タイ 中進国の模索
著者:末廣 昭
昨年8月、この本を出版した時、著者も、その後タイの政治がここまで混乱するとは想像していなかったのではないだろうか。
今年3月、タックシン元首相の資産没収判決を契機に始まったタックシン派赤シャツ隊によるバンコク中心部シーロム地区の占拠は、日本人カメラマンも死亡した4月始めの衝突以降益々情勢が悪化。その間アピシット政権との間で、総選挙の繰上げ実施を含めた様々な交渉を行うが政治的妥協に至らず、5月に入ると治安部隊との間で衝突が頻発し、死傷者の数も増加することになった。丁度この本を読了した先週末からも、政府の妥協案撤回や封鎖による兵糧攻めの発表を受け、衝突が激しくなり、5月13日以降だけでも、双方で30人近い死者と赤シャツ隊の指導者と言われるカティヤ陸軍少将を始めとする100人を越える怪我人が発生している(カティヤはその後17日に死亡)。今、これを書いている5月16日(日)夕刻のニュースによると、バンコクでは明日・明後日の週初2日を休業日とするとのことであるが、これがまた治安部隊による大規模なデモ隊排除と、それに伴う一層激しい衝突を惹起するのではないかと危惧されている。そしてその後19日(水)にはついに治安部隊がバリケードを破り、大規模なデモ隊の強制排除を行う。取り敢えずタックシン派の指導者たちは、行動の終結を宣言し、一部が警察に出頭したが、それに満足できない暴徒化した一部の群衆は、街の至るところに放火したり、窓に投石したりといったゲリラ行動を始め、政府はバンコクを含むいくつかの地域に戒厳令を施行し、21日(金)までをパブリック・ホリデイとして沈静化を図っている。しかし、後ほど述べるように、タイの近代化を象徴するSCが全焼した他、中心部の破壊は予想を越えるとも言われており、今後じわじわと影響が出るであろうマクロ経済と人々の心に残された対立感情を念頭におくと、最終的に少なくと85人の死者と1400人を越える怪我人を出した今回の抗争は、これから見ていくタイ現代史の中でも最悪の事態であり、これが社会に残した後遺症は、相当なものになると思われる。
このように依然流動的な足元の政治情勢を、現代タイの歴史を勘案しながら、中期的にどのように見れば良いか。私の職業上の観点からも、営業や投資の対象としてのタイをどう考えるか、という問題もある。実際、4月中旬には、情勢の悪化により予定していたバンコクへの出張中止を余儀なくされたこともある(直前の出張中止は2回目である)。その意味で、このタイミングでこの本を読んだのは時宜を踏まえていた。しかし、ここまで情勢が悪化するというのは、私も正直想像していなかったのである。著者は、1951年生まれ。アジア経済研究所の勤務が長く、チュラロンコン大学での研究経験もあり、現在日本タイ学会会長とのことである。
冒頭で著者が主張するのは、現在のタイの政治対立が、単に赤シャツ隊(親タックシン派)と黄色シャツ隊(反タックシン派)の対立とか、民主主義推進派と反民主主義派、王政保守派と反王政派、農村部と都市部の対立といった単純な構図では捉えられない、という点である。特に民主主義や王政に対する態度は、この双方の勢力の中でも多様であり、何よりも双方の運動自体が、もはや国民全体からの支持を失った政治ゲームと化しているからである。「両者が実力行使の先にどのような社会の構築を目指しているのか、さっぱりみえてこない」と著者は言う。従って著者は、ここで「タイ国の将来を見すえた視点」で、この国の過去と現状を理解し、将来を展望したいと考える。分析のためのキーワードとして著者が挙げるのは、@政治の民主化、A中進国化、という2つのコンセプトである。前者は、言うまでもなく王政との調和が大きな課題である。後者は、もはや農業国ではなくなったこの国のグローバル化する世界の中での姿勢についてである。
タイの政権が、一般のイメージに反し、実は日本と同様に短命である、というところから議論が始まる。80年代のプレーム(在任期間:8年5カ月)とタックシン(2001年から5年8カ月)を除けば、残り14名の首相の平均在任期間は1年半しかなかったという。しかし、他方でクーデターが発生しても、大きな流血惨事にはならず、何となく終結するところが、この国の政治がされなりに安定しているとの連想をもたらしている。別の研究者の言葉に従うと、この国の政治は「政権の不安定と政治の安定」という特徴を持っていたという。しかし、それでもタイ現代史の中では、大きな体制に関わる政治変動が何度か発生してきている。それは1973年の「10月14日政変」、1991年のクーデターと翌92年の「5月流血事件」、そして2001年1月のタックシンの登場であったという。この前2つの転機は、民主化に向けての運動が盛り上がり、一時的には軍の主導により挫折するとは言え、タイの政治体制そのものの変革が進む契機となった。そしてそうした流れが2001年のタックシンの登場を促すが、これが急激な「民主化」(対立側から見ればポピュリズム)と「創造的破壊」への懸念から、再び後退するという現状をもたらしているのである。従って、著者の認識では、現在のタイの混乱は、単純な親タックシン(赤シャツ)か反タックシン(黄色シャツ)の対立ではなく、「むしろ、グローバル化と自由化という時代の大きな流れの中で、タックシン元首相が掲げた『タイ王国の現代化』を目指すのか、そうではなくて、王室を擁護しつつタイ社会の公正と安定を目指すのか」という選択肢にコンセンサスが出来ていない結果である、と考えるのである。
著者は、以前に出版した「タイ 開発と民主主義」(1993年)で、タイの政治力学を、「民族・宗教・国王」という三要素の関係性で説明したとのことであるが、今回も同じキーワードを分析の基本とする。その上で、今回対象とする1988年以降のタイの歴史を、@政党政治の時代(1988−94、政策目標は経済社会開発)、A政治改革の時代(1995−2000)、Bタックシン時代(2001−06、国の改造)、そしてC2006年のクーデター以降(王政の擁護と強化)の4つの時期に分けて、この3つの要素がどのように機能したかを説明する。@からAへは、民族(政党政治家主導)から宗教(市民の活性化)へと位置付けられ、Bはタックシン(市民代表)による王権への挑戦とCその反動というのが、私の理解である。
この中で特に重要なのが国王の位置と役割である。今回の騒乱でも、国王であるブミボンの調停を期待する声が間欠的に上がってきていたが、それは1973年の「10月14日政変」と1992年の「5月流血事件」の際に国王が果たした調停者としての役割が今も鮮明に残っているからであった。著者も、まさにこの2つの事件を契機に、「『国の統治者』としての国王の役割が、単なる名目的ないしは理念的なものから、自ら判断し行動する政治アクターに変わった」と考えている。ところが、タックシンの時代は、彼が自らを国王に替わる「国の統治者」となることを目指したことでーしかも、その手法が、国王が体現していた「仏法と倫理にもとづく統治」ではなく、「実力(+財力)・自由競争原理・国家戦略」による統治を目指したー、クーデターでの失脚とその後の混乱を招くことになったのであった。言わば、タックシンは、それまで国王が体現していた「倫理的統治者(慈悲と寛容の精神)」という理念を軽視し、新たなグローバル時代の功利主義的統治を選択することにより、国王の権威を否定することになったのである。
こうした政治レベルでの変化に加え、社会・経済レベルでもこの国は1988年以降大きく変わることになる。それは、この国の「中進国化」であったという。国民所得による世銀の分類に従うと、90年代半ばにタイは「中進国」の入り口に差し掛かり、それに伴い、産業構造の変化や、都市中間層の増加、情報社会化に伴う都市と農村の情報格差、高齢者問題などの新たな問題が発生することになる。ここに、「グローバル化や自由化の波に自らを適応させる」ことを重視する「タイ王国の現代化」と、「王政と仏教を軸に社会の公正や安定を重視する」「タイ社会の幸福」という2つの選択肢が提示され、それを巡る模索が現在まで続くことになるのである。
著者は、この模索の背景となる1988年以降の経済成長について見ている。10%前後の成長が続いた95年までに、バンコクでの高層ビル、大規模百貨店、総合量販店などの建設、開店がラッシュし、街の景観が大きく変わると共に本格的な消費社会が到来する。それは97年のアジア通貨危機で一時的に落ち込むが、一人当たりのビール生産量やセメント生産量などは2007年まで継続的に上昇する。ある分析者は「経済ブームのあとのタイは別の国」と言う。
この成長のきっかけになったのは、言うまでもなく1985年のプラザ合意で、これが日本やアジアNIES企業による、アメリカ市場への迂回輸出のための東南アジア向け直接投資を急増させる。タイもその恩恵を受け、この経済ブームの時代に、経済成長率をはるかに上回る輸出の増加をもたらすことになる。1995年からは、政府が推進した産業投資の自由化(繊維、電機電子から、セメント、自動車、鉄鋼、石油化学等)もあり、「第二次直接投資ブーム」が到来するが、同時に土地・不動産への投機によるバブルも発生させる。私のビジネスに関わる証券取引所は1975年に設立されたが、1992年の制度改革を受け外国人の資金を呼び込むのに成功、同時にタックシンのように、電気通信分野を中心に上場を通じて巨額の資産を形成する新興財閥も登場する(タックシンのAIS社の他、ベンチャローングーン一族のUCOM社、ポーターラミック家のジャスミン社、CPグループのテレコムアジア社等が挙げられる)。但し証券市場は1994年に最高値を付けた後は調整し、アジア危機後の2000年に底値を付けた後反転するが、リーマン・ショック前で、最高値の半額を戻す程度に留まっている。
1997年のアジア通貨危機についてはその原因として、@国際短期資金移動説(流動性危機説)、A新型金融危機説(経常収支と資本収支の赤字を重視)、B実物経済限界説(輸出入バランスと特定産業への集中を重視)、C金融制度未発達説(金融機関の不透明性)などの諸説を紹介している。私は@が主因と考えていたが、当然そこには錯綜する諸要因と、中長期的な問題が介在している。著者は、危機の経緯を分析した後、「タイのように後発工業国では経済規模の比較的小さい国が、外貨建ての短期資金に依存しながら経済成長を追求していった場合、通貨不安や金融不安は、一国レベルではもはや抑止できない」と指摘しているが、当然そこから学ぶことはあるはずである。また中央銀行では、出世競争からの派閥対立が発生し、財政政策から切り離された金融政策という面でも、政治の影響力という面からも独立性を失っていたという分析も示されているが、これも将来に向けての大きな教訓となったはずである。
かくしてタイは、IMFの管理下に入ると共に、日本からの緊急融資を含めた支援策を受け、欧米型の金融制度や企業統治の導入を余儀なくされる。著者は、「日本政府がアジアを本当の意味で『地域』として強く認識し、深く関与するようになるのは通貨危機以降である」と指摘しているが、逆に言えば、それまではアジアというのは日本にとっては限界的な地域に過ぎなかったということになる。そしてその意味では、日本のアジアへの本格的なコミットはたかがこの10年ちょっとというのも、日本の戦略的外交力の欠如を物語っていると言える。
しかし2003年にはタックシン政権のもとでIMFの融資を予定よりも2年早く完済し、再び独立した金融・財政管理が可能となる。私にとってはより大きい関心である、その後のタイ経済の推移については、ここではそれ以上取り上げられていないが、その後危機の教訓から大きな債務を負うことなく成長してきたことは、リーマン・ショックでのタイを始めとする東南アジア諸国のダメージが、欧米に比べて限定されていたことからも確かである。
こうした経済成長の中で、政治はどう動いてきたのか。経済成長が始まった1988年は、同時に本格的な政党政治の開始であると共に、政治の腐敗と政権の不安定の始まりでもあったという。1988年7月の第16回総選挙は、14年振りの民選議員による首相を誕生させた(チャートチャーイ政権)が、小党乱立による利益誘導政治の始まりとなったのである。「ブッフェ内閣(利権に群がる閣僚)」とか「ばらまき大臣」と揶揄される政権より軍事政権の方がまし、ということで、1991年クーデターで政権が倒れ、軍人主導の政権が成立するが、これも1年後の1992年には大衆抗議行動とその弾圧(「5月流血事件」)の混乱の中で崩壊する。しかし、その後もタイでは、政治の浄化と利益誘導型=汚職が繰返される、不安定な政権が続くことになる。また選挙制度改革を含めた民主主義の強化に向け、政治家の質を高めるような憲法改正が検討され、1997年に、「国民参加型の政治」と「地方自治の強化」を骨格とする新憲法が制定される。こうして「公聴会」を多用する政治決定や自治体権限の強化が進み始めるが、これらの政治手法は、まさにこの民主主義を受けて登場したタックシンにより、悉く覆されてしまったという。
こうした90年代の経済成長と政治の混乱の中で、冒頭で著者が記載したようなタイ社会の「中進国化」に伴う変容が進むことになる。これは@消費社会の到来、A少子高齢化の進展とストレスの増加、そしてB高等教育の大衆化として説明されるが、その後の展開でより重要なのは、1997年国王が「足るを知る経済」を提唱したことである。
著者は、消費社会を象徴する事象や指標の数々を説明するが、それを象徴する大規模SCとして紹介されているバンコク中心部の「セントラルワールド」が、今回の騒乱で、デモ隊の放った火でほぼ全焼したのは全く皮肉である。またこれと併せて紹介されている「サイアムパラゴン」と共に、「セントラルワールド」が、王室財産管理局所有の土地を華人系財閥が出資者であるということであるが、これが今回の破壊と結び付いているかどうかは、にわかには判定できないものの、やや考えさせられる事実である。
少子高齢化とストレスの増大については、以前読んだ新書「老いるアジア」が、タイを含むアジア諸国の老齢化を全体として整理しているので、ここでは繰り返さない。タイも既に2001年に「高齢化社会」に入り、2023年には「高齢社会」入ると言われる。そうした中で、先進国型の生活習慣病が増加し、またストレスの増加は、以前は統計さえもなかった自殺の増加となっている。タイはもはや「微笑みの国」ではなくなった、と著者は言うのである。そして最後の高学歴化は、かつての日本と同様に、「高等教育と労働市場のミスマッチ」をもたらしている。
こうした中で、通貨危機の最中の1997年12月、恒例の誕生日前日の講話で、国王が、仏教の「少慾知足」に基づく「足るを知る経済」という哲学を表明、政権ベースではその具体策を検討する委員会が設置される。政策ベースでの具体例としては、複合農業やコミュニティー開発、環境との共存、といった程度に留まることになったが、まさにこうした哲学そのものがタックシンにより事実上否定されていくのである。
こうしてタックシンとその政治哲学、手法についての説明に入る。ここまでのタイの政治と政権交代は非常に分かりにくかった。丁度日本の政権交代が、外人の目から見ると理解が難しかったのと同様、タイの政権交代もある意味、タイの伝統的風土のなかで暗黙のうちに形成されたルールに従って行われていたと考えられる。日本と同様、政権の不安定はあるものの、政治は安定していたのである。
ところが、丁度小泉改革が外人受けしたように、タックシンの「タイ国家の創造的破壊」は、読者の私にとっても非常に分かりやすい。企業経営型の政権運営、目標管理型の官僚統制、都市と農村双方の成長志向、という「タクシノクラシー」は、非常に明快な「タイ王国の現代化プログラム」である。また「強い首相」を目指すタックシンは、自ずと「ポピュリスト型」の行動を取ることになるが、他方でその過程で、権力集中と異常な蓄財、そして一族郎党を登用するネポティズムが目に付くことになる。しかし、彼のもとで、アジア通貨危機からの脱却とそれ以前にまさる経済成長、そしてなかんずく「草の根経済振興政策」を通じた農村振興策が進んだことが、彼の伝統社会への挑戦を快く思わない勢力の対応を難しくすることになる。
言うまでもなく、タックシンに対する批判が公然化したのが、2006年1月の、彼の一族が保有するシン・コーポレーション株の、シンガポールSWFであるテマセックへの売却発表であった。反タックシンのデモが盛り上がる中、同年9月、彼が国連総会出席のためタイを離れたすきを狙ってクーデターが勃発、彼はその後一時的な帰国を除くと、現在まで国外を転々とすることになるのである。
クーデターは国王の裁可を得る。軍人中心のスラヨット政権が成立し、今度は悉くタックシンの政策を否定していくのである。
その最も中核が、改めての憲法改正であったが、この主目的はタックシンのような「強い首相」の退場を阻止すると共に、司法権を強化することで、この憲法は、タックシン支持者の多い農村部で反対票が高くなるが、なんとか成立し、2007年8月に公布される。そしてこれに前後し、タックシンが率いたタイラックタイ党の解散と党役員11名の5年化の選挙権停止、並びにタックシン一族の銀行預金差し押さえという、現在の混乱に連なる一連の「タックシン派根絶やし策」が実行される。この政策を実行した「憲法裁判所」が「守旧派」の砦であることは言うまでもないが、別に枢密顧問官制度と言う、まさに老人政治そのものであるような機関も影響力を有しているというのだから、タイの伝統社会は、それこそ「恐ろしい」。しかしタックシン派も、他の政党を乗っ取って2007年の選挙後成立したサマック政権、そして続くソムチャーイ(タックシンの義理の弟)政権に連立で参加し、タックシンの政策を残すことを試みる。反タックシンのデモでの死傷者が出る中(王妃と王女が犠牲者の葬儀に出席!)、記憶も新しい2008年11月の国際空港占拠が行われソムチャーイ政権も崩壊、現在政権にある反タックシンのアピシット連立内閣が成立するが、今度は2009年4月、親タックシン派がパタヤーでのASEANサミットの暴力的阻止を行うなどして「政権の不安定がそのまま政治の不安定に直結する最悪のシナリオ」に陥り、現在に至っているのである。
最終章で、タイはまず継承問題も含めた王権とその権威の問題、並びに王権と首相の関係性について安定を目指さなければならない、と述べると共に、他方でタイ国民自体は、こうした政治混乱にも関わらず柔軟に生きていく術を持っているという。結局タイの課題は、「伝統的な社会制度・組織(王制や仏教)を強化し、タイの価値意識を尊重する「社会的公正の道」」と「伝統的な社会制度・組織を改革し、価値意識も変えていく「現代化への道」」であるが、タイの人々はその柔軟な対応力をもって、この折衷をうまくバランスを取りながら進めていくであろう、と締めている。しかし冒頭にも述べたとおり、著者のこの期待は、今回の騒乱で大きく後退することになったのではないだろうか?
今回の混乱を私なりに整理すると次のようになると思われる。まずタックシンの改革は、日本もまさに直面している、グローバル化と産業競争力や地政学的戦力バランスが大きく変化する中、如何に一国が生き延び、成長を確保しようかという問題に対するタイなりの回答であった。特に、グローバル化と市場経済の拡大を利用し、一警察官僚からのし上がったタックシンにとっては、この変化に対応することでしかタイの成長がない、と考えたのは納得できる。そしてそのための政策は、私からみてもたいへん分かりやすい。
しかしながら、当然その改革は、国内の守旧派の抵抗を呼び覚ます。この抵抗を阻止するため、タックシンは、農村振興策も含めた「デューアル・トラック政策」で、農村住民の支持を確実にしつつ、「民主的選挙」を利用し、「強い首相」の実現を目指す。しかし、この姿勢が、王の権威への脅威と言う不安も生み出し、その結果として守旧派のクーデターを正当化させることになる。しかし、引続きタックシン派は、人口的には多数派である。「少数の守旧派既存支配層」対「経済的利益を享受した農村住民の支持を受けたタックシン改革派」という図式が、今回の混乱の背景にあるというのが私の認識である。
今回の混乱で、国王があえて沈黙を守ったのは、彼が今や高齢で長く病気に伏せているという体力的な問題を別にしても、もはや国王が介入しても必ずしも混乱が収まらないところまで事態が進んでしまったことを感じているからなのではないだろうか?国王の支持は、タックシン追放のクーデターや反タックシン派の死者の弔いに王妃らが参列していることから見ても、明らかに守旧派にあることは明らかである。しかし、タックシンの影響力が、国民の多数に及んでいることを考えると、それをあからさまに表明することは、間違いなく混乱を深めると共に、王権の権威自体を危機に晒すことにもなりかねない。こうした「タイ型権謀術数」が、今回の国王の対応の裏に読み取れる。
しかし、いずれにしろ現在のブミボン国王の統治時代が近い将来に終焉するのは明らかである。王子が、そのような権威を持っているという話は聞かないし、世界は益々スピードを速めて変容している。取り敢えず反タックシン派のバリケードを強制排除はしたものの、今回の事件が、益々この両者の対立を深めたのは間違いないし、この結果、「社会的公正」と「現代化への道」のバランスをとるという冷静な議論と政策実行が、将来的に進むと言う展望は現時点では抱くことができなくなっている。世界経済は、リーマン・ショックからの一時的回復の後、再び足元は欧州での国家債務問題に起因する信用不安に襲われており、安定を取り戻すにはまだ時間がかかりそうである。タイの経済は、足元は、世界経済の一時的回復を受けて、輸出の回復を牽引力として、取り敢えず成長力を取り戻しているが、また時間差を受けて信用不安の波が襲った時に、その力を維持できるかどうかは未知数である。その時に政治的な混乱が残っていたとすると、この国の力は大きく後退することになる。これから数年、タイの政治・経済は、大きく変動しながら蛇行を続ける可能性が高い。公私共に、この国の動向から目を離すことは出来ないことを感じている。
読了:2010年5月13日