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アジア読書日記
インド
インド人の「力」
著者:山下 博司 
 私と同じ1954年生まれの、インド思想史、文化史、タミル文学専門で、東北大学大学院教授によるインド文化論で、出版は2016年2月。各節毎にインド関係のジョークを交えながら、たいへん読み易いインド論になっている。

 中心的な論点は、インドの教育、なかんずく数学教育の特徴、続けてインド人の英語力、それを踏まえた彼らの自己主張能力と個人主義的な行動様式、そして最後にそうした結果として、グルーバル企業でのインド人経営者の存在感が高まっている現状を総括することになる。夫々よく知られている話であるが、インド滞在が長く、インド系の知り合いも多い著者の口から改めてまとめて語られると、それなりに説得力がある。

 国際的に活動するインド系有名人の多くが、少なくとも大学教育まではインド国内で受けている例が多いとして、そのインドの教育システムの解説から本書が始まっている。基本的に知識偏重の、飛び級ありのエリート教育で、音楽や体育といった情操教育は軽視される傾向があるという。そして基本的には暗記中心の詰込み教育という側面もあるが、インド人の対話力もあり、教員との活発な議論を通じ、「効果的・効率的に脳裏に定着させ、応用力につなげていく」ことを可能にしているという。そして現在、インド系ITエンジニアを輩出しているIIT(インド工科大学。2015年時点で国内18か所にキャンパスがある)は、こうしたインド的教育の成果となっており、卒業生の3割が世界各地に散らばっているという。また理系のIITと別に経営・ビジネスを学ぶIIMもあり、その双方を卒業してグルーバル企業の経営者となっているインド人も、男性、女性を問わず増えている。もちろん彼ら彼女らは、激しい受験競争を勝ち残った限られたエリートであり、国内には圧倒的多数の貧困層も多いという現実がインドの大きな課題であることは言うまでもない。他方よく言われる二桁同士の掛け算等の「数」や「数字」へのインド人の感受性の高さについても詳細に説明されている。

 インド人の英語力については、まず「世界の中で英語を話せる大卒者を、毎年最も多く輩出する国である」、そして英語ができる人口は総人口の1割程度の一億三千万人と推定され、総数ではアメリカに次いで多い、という指摘。その早口でまくし立てるインド英語は、個人的にも耳に触るが、当のインド人は全く気にしていないことが語られている。また多様な民族、言語が飛び交うインドでは、複数の言語使用は日常的に必要であり、それを繋ぐのが英語である、というのも分かり易い。そしてIITを含めたエンジニア教育や、医療教育は英語で行われるため、そこの出身者は自然と海外での勤務に溶け込んでいる。こうして英語教育の普及が、海外で活躍するインド人が急増している大きな要因の一つである、ということは、日本も十分意識すべきであることは言うまでもない。

 続けてインド人の「発信力と交渉力」。これもよく知られたインド人の特徴であるが、改めて著者の身近な経験を重ね合わせて説明されると納得感がある。議論好きな民族性から、「大きい組織ではややもすると議論が百出し、合意形成が遅れる」ことが多く、そのため「あえてトップダウン方式を全面的に採り入れ、意思決定を速める」企業も多い。「信頼」よりも「疑い」が先行するインド文化(ペットボトルの蓋のチェック、というのも面白い例である)というのも、その通りなのであろう。そうしたインド人の猜疑心の強さがインド哲学にも反映されている、というのは、やや牽強付会であるとしても・・。

 インド人と中国人を比較した一節で、シンガポールでの事例が紹介されている。それによると、インド系と華人系が混在するシンガポールでは、インド人は色白の女性を好むことから、華人女性と結婚するケースはそこそこあるが、逆は余りないという。またシンガポールのヒンドウー寺院では華人の参拝者もちらほら見かけるが、ヒンドゥー教徒のインド人が中国寺院におもむき道教の髪を拝むことはない、という非対称性があるという。著者は、その理由などの詳細は述べていないが、「宗教実践や宗教的帰属意識について、インド系のほうが(中国系よりも)より保守的である」という一般論で締めくくっている。偶々私の周りには、前者の組合せの夫婦はいなかったり、また寺院での観察でもあまりそうした意識を持って観察したことがなかった。今後この国と接する時には、こうした事例にも注意して見ておきたいという気にさせられたのであった。

 最後に、改めてこの国の多様性と、そうした社会の中で「個の力」がせめぎ合う人間模様(=チームワークの欠如と足の引っ張り合い)、そしてそうした「競争」を勝ち抜いてマイクロソフトやグーグル、あるいは日本のソフトバンク等のグルーバル企業の経営者となったインド人が紹介される。彼らは著者によれば、「『多様性』の星の下に生を享け、その境遇を力に変えた人々、インド的混沌から人間存在の精髄を汲みとり、高度でバランスのとれた人心掌握術や人脈構築術へと昇華させ得た人々」ということになる。日本人、あるいは日系人を含めても、このグローバル企業でのインド人の進出と比較できるレベルにないことは確かである。

 ということで、概ね、私自身が抱いているインド、あるいはインド人についてのイメージとそれほど違わない姿を、分かり易い事例と共に説明している著作である。もちろん、インドだけが「多様性」に溢れた社会という訳ではないが、今や中国を上回る13−14億人というインド系の人口が、この社会から育ってきたエリートの数自体も増やしているのは間違いない。他方、権威主義的な中国と異なり、民主主義国としての国としてのまとまりの弱さから、国自体としての存在感は相対的に低いというのも事実である。覇権主義的な姿勢を強める中国と異なり、国際政治の大枠の中では、(パキスタンとの歴史的な敵対関係を除き)インドがその攪乱要因となることはほとんど考えられない。そして、現在のロシアによるウクライナ侵攻の中での対ロシア、あるいは中国の海洋進出の動きの中でのバランサーとしての役割が期待されるに留まることになる。その意味で、インドは、その国民の個人主義的性格を、民主主義という政治体制で保証することで、インド人の国際的存在感の増大を促している反面、国自体としては引続き多くの課題を抱えているということになる。ただこの新書では、そうした国としての課題であるインドの産業構造問題や貧困問題についてはあまり触れられていない。しかしその点を除けば、たいへん分かり易く、納得できる点も多いインド論であった。

読了:2022年5月25日