物語タイの歴史
著者:柿崎 一郎
現在の自分の担当地域の一つであるタイの歴史についての概説書である。先般読了したインドネシアに関わる新書は、近代史に焦点をあてた概説書であったが、こちらは他のシリーズ本と同様、国家の起源に遡り、そこから現代までの通史を概観している。著者は1971年生まれ。父親の駐在で、中学生時代にタイに滞在したことが縁で、タイの鉄道や交通の研究を続け、現在は横浜市立大学の准教授である。
タイは、昨年末の自身三度目のプーケット滞在を含め、首都バンコクにも業務や休暇で何回も訪れている。今月末も、現在の職場に着任して初めての業務出張でバンコクを訪れる予定である。しかし、この国は、丁度この本の最後でも触れられている通り、ある程度の近代化を達成したことにより、その成長過程での歪みが、都市部と農村部の対立という形で顕在化し、2006年9月には、1991年以来始めてのクーデター/非常事態宣言が出されたり、また昨年は反タックシン派のデモ隊による空港閉鎖が続き、観光客を含め1万人以上がバンコク等に足止めされると共に政権が転覆する等、政治的に不安定な状態が続いている。金融や経済面にはこうした政治的混迷は、直接の影響は及ぼしてはいないと言われるものの、それでも現在のグローバル経済の低迷に加えて、こうした国内発の問題も、徐々にダメージを与えつつあるように思える。こうした現在のこの国を巡る問題を、国の起源に遡って捉えようという意図をもって書いた、という著者の意気込みは、それなりに実現されているのであろうか?
こうした大きな課題の評価に入る前に、まずは本に従って、国の起源に遡り、面白かった事実を確認しておこう。
まずタイ民族の起源。色々な説はあるが、現在は中国西南部の雲南省あたりにいた民族が、中国漢民族の拡大により圧迫され、6−7世紀頃から南下を始めたと言われている。13世紀には、メコン川から、その支流チャオプラーヤ川を下った一団が、従来からそこに居住していたクメール系の民族を駆逐しながら、川沿いの盆地を中心に「ムアン(都市又は国)」と呼ばれる共同体を建設していったという。
この時期、インドシナ半島には強力な政治権力が発生し始めていたが、その一つが、先般私も訪れたアンコール朝であり、9世紀から11世紀に向け興隆する。そしてそのアンコール朝の力が弱まった13世紀半ばに、メコン川沿いに発生した「大ムアン」の一つが、「タイのナショナル・ヒストリーでタイ族の王朝の始まり」とされたスコータイ朝である。そしてその後、インドシナの歴史は、マンダラ型国家と呼ばれる「ムアン」が、大中小マンダラに重層化され、中小マンダラが、その時に勢力の強い大マンダラにより併合される歴史が進むことになる。タイに関しては、14世紀にアユッタヤー朝が、スコータイを飲み込む形で勃興し、15世紀半ばにはクメール王朝を崩壊させることになる。これにより、アンコールワットは、その後19世紀にフランス人により「発見」されるまで、密林の中で長い眠りについたのである。また同じ頃ビルマに発生したタウングー朝は、16世紀になると、北方のタイ系マンダラを飲み込みながら南下し、最終的に16世紀終わりの15年間、アユッタヤーはビルマの属国になったという。しかし、ビルマの属国から独立したナレースアン王の下で、後期アユッタヤーは新たな隆盛期を迎え、支配地域は今のカンボジア、ラオス、そしてミャンマーの一部を含む過去最大規模に拡大することになる。そして世界の大航海時代の幕開けと共に、アユッタヤーは林産品を中心とした集積地となり、「王室独占貿易という形で世界中から集まってくる商人に売却して利益を上げた」という。日本の朱印船もこの町に出入りしていた。そして各国から集まった外国人の居住区ができ、日本人の商人や義勇兵が住む日本人街は、最盛期は人口1000−1500人の規模に膨れたという。山田長政(日本人義勇兵の頭領であったというが、最後は政争に巻き込まれ毒殺された)のように、タイの官吏として登用される者も出ることになる。
アユッタヤーは、その後オランダ、英国などのアジア進出先発組と後発であるフランス及び夫々と結託した国内勢力の抗争などもありながら、最終的に1767年にビルマ軍に陥落するまで約400年にわたり存続し、文化的にもそれなりの遺産を残すことになった。同時にこのビルマへの屈服は、歴史観としては「ビルマがアユッタヤーを崩壊させた『宿敵』と見なされ、後の世のタイ人のビルマ観を悪化させた」という。
ビルマの属国下で、再びビルマ勢力を追放しようという動きが発生するが、それに成功したのがチャンタブリーを拠点に、トンブリー(バンコク)を奪還ししたタークシンであり、彼はアユッタヤーを再興させるのではなく、バンコクを新たな拠点として国作りを始める。そしてこのタークシンの腹心として、タークシンを失脚させたクーデター(1781年)を平定したのがチャオプラヤー・チャックリーであり、ラーマ一世として現在まで続くラッタナコーシン朝の創始者となったのである(因みに現在の国王プーミポンはラーマ9世である)。そしてこの王朝の発展と共に、都市バンコクも成長していくのである。
19世紀に入ると再び西欧列強との関係が緊張を増す。産業革命を経た英国はじめ西欧列強がタイ王朝にも自由貿易(=王室独占貿易の開放=開国)を迫り圧力をかけ始めるのである。1825年、英国との間で最初の二国間条約(バーネイ条約)が締結、次のモンクット王(ラーマ4世―ミュージカル「王様と私」の主人公)は、英語を駆使する「屈指の知識人」として「開国」を決断する。英国とのバウリング条約(1855年)はタイ初の修好通商条約であり、ここで王室独占貿易が廃止される。激減した関税収入を確保するために、これ以降輸出商品としてのコメが重要な関税確保の手段となり、「タイにおける商品作物としてのコメ栽培の急速な拡大をもたらし、これまで人家もまばらで猛獣の跋扈していたチャオプラーヤ・デルタが運河掘削によって一大水田地帯へと変貌する契機」となった、というのは面白い。他方、タイへの影響力を増した英国は、タイ市場を自国の繊維製品等の輸出先として圧倒的なシエアを確保し、「非公式帝国主義」的に支配したという。
また同じ頃、東から進出してきたフランスと、カンビジアの宗主権を巡り争い、結局フランスに「保護権」を与えるが、これはタイのナショナル・ヒストリーでは列強に対する最初の領土「割譲」とされているという。フランスは更に1893年にはメコン川左岸を支配下に置き、タイ本国に触手を伸ばしたが、さすがにここでビルマを植民地化していた英国が干渉し、チャオプラーヤ領域(=タイ)を英仏の緩衝地帯とすることで合意し、タイの独立が維持されることになったという。英国のこの判断は、マレー半島部の英国利権を確保する目的もあったという。
1868年に、わずか15歳で王位を継承したチュラロンコーンは、父モンクット王や英国人家庭教師により教育を受けた聡明な王として、抵抗勢力が引退し実権を握ると、タイ近代化の施策を次々に実施する。改革の中枢は、地方分権的な統治機構を中央集権型に変更するもので、タイの伝統に習い、専門知識を持つ外国人を顧問として登用する方法を採用した。イギリス、ドイツ、北欧などが中心であったが、日本人も法典整備などに活躍したという。また領域統合を進めるための鉄道の敷設も、改革の重要な一部であった。また英仏との不平等条約改正のため、それぞれマレー半島とカンボジア北西部(メコン右岸)を割譲する代わりに領事裁判権を回復する。また英国との関係では、マレー半島への鉄道建設資金の貸付も獲得した。そしてこの交渉の結果、現在のタイの領土が略確定すると共に、メコン右岸等は、「失地」回復運動の対象になっていったという。
チュラロンコーンの42年にわたる統治を引き継いだワチラーウット国王(ラーマ6世)の時代は、第一次大戦に直面することになる。勝ち馬に乗ることで不平等条約の改正を試みた彼は、ドイツ人お雇い外国人への影響を慎重に検討した後、1917年7月、ドイツに宣戦布告。戦勝国となったタイは再び不平等条約の改正を進め1927年までに完了する。この辺りが、「世渡り上手」なタイの本領が発揮されたと言われるところである。
次のプラチャーティポック王(ラーマ7世)の時代は、絶対王制から議会制民主主義への移行が大きな課題となっていく。国王自体は立憲君主制型の憲法制定を試みたが、最高顧問会議で反対されて実現できないでいるところで1932年6月、人民党による絶対王制反対のクーデターが勃発する。その後のこの国のクーデターと同様、国王が人民党の要求を受け入れ、タイで最初の内閣が無事政治権力を継承したという。しかし重要な点は、人民党も絶対王制には反対しながら、共和制への移行までは意図しなかったという点である。タイ王室は存続し、その後の共産主義の広がりに対する国民統合の象徴として、再び脚光を浴びることになったという。
権力を掌握した人民党であったが、その後党内の軍人同士の権力闘争などが発生し、政権は安定しなかったが、そこで国防相を務めていたピブーンの影響力が着実に増大していく。1937年に首相に就任したピブーンは、ナショナリズムを鼓舞し、国名を「タイ人の国」であることを強調するため「シャム」から「タイ」に変更する。また経済的な実権を握っていた中国系社会に対し、中華学校や華語新聞を弾圧し、同化政策を進めたという。そして第二次大戦が発生する。
ここでもタイの巧みな「風見鶏」振りが発揮される。まず枢軸国有利とみたピブーンは、中立宣言を行いながらも、例えば日本の満州国に対する国際連盟決議に棄権するなど、枢軸国側に寄った姿勢を打ち出し、またを良い機会と考えフランスに対する「失地回復」を試みる。英国はこの交渉を冷やかに見ていたが、タイを影響下に置きたい日本が仲介を買って出て、結局タイはメコン右岸を含めた「失地回復」を実現するのである。
しかしタイは引続き中立を保ち、連合国側に対しても日本との距離が近いと思わせないよう細心の注意を払ったという。そして日本軍のタイ進駐が決定的になると、ピブーンは「雲隠れ」することにより、連合国側に、これが「日本軍による侵略」であると言い逃れができるようにしたという。また結局タイは日本と軍事同盟を結び連合国に「戦線布告」するが、これもスイスにいる国王の代わりに3人の摂政の署名が必要であったが、その内の一人がまたも「雲隠れ」し、戦後の手続的瑕疵を理由とする「宣戦布告無効宣言」への伏線となる。
こうしてタイは「やむを得ず」戦争に巻き込まれたという演出を行ったが、一方でいったん枢軸国側で参戦したからには、英仏からの領土奪還を含めた「大タイ主義」を推進するべく動いたという。しかし、日本軍への協力から得るものが少ないと感じ始めると、日本と距離を置き始める。イタリアでムソリーニが失脚すると、それまで執拗に日本に要求していたマレー4州の割譲を提案する日本の動きにも反応しなくなる。そしてピブーンは総辞職し、政治の表舞台から身を引いてしまう。
国外で結成された抗日組織「自由タイ」と連合国との接近を唱えてきたプリディーらが、戦後のタイを建設していく。前述の「宣戦布告無効宣言」もこの過程で出されたものであるが、英国が批判的であったものの、戦後のタイとの関係強化を考える米国が仲介する形で、タイは実質的に「敗戦国」としての処理を免れる。フランスとの関係では、戦争中に獲得した地域を返還することで決着し、1946年12月には、「敗戦国」としては最初に国連加盟が認められたという。また経済的には、戦後の世界的な食料不足が発生する中、タイのコメは重要な戦略物資となり、これの供出を条件に、米国などにインフラ整備を進めさせる等、復興の要になったという。
戦中・戦後の難局を「二重外交(親日と親連合国)」で乗り切ったタイであったが、1946年5月に新憲法が制定され、複数政党が認められると、他のアジア諸国と同様、少数政党が乱立し、国内の政治基盤は不安定になる。特に、憲法制定直後の6月、国王が寝室で頭を撃ち抜かれて死亡するという事件が発生するが、これは戦後のタイ政治の闇を象徴する事件であった。当時18歳で、スイス留学中であったプミポーンが王位を継承するが、政治情勢は混沌としていたという。
その後しばらくの間、クーデター等も勃発するが、次第に共産主義の脅威が高まってくると、それに対する防波堤として、かつて連合国側に「宣戦布告」を行なったピブーンが復活し、自らクーデターを起こし、民主憲法を停止させた。重要な点は、彼の反共姿勢を米国が支援したことであり、彼は、基本的には、戦前の「大タイ主義」と同様、ナショナリスティックな政策運営を試みることになる。しかし、そのピブーンも、1957年、経済・財政に対する国民の不満が高まる中、子飼いであったサリットにより国外に追放される。こうしてサリットの「開発」を旗印に揚げた権威主義体制である「開発独裁」型の政治運営が開始されることになる。この時代にサリットは権威主義的体制の正統化の一環として、王室や国王の権威を利用し、またプミポーンら王室も、頻繁に地方行脚を繰り返し、政権の期待に答えていったという。そしてこうして高まった王室の権威が、その後のタイの政治の重要な要素になっていったのである。他方「開発」面では、道路建設を中心とする「目に見える」成果を、外資を導入することにより積極的に行なう。現代のタイの産業を象徴する自動車産業の成長は、この時代の道路整備を受けた輸送手段の改善と需要の増加の結果であったという。またコメに続く農産品の開発に努めた他、反共同盟としての東南アジア地域協力も中心となって進めることになる。
1963年、サリットが死去すると、タノムが継承するが、基本路線は同じであった。ただ、学生を中心とする反権威主義体制の運動が高まり、それは1972年に「反日運動」という形で表面化する。そしてそれは1973年に入ると大規模な衝突事件(10月14日事件)となり、それを機会に国王がタノムに印籠を渡す結果となる。著者は、このタノムの退陣を「開発独裁」の終焉と位置付けている。
1975年サイゴンが陥落、続けてカンボジア、ラオスで共産政権が樹立されると、タイでは最後の砦として反共勢力が台頭し、1976年10月の右派による虐殺事件(10月6日事件)で一時的な民主化もまた終わり、反動に時代が始まることになる。そして80年代に入りプレーム政権が序々に調整型の政治で民主化を進めるまで、この反動の時代が続く。そして80年代後半には、周辺共産主義国も開発政策を進めたこともあり、一時冷え込んだタイとの関係も改善に向かう。1988年11月のラオスとの間で締結されたメコン川ブリッジ(友好橋)建設合意はその象徴である。そしてそれはタイ北部の所謂「ゴールデン・トライアングル」地域開発から、カンボジア、ベトナムを含む「六角経済圏」、更にアジア開発銀行が主導する「メコン圏」構想に広がっていったという。
しかし、国内政治はその後も混乱が続く。1991年2月の「国家秩序維持団」のクーデターや、1992年5月の衝突事件(「5月の暴虐」事件)などを経て、大規模な衝突やクーデターはなくなるが、その後も政権は頻繁に交代する。1997年の経済危機も、政治の不安定を助長しながら、2001年のタックシンの登場まで、あやうい政権運営が続くことになる。そしてタックシン自体が、2005年に、一族経営企業の売却を巡り、巨額の私利を上げると国民の不満が爆発し、失脚したのは、まだ新しい記憶である。
その後も海外から巻き返しを狙うタックシンの勢力と反タックシン派の対立は続き、昨年9月19日には、翌日のタックシン派の集会を潰すためのクーデターが勃発。個人的にも計画していたバンコックへの出張が、親会社からの「渡航禁止令」で延期せざるを得なくなってしまった。そして今年には、親タックシン政権に対する反タックシン派の10日間にわたるバンコック空港他の占拠で、ビジネス客や観光客10万人が足止めされるという前代未聞の事態が発生、それを契機に現在の反タックシン派の「イケメン」首相政権が誕生するが、まだ安定からはほど遠いという状態である。
こうした中、しかし確かに「先進国」への確かな歩みも続いているという。特に伝統的に典型的な首位都市であるバンコクは2006年末で人口570万人、近郊を加えると1000万人都市に膨れ、第二の都市であるチェンマイでも30万人と断トツの首都である。こうしてバンコクへの一極集中が顕著であり、港や空港のハブ機能が強まっている。また、開発の過程で、地方のインフラも整備が進んでいった。工業化は東部臨海地域から始まり、チェンマイやコーラート近郊の工業団地も成長しているという。しかし、まだ人口の4割を占める農村にはその効果が波及せず、それがタックシン派と反タックシン派の対立激化の要因となっている。
広域開発計画である「メコン圏」地域協力が次の課題であるが、ここでは3つの経済回廊=道路計画が核になっており、経済援助を「卒業」したタイはむしろ支援者側になり、リーダーシップを握っているという。他方で、周辺国に対するタイのオーバープレゼンスが、反タイ感情を醸成するという事態まで発生している。周辺国との歴史認識問題も、インドシナで勢力争いを繰り広げてきただけに、各国がそれぞれのナショナリズムに基づく歴史=地域認識を行っており、時折軋轢をもたらしている。その意味で、従来列強との関係において「世渡り上手」であったタイが、むしろ国内的及び近隣関係において、新たな試練に直面しているというのが現状である。こうしたタイの今後の安定化に向けて、著者は最後に、国名の「タイ」から「シャム」への変更を提案して、この歴史を終える。「タイ」という国名が、「タイ人」のナショナリズムを連想させるのに対し、「シャム」という国名はタイの文化的・民族的多様性を包含する語であり、こうした精神が、今後のこの国の民族的、宗教的対立を緩和させるのではないか、と期待するのである。
この本を読み始め、またこの書評を書き始めたのは、先に述べた2008年9月のバンコク出張が、クーデターのため延期された後、ようやく実現したこの都市への訪問を控えた時期であった。そして今週3月24日から26日の2泊3日で、バンコックに滞在し、一昨日帰国したのである。
実際のバンコック滞在時は、仕事のアポに追われ、また若干確保できるかもしれないと思っていた自由時間も、予想した以上の市内の交通渋滞で、結局ほとんど使うことができなかった。その意味で、この本で勉強したこの国の歴史と現在は、余り実感することができなかった。そしてその意味で、著者が冒頭に宣言した「現在のこの国を巡る問題を、国の起源に遡って捉えようという意図」がこの本で実現されているかどうかについて、私は判断を下せるところまで行っていないことを感じる。
しかし、20年前の最初の観光旅行での訪問から数え、4回目の滞在である今回の仕事によるバンコック滞在で、確かに発展しつつある市内と、一方でまだ所々に残るスラム的な景観と、何よりも一極集中を象徴する朝晩のとんでもない交通渋滞が、この都市の現在を象徴しているように思えたのは確かである。レストランで見た、タイ・ダンスの踊り子の優しい笑顔と、交通渋滞をすり抜けるタクシードライバーの無愛想で怖い運転の格差も印象的であった。政治的な混乱は、直接感じることはできないが、こうした都市の混沌が、ある意味で、統一的な開発や、均衡の取れた成長を阻害しているのではないか、ということは容易に想像される。この国も含めた東南アジアが私の職業的な領域になった今、そうした成長の冷静な評価は益々必須になることは間違いない。何年の滞在になるかは分からないが、その間に、この国を含めて周辺地域がどのように成長していくかは、興味の尽きないテーマである。シンガポールに戻り、暑い夏の気候は変わらないものの、その整備された都市風景に安堵の念を覚えながらも、同時にバンコク、あるいはタイという国の方が間違いなく知的興味はそそられることを感じていたのである。その際に、常にこの本で学んだこの国の歴史を念頭に置きながら、観察を続けていきたいと考えるのである。
読了:2009年3月8日