第三の大国 インドの思考
著者:笠井 亮平
1976年生まれのインド研究者による、2023年3月出版の新書である。さして期待しないで読み始めたが、歴史的に複雑な関係を続けてきた近隣国である中国、ロシアのみならず、米国や日欧、そしてその他のBRICS関係諸国とのそれをも踏まえた、この国の国内情勢と外交関係の歴史と現状を非常に分かり易くまとめており、いっきに読了することになった。
人口で2023年に中国を抜き世界第一位となったインドは、経済規模でも2022年に英国を抜き、米中日独に続く第5位、軍事費の伸びも2021年時点で米中に次ぐ第三になっている。「こうした国力の急伸長を背景に、世界の舞台でインドの影響力は日に日に高まりつつある」のは間違いない。しかし、同時にこの国の行動には「分かりにくさが付きまとう」という冒頭から、著者はそれを説明していく。しかし、それはさして「分かりにくい」ものではない。
一般的に「この国の行動が分かりにくい」という最近の例として挙げられるのが、ウクライナ侵攻を巡る国連安保理でのロシア非難決議への棄権といったロシアへの「配慮」であるが、この国が軍事支援を中心にロシアとの深い関係を有していることや、今回の欧米日本などによるロシア制裁にも関わらず、「実利的な必要性」からロシア産原油や天然ガスの輸入を急増させていることを考慮すると、その行動は熟慮された結果のものであることが理解される。他方で、モディがプーチンに対し、「今は戦争の時代ではない」と公開の場で告げたり、幾つかのロシア主催のイベント参加に慎重な対応を行う等、ロシアに対する牽制も忘れることはない。また歴史的に多くの国境紛争を抱えてきた中国との関係も、「一帯一路」については警戒感を示しながらも、「アジアインフラ投資銀行(AIIB)」には創設メンバーとして加わっているが、これも中国との貿易関係を踏まえると、微妙なバランスを考慮した対応であると納得がいく。そして何よりも、日米豪印戦略対話(クアッド)への参加により、中国(やロシア)に懸念を持つ西側諸国との連携も確保するという配慮も見せることになる。まさにこの国は、自国の利益を最大限に広げるべく、現在の込み入った国際情勢の中で、考え抜かれた対応を行っているのである。著者は、以降そうしたこの国の行動をテーマ毎に見ていくことになるが、恐らくこの冒頭のまとめで、全体感は押さえているので、ここでは特に面白いと感じたコメントだけを取上げておくことにする。
まずは中国との関係である。これは復習であるが、戦後の冷戦期に「非同盟外交」の中核として相互に接近していた中印であるが、1951年の中国によるチベット侵攻から1959年のダライ・ラマ亡命を経て、東部や西部での国境紛争が頻発して、両国は緊張関係が強まることになる。こうした中で中国との戦争で押されていたインドが接近したのが、当時中国と対立を深めていたソ連であったというのは、「敵の敵は味方」という一般的な行動であり、その関係は現在に至るまで続くことになる。また著者が「ワイルド・カード」と呼ぶ、対立するパキスタンが、欧米そして中国との関係を強めたことも、インドのソ連接近を促すことになったことになる。1971年12月の「第三次印パ戦争」等を経て、「米中パキスタン」対「ソ印バングラデッシュ」という対立構造が固まり、特に武器供給を中心に、ソ印の関係強化は、現在まで続くことになるのである。
他方、国内経済面では、1991年政権を握った国民会議派マンモハン・シン(財務相から、2004年には首相に就任)指導の下で経済自由化に乗り出し、世銀やIMF、そして日本などの財政支援も受け、経済成長路線が軌道に乗る。ソ連が崩壊したこともあり、経済面では「アジア重視外交」に舵を切り、マレーシアのマハティールではないが、「ルック・イースト(その後は「アクト・イースト」)政策」として日本や韓国との関係強化を目指したのだが、この辺りも「柔軟な」インドの外交姿勢を示している。更に核開発・保有を巡る問題でも、当初は欧米などからの激しい批判を受けながらも、1990年台後半には、特にアメリカ(クリントン政権)との核合意を経て、核武装を認めさせると共に、民生用原子力協力でも、国際社会の暗黙の合意を獲得したという(但し、中国を除き、原子力事故対応への不備から、欧米の関連企業はインドへの進出には現在も及び腰であるという)。そして内政面では、2014年の総選挙で、インド人民党が政権を獲得し、ナレンドラ・モディ首相が現在に至るインドの経済成長や国際社会での地位向上を主導することになるのである。その際、領土紛争を含め政治的には緊張関係にあるが、経済的には最大の貿易取引先の一つである中国との関係が「政冷経熱」として説明されている。また中国の「一帯一路」を巡る欧米日本などの対応姿勢や、日本が主導した「自由で開かれたインド太平洋(FOIP)」政策が詳細に説明された後、それに対するインドの姿勢に触れられるが、それも端的に言えば、インドは単純に一方の側に加担するのではなく、「実利的且つ柔軟」に対応しているということになる。この辺りも、決して複雑なものではなく、インドの姿勢は、その評価は別にして、十分理解できるものであるし、著者の議論も分かり易い。「クアッド」を含めて、欧米日本等もそれを踏まえてインドとの協力を、焦らずじっくり強めようとしていると言える。
南アジアを巡る中国との勢力争い。パキスタンのグワーダルという港の浚渫への中国の支援と将来的な中国軍利用という疑惑。この開発・管理は当初シンガポール港湾運営会社のPSAが受注していたが、計画の遅れで撤退し、それを中国が引き継いだ、というのは注目される。中国・パキスタン経済回廊の一環としての、両国を直接結ぶ鉄道・道路計画も、地理的条件を考えると簡単ではないが、中国の長期的な戦略を伺わせるものであるし、同様のことはチベットーカトマンドウ間の鉄道計画についてもいえる。他方、スリランカでの、ハンバントタ港の開発、あるいは国際空港やコロンボ港の拡張を巡る「債務の罠」問題は良く知られている通りである。
こうした中国の動きに対し、インドは、当初は「一帯一路」に含まれていた「バングラデッシュ・中国・インド・ミャンマー経済回廊」に関心を示していたが、中国―パキスタン回廊が印パ係争地であるカシミ−ルを含んでいることで態度を硬化させ「一帯一路」には距離を置くようになったとされる。更に中パ関係強化への対抗策として、イランのチャバハール港の開発計画(ここからアフガニスタンを経由した中央アジアやロシアへの交通インフラ整備という思惑もあるという)、あるいはオマーンのドゥクム港へのインドの参画等も紹介されている。イラン案件はその後の米イラン関係悪化やウクライナ戦争の影響により、現在は進んでいないとされるが、いずれにしろ中印双方の思惑が絡んだ南アジアでの開発支援競争と言える。更にインドは、「自由で開かれたインド太平洋(FOIP)」とは別に、インド固有の「環インド洋機構」や「SAGARA」といったインド洋を主たる対象とした独自の海洋イニシアティブを主催したり、コロナ禍でインドが開発したワクチン外交や半導体ビジネスの誘致などでも中国に対抗しようという姿勢を示しているとされる。そして本の最後では、ウクライナ戦争を含めた最新のインド・ロシア関係が、改めて紹介されるが、ここでは依然強い繋がりを持つ印ロ関係がやや距離を置きつつあることも指摘されている。
このように、インドを支点として、その動きを踏まえながらも、中国「一帯一路」や日本主導の「自由で開かれたインド太平洋(FOIP)」戦略などにも多くの紙数を費やすなど、全般的な国際情勢にも目配りした議論が展開されており、これまで読んだ「インド本」の中でも非常に分かり易い。そして南アジアでの中印による経済インフラ支援競争など、私があまり知らなかった事例も多く紹介されており、面白く読めた新書であった。この著者の名前は初めて聞くことになったが、機会があれば過去の著作にも目を通すと共に、今後の新刊にも注意していきたいと思う。
読了:2024年5月5日