王室と不敬罪
著者:岩佐 淳士
こちらは、一時帰国時に調達した、今年8月の新書新刊。1976年生まれで、2012年4月から2016年9月まで、特派員としてバンコクに滞在した毎日新聞記者によるタイ・レポートである。
いうまでもなく、その間2014年5月、現在の暫定首相プラユット率いる軍部によるクーデターにより、当時のインラック政権が崩壊し、その後総選挙による民政移行が度々延期されながら現在に至っている。そのクーデター自体は、表向きは都市既得権益を代表する黄色シャツ陣営と、農村部を中心とするタクシン派を代表する赤シャツ陣営の対立が激化したことを受けた、軍部による仲裁であったが、実際には、軍部の力を借りた前者によるタクシン派政権の追放であったことは、誰の目にも明らかである。しかも、そうした危機における「タイ式民主主義」を支えてきたブミボン国王は、老齢もあり、その対立を収拾することができず、結局軍部が、いわばその空白を埋めるべく、「国王」の名の下に、タクシン派の粛清を進めることになった。そして2017年10月、そのブミボン国王も逝去、新たな国王として、評判の芳しくなかったワチラロンコンが、ラーマ10世として即位することになるが、それは益々この国の先行きを不透明にすることとなる。まさに著者が伝えているタイは、そうした移行期・変革期におけるこの国の不安定な現在の姿なのである。
それにしても、あえて言えば、著者は結構リスクを犯して、この国の王室、なかんずく不敬罪を巡るある種のタブーを文書化する試みを行っている。誰もが知っている、しかし不敬罪故に、誰もが公の場で語ろうとしない事実とそれを巡る様々な事件。著者は、それらを、あえて軍政からの反応を試すかのように語っていくのである。
例えば、プロローグで紹介されている「禁断の映画」の映写会。「国家の分裂を招く内容を含んでいる」ということで、当時のタクシン派インラック政権のみならず、その後の軍政でも上映禁止となっているイン・K監督作品を見ることだけでなく、監督へのインタビューを含め記事にすること自体がタイでは危険な賭けである。更に、チェンマイで、「国王に対する悪口をフェイスブックに投稿」した(本人は、他人が自分のパソコンを使い書き込んだもの、と主張)ことで、軍政に禁固28年を宣告、収容された28歳の母親への、獄中のインタビューや、残された子供たちのルポ。これ等もかなり際どい記述と思われる。
基本的に、著者は、「ラックタイ」と呼ばれる、「『国王・仏教・民族』を3原則」とし、「タイ民族は王室と仏教のもとで反映する」とする「タイ式民主主義」は、貧富の格差を固定あるいは拡大する保守主義と考えており、それは私もまったく同感である。その上で、1973年の「10月14日事件」から始まる軍政と民主勢力との対立と、それを抑えるために国王の権威を高める施策がとられてきたことを跡付ける。それが顕著となるのが1980年3月から1988年8月まで続いたプレム政権の時代で、ある程度の民主化が図られると同時に、国王の権威を高める政策がとられ、国王もそれに応じることになる。その後も、タイでは軍部のクーデターと民主化運動の対立が頻繁に起こるが、特に1992年の「5月流血事件」でブミボン国王の仲裁が双方の対立を抑えたことで、国王の権威が確立したという。しかし、「タイ史上最も民主的な憲法」と言われる「1997年憲法」の下で実施された2001年の総選挙でタクシンが首相に当選すると、この国王を頂点とする体制が揺らぐことになる。タクシンによる強力なリーダーシップによる新自由主義的な経済・行政改革は、国王の権威をないがしろにするものと見なされ都市既得権層の反発を受けるが、「知るを足る経済」の下で格差に甘んじてきた農村部貧困層の絶大な支持を集める。そうした中で、都市既得権層は、タクシンの姿勢に対し「反王制」のレッテルを張り、2006年9月の軍部クーデターで彼を追放するのである。双方の対立が続くが、選挙をすれば農村部の多数票に支えられたタクシン派が勝利。2011年7月の総選挙では、タクシンの妹インラックが首相に就任するが、再び2014年5月に現在の暫定首相プラユットにより倒され現在に至ることになる。
著者は、この間、特にタクシン登場以降、王室が反タクシンで動いてきたことを指摘しているが、これも「王室批判」という観点では結構デリケートな記載である。例えば、2006年4月、タクシンの「シン・コーポレーション」売却をめぐる疑惑の中で行われた下院議員選挙。反タクシンの野党がボイコットする中で、タクシン派は過半数を制するが、国会召集の定数を満たせなかった際に、ブミボン国王が「一党だけによる選挙は民主主義とは言い難い」と述べたこともあり、憲法裁判所はこの選挙を無効とする判決を下したとする。また2008年10月には、反タクシンの街頭デモで死亡した女性の葬儀にシリキット王妃が出席し、反タクシンの運動に「正当性」を与えたという。
タクシンは、これに対抗し、ブミボンの信頼の厚い側近で既得権益を代表する枢密院議長プレムを批判したというが、同時に、当時皇太子であったワチラロンコンに接近したという。そしてこの皇太子が、「度重なる女性問題=三度の離婚歴」等で国民からの人気が低かったにも関わらず彼への王位のスムーズな継承を示唆したり、クーデターで追放された後には、ウィキリークスに「皇太子がギャンブルで作った借金を(タクシンが)肩代わりした」と言う「シンガポール高官の発言」が掲載されたという。同じウィキリークスでの漏洩情報では、ワチラロンコンとプレムの関係が悪かったことなども、タクシンが皇太子に接近した要因だと指摘されているが、この辺りも、王室スキャンダルの暴露に近く、タイ国内では直ちに反応がでるような記載と思われる。
タクシン自身は、「反王制」というよりも、そうした動きで反タクシン派からの批判をかわしながら、「王室サークルの切り崩しを図る」という現実政治的な戦略を持っていたようであるし、農村支援策も、心底農民の生活向上を願っていたというより、選挙で勝つための手段と考えていた節がある。ただそうした「『特権層による支配構造』を打倒し、『民主主義の実現』を訴えるタクシン派の主張は国王の権威のもとで安定に導いてきた『タイ式民主主義』の批判」、ひいては国王そのものに対する批判となる。著者によると、ブミボン国王の晩年に至り、タクシン派の先鋭的な闘士による王室を直接批判するヴィデオがインターネットに流されたり、チェンマイなどの北部で、「ランナー人民共和国樹立」の動き等も出たという。そしてその結果としての2014年のプラユットによるクーデターは、その「中立性」を問われるものであった、というのが著者の主張である。未だ我々の記憶に新しい、2014年のクーデターと、その後のタクシン派を標的とした弾圧。そうした中での2016年10月のブミボン国王の逝去と、ワチラロンコンの即位。そうした過程を辿りながら、著者は、新国王とプレムを筆頭とする側近との間で何らかの確執があった可能性を示唆しているが、それはさすがに報道できるまでの信憑性を得られることはできなかったようである。
新国王は、就任前後、自転車イベントの実施等、自らをアピールする活動も始めたというのは、私の記憶にも残っているが、他方で、著者は「女性遊びやギャンブル、不法ビジネスにまつわる噂が絶えなかった」というBBCの記事(そしてそれをFBで共有した25歳の学生の逮捕)や、新国王の過去の結婚・離婚の詳細履歴、ネットで拡散した当時の王妃との「ヌードビデオ」等の逸話も紹介している。またまだ皇太子であった1987年の日本訪問時に、まだ愛人関係にあった女優を公式行事に同席させようとし、日本政府が拒否。それに怒った皇太子は予定を早めて帰国したのみならず、その後、橋本首相(当時)のタイ訪問時に、ドンムアン空港で、タイ軍用機により橋本首相の専用機の進路を妨害する復讐に出た、という話も紹介している。また2014年12月の3回目の離婚の直前に、当時の王妃の親族が汚職で逮捕されたのは、「国王に即位した後に離婚したのでは体裁が悪い」ことも配慮した、政治的な動きであった可能性を示唆している。2015年10月には、皇太子側近の占い師や警察官が不敬罪で逮捕され、その主要な逮捕者が自殺や病死を遂げる、という事件も起きているという。
こうした様々な議論がある新たな国王の下で出発したこの国は、以前のように国王の威信だけで国をまとめていくことは難しくなっている。軍政は、引続き総選挙を先延ばしにして、民政への復帰を拒み、他方でタクシン派の力は衰えることはない。不敬罪を批判した米国大使への捜査など、国際関係も微妙である。日本は引続きタイには大きな経済的利益を抱えていることから、人権面では「甘い」対応を行い、他方、タイは中国ににじり寄る。少数の都市既得権層と多数の農村貧困層という格差を抱えるこの国の先行きは、多くの課題を抱えている。そうした中で、タイにおける不敬罪というタブーになんとか切り込もうという著者の野望が垣間見られる作品であるが、この結果、著者にタイ側からどのような対応がなされるかは大きな個人的関心である。そしてそれをここで間接的に紹介した私自身も、もしかしたら注意した方が良いのかもしれない。まだこれからも、仕事と余暇の双方で何度も訪れるであろうこの国の裏表を改めて認識させる新書である。
読了:2018年10月20日