学んだ。そして彼が名声を確立した南アでの支持者は、国内のバラモン・エリートではなく、年期労働者等の下層民―しかもヒンドゥやモスレム双方を含む人々―であったことが、彼のその後に大きな財産となったとされる。

 国内のバラモン・エリートたちの要求は、1885年の「インド国民会議」で一歩進むことになるが、これは英国側の「ガス抜き」的な組織であると共に、これを担ったのは「新しくおこりつつあるインドの中産階級」であった。それこそ、ガンディーと同様、英国で教育を受けた弁護士などが会議の主要メンバーであったが、彼らの「反英闘争」は、いわば英国によるインドの搾取とそれによるインドの貧困化批判が中心で、且つ「親英」と見なされたムスリム勢力を排除する傾向があった。英国が、このヒンドゥとムスリムの緊張・対立を「分割支配」として利用したこともあり、かつて1857年のセポイの反乱等では共闘していた両陣営の対立が、19世紀末から表面化してくることになる。20世紀初頭、ガンディーが帰国したインドは、こうした独立運動内でのいくつかの対立が顕在化しつつある時代だったのである。

 こうした状況でガンディーが試みたのが、「インド的」手法での政治運動であった。「近代文明が肉体的幸福を人生の目的にしている」ことを批判し、「過剰な生産や消費を追求しない、自給自足的村落の生活を理想とする」ところから独立運動を再構築しようとしたのである。この基本原理の下に、1915年、22年ぶりに南アからインドに帰国したガンディーが関わったのが農民の権利拡大や労働者の賃上げストライキ指導であり、後者では長期化した闘争の引き締めのために、初めて断食を実行することになる。こうした「下層民」に寄り添う姿勢と「自己犠牲をおかすまでに非暴力的に戦う」姿勢が、ヒンドゥ、モスレム隔てのない支持を広げることになるのである。彼による両宗教の具体的な連携戦略が、第一次大戦後のモスレムによる「カリフ擁護運動」における彼の「非協力」であり、また手織り布運動という「宗教的には中立な、しかも動力機械に象徴される近代文明に対立する」象徴を利用する手法である。そしてその後、独立を巡る英国との交渉が膠着状態になり、ヒンドゥとモスレムの緊張が高まった1929年には、「塩の行進」で、再び民衆レベルからの運動統一を進めるのである。

 ただこの「塩の行進」を使った英国との交渉は、結果的にはヒンドゥやモスレムを含めた緊張を一時的に緩和したに過ぎず、その後緊張は再び高まることになる。特に1930年、アーウィン総督との協議で、不服従運動を停止し、ロンドンでの円卓会議に臨んだ彼の判断は、各種勢力から批判されることになる。1930年代のガンディーが直面した3つの対抗勢力―@不可触民、Aムスリム、そしてB社会主義―との関係を著者は分析しているが、前2者は、もともとその勢力を国民的な反英運動に利用してきたガンディーが、その急進派(「分離選挙」というある種の「アファーマティブ・アクション」)により足をすくわれることになり、またBは、会議派議長を巡る穏健社会主義者ネルー(連邦制支持)と急進派ボーズ(即時独立支持)の対立の中で、彼の「後継指名」に疑問を抱かせる結果となるのである。そして第二次大戦を経て、ムスリムの分離独立が既定路線となる中、彼は単身両派の和解に尽力するが、今度はそれに反感をもったヒンドゥ至上主義者により暗殺されることになるのである。

 著者が指摘している通り、ガンディーの権力の源泉が、「インド的手法」を使った、ある種のポピュリズムにあったことは確かであろう。多様なカーストや宗教が複雑に絡み合ったインドの民衆運動の統一を確保するためには、伝統社会の多数派の支持を得る必要がある。その意味で、彼の手法は、ある意味で、「文化大革命」で、民衆エネルギーを権力闘争に利用した毛沢東や、現代のポピュリストのそれの先駆であったと言える。

 他方で、大衆運動の過程で膨大な犠牲者を出した毛沢東と比較すると、彼の「非暴力」「不服従運動」は、権力の直接の犠牲者は生み出していない。それは、彼の個人的な倫理・道徳に支えられていたことが主因であり、またそれが中国と異なるインド的な社会の特徴であったともいえる。もちろん彼の晩年には、こうしたポピュリスト的手法が、分断社会の中で維持できなくなり、またその問題は、その後現在まで消えずに残っているインドの課題であるのも確かである。戦後、ガンディーの思想を受け継ぎながら、エリート政治を復活させた国民会議派(=ネルー王朝)は、しばらく大衆の支持を維持したが、その後、モディの「ヒンドゥ至上主義」に政権を奪われることになる。しかし、中国と異なり、インドの政治社会には、13億人超という人口に基づく「世界最大の民主主義」だけは維持していこうという、ある意味ガンディー以来の信念が生きている。例えば、タイのタクシン派政権に対する軍事クーデターは、前者のポピュリスト的政策に対する、後者の都市エリート集団の対抗策であったが、インドの場合には、度重なる政治危機の中で、政治エリート層が、こうした手法を取ることはなかった。この差は、まさにガンディーが依拠した「インド的伝統に基づいた大衆動員」政治の結果であるのだろう。断食や手工業への個人的思い入れ、あるいは「行進」による大衆動員といった政治手法は、現代では時代錯誤的なものになっていると言えるし、また「非暴力」「不服従」といった、彼をカリスマに祭り上げていった基本姿勢も、現代ではあえて表に出す必要もなくなっていると思われるが、少なくとも彼が体現した倫理・道徳観は、依然インド現代政治でも大きな有効性を持っていると言える。いまだに中国と比較して低い全体としての民衆の生活レベルと所得格差、他方で発展著しいIT産業など、新たな成長の契機を持つこの国が、このガンディーの政治的遺産を今後どのように活用していくか、興味は尽きない。

読了:2021年4月23日