インド残酷物語
著者:池亀 彩
女性人類学者による、現代インドのカーストを巡る、気楽に読み流せる随筆的な報告である。とは言え、そこで報告されているのは、IT大国として勃興しつつある一般的に知られているこの国の姿ではなく、その陰で依然としてこの社会に存在し、モディ政権の下でヒンドゥー至上主義が広がる中、むしろそうした社会の分断が強くなっているとされるカーストによる厳しい差別、及びそれに対する下層カーストの人々の闘いの姿である。
冒頭、2016年に発生した、ある「名誉殺人」事件が取り上げられている。上級カーストの女性が、親の猛反対を押し切って、不可触民のカーストであるダリトの男性と結婚したところ、その男性がある日暴徒の襲撃に合い殺される。下層カーストが相手に娘が結婚すると、家族全員が自分の所属するカーストから非難されることを回避するために、こうした事件が依然としてインド各地で発生しているという。特に著者が活動拠点としているカラナータカ州に隣接するタミル・ナードゥ州は、この種の事件が多く、紹介された事件もそこで起きていることから、著者はこの事件を立ち入って調べるべくその州に足を運び、人権団体を経由して、当事者の女性に接触することになる。著者は、カルナータカで活動するために現地のカンナダ語を習得しているが、この二つの州は河の水使用権を巡る対立があり、タミル・ナードゥ州ではカンナダ語は口にしない方が良いというのも、インドの多様性を物語る話である。
「名誉殺人」の被害者は、本件のケースと異なり、低いカーストの男性と結婚した女性が被害者となることが圧倒的に多いという。その意味では、この事件に巻き込まれた女性はまだ幸運だったとも言える。著者が短時間接触したその女性は、現在人権団体の支援を受け、こうした「名誉殺人」の実態を非難する講演などを行っているが、著者の周りの人は、彼女が実家に帰る可能性もある、と話していることは、それこそこの社会の難しさ示している。こうした現在も画然と存在するインドのカーストの全体像について、著者は説明しているが、私が大昔に覚えたバラモン、クシャトリア、ヴァイシャ、シュードラ、そして不可触民といった区分(ヴァルナ制)以外に、職業集団をベースにした「ジャーティ制」という枠組みがあり、日常的に意識されるのは後者であるとしている。ただいずれにしろ不可触民は最下層に位置され、様々な差別に晒されていることには変わりない。
以降は、こうした下層階級の庶民の生活実態を伝えるルポが中心になる。著者が掃除、洗濯などの仕事で雇っている、文字が読めない女性の「水のない」団地生活。また彼女が属する「洗濯屋カースト」の」宗教的支えとなっているグルや、カーストによる非制度的な社会保障の話など。こうした下層カーストの人々の雇用を義務付ける「留保制度」も整備されてきたが、教育程度など、雇用の応募基準を満たせない人が多く、またそれをクリアーし職を得ても、職場で差別を受けることも多く、実態は厳しいままであるという。
著者のインドでの10年来の調査の中心は、地域のグルの活動で、カルナータカ州中部の村で、他の多くの活動に加え、インフォーマルな仲裁法廷(グル法廷)を主宰しているあるグルの姿を報告している。まあ、村民から信頼されている「村の長老」という感じであるが、公式な裁判では処理しきれない紛争調停機能を社会的に担っているということである。また著者が崇拝する別のグルは、ダリト解放のための様々な社会活動を行っており、それは村への電気設備の普及や、アディジャン議会という、ダリトの政治的要求の基盤となる組織の整備、あるいは土地改革や選挙制度改革の推奨、更には水牛供養の拒絶といった広範囲に及ぶという。最後の水牛供養は、宗教儀式でダリトに水牛を殺させるが、それがダリトの差別を固定化し、またそれを巡る殺人事件も起こっているということである。そして最後は、著者が取材で長く使っているダリトではないが、低いカーストの運転手が、ウーバー等の普及を契機として逞しく仕事と収入を増やしている(といってもその程度は知れている)様子等。しかし、そうしたインドの情報革命も、結局は上級カーストがほとんどその利益を享受しており、下層階級の「チェンジ」にはほとんど貢献していないとされるのである。
ということで、この著作は、金儲けを目的に、現代インドの経済発展やIT革命を声高に伝える報告の対極にある、旧態依然としたインドとその底辺で懸命にもがく人々を謳い上げた著作である。そうした人々を見つめる著者の視線は温かいが、しかしこうした人々の解放という観点では非常に悲観的なものになっている。新旧が混然一体となって存在し続けるインドという国をまとめていくことの難しさを改めて感じざるを得ない。
読了:2022年12月28日