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アジア読書日記
マレーシア
マハティールの履歴書
著者:マハティール・ビン・モハマド 
 帰国前最終の週末、ラストスパートで読了。1981年から22年間、マレーシア第4代の首相を務めた政治家の自伝である。アジアの政治家の自伝としては、こちらへの到着直後に読んだリー・クアン・ユーの作品以来である。その意味で、奇しくも、今回の私のシンガポール滞在は、現存の東南アジアの政治家としてはいろいろな局面で比較されるこの二人の自伝で幕を開け、そして降ろしたということになる。

 本は2部構成となっている。第一部は著者が2011年に英語で刊行した長大な自伝のうち、訳者が日本用に抽出した幾つかの章を翻訳したもの。そして第二部は、まだ著者が首相在任中の1995年、日経新聞の要請に応じて寄稿した「私の履歴書」である。当然重なる部分も多いと共に、15年以上の執筆時期の違いから生じるある事象や人物についての異なった解釈や評価も見られることになる。

 著者は、1925年生まれであるので、現在88歳。しかし、昨年(2013年)5月に行われたマレーシアの総選挙では、自ら激戦区での応援演説を買って出るなど、2歳年上であるライバルであるリーの健康不安説が流れる中、まだまだ健在である。マレーシア北部ケダー州の州都であるアロースター出身で、インドの血も混ざっていると言われるこの傑出した東南アジアの政治家の経歴や考え方を第一部から見ていこう。

 まず彼の履歴について見ると、彼は教師の息子で9人兄弟の末っ子。マラヤ大学の医学部卒業。1981年、彼が首相に就任した時、それまでの3代の首相は、全てマレーの支配階級の出身で、皆ロンドンで教育を受けた弁護士であったので、彼は庶民出身の政治家として封建主義的なマレー社会の中では異例の立身出世を遂げたことになる。しかも、その政治活動の過程で、1969年、彼は当時の首相ラーマンを批判して与党連合の政治組織(UMNO)から追放されたこともある「反逆児」であった。そんな彼がどうして第3代首相フセインから後継者に指名されたのかは興味津々であったが、恐らくは書くことのできない裏の様々な事情があったのだろう。第二代首相ラザクの後押しがあったといった表面的な経緯は書かれているものの、あまり説得力はない。また「政界工作のために現金を使ったことはない」等々、汚職についての強硬な姿勢も強調しているが、こちらでマレーシア系の中国人等と話していると、彼の利権政治は明らかであるという話がしょっちゅう出てくるので、この辺りはやや眉唾である。もちろん政治的な実力があったことは確かであるが、それ以上の何かがなければ、ここまでの地位は望むべくもないだろう。

 幼年期から青年期の回顧では、あまり特記すべきことはない。成績は優秀であるが、それ程飛び抜けて優れていた訳ではない。マラヤ大学医学部の同級生は70人であったが、大半は中国人でマレー系は彼を含めて僅か7人であったというのが、当時のこの国の教育事情を示している。これは後年彼がUMNOへの復権後いきなり教育大臣に任命され、大きな教育改革を計画する時の原点となる。また医学部卒業後ペナンでのインターン後、故郷アロースターの医務官となるが、ここで頻繁に医師として回っていたのがランカウイ島であったという。これは後に、この島の観光開発に彼が注力する理由となる。

 首相就任後の政策面で彼を有名にしたのは「ルック・イースト政策」で、これが彼の日本との緊密な関係を作っていくことになる。ただ、その動機の根底にあるのは、基本的には「反欧米」という強いアジア人意識であることが、この本からは見えてくる。

 まずリーと同様、第二次大戦開戦時の日本軍のマレー半島での進撃は、当時16歳の著者の「白人が優位であるというまじないを解いてくれた。」そして戦後1961年に初めて日本を訪れた際に、「欧州は200年以上かけて、ゆっくり発展を遂げたのに対して、日本は急速に経済発展をした」という側面に注目し、マレー人が日本から多くのことを学べると確信したという。しかし、その背景にあるのは、実は彼の経験の中にあった「欧州人の傲慢な態度」といった感情的な反欧米意識で、それは「ヨーロッパ人」という章であからさまに示される。戦争を繰り返すことの中から生まれた「力は正義なり」という欧米の信念。著者は、市場重視の競争原理もこうした信念の一例であると見る。そして民主主義の名の下での他国の侵略。著者の見るところ、彼らにとって「欧州中心主義でない世界は不快以外の何ものでもない。」こうしたある意味感情的な反欧米感情が、著者の幾つかの政治判断の基礎になることになる。

 1991年に、2020年の先進国入りを目標に、マレーシアの取るべき道を策定した「ビジョン2020」についての説明(多民族国家統合のための、「バングサ・マレーシア/マレーシアの家」構想など)の後、彼が推進しようとしたマレーシアの通商政策が語られるが、ここでも反欧米意識が随所に現われている。それは1990年代初頭のEAEG(東アジア経済グループ)に対する米国の露骨な干渉(日本と韓国は米国の圧力に屈した、という批判)、その後形成されたASEAN+3での(米国の手先としての)オーストラリア、ニュージーランドへの警戒感、マレーシア主催のAPEC会合でのゴア副大統領の「マレーシア人に政府転覆を促す演説」への不快感等々である。そして極め付きはアジア通貨危機での著者の対応である。

 1997年5月、著者が、アンワル・イブラハムに首相代理を務めさせ、英国で休暇をとっている時に、タイ・バーツ売りから始まるアジア通貨危機が勃発する。まずこの時点では、著者は、その後現在に至るまで対立することになるアンワルを、自分の後継者として考えていたことが注目される。そしてソロスを始めとする為替トレーダーによる「私たちの国や国民を貧しくする」ような投機に対し、「経済的にも倫理的にも理解できず」「憤り」を感じ、IMFのカムドシュ等に働きかけると共に、為替トレーダーを非難する演説を至る所で繰り返すことになる。しかし、アンワルが「IMFなしのIMF的解決」を模索したことから二人の関係は決定的な対立を迎える。面白いのは、ここでマレーシアの為替投機失敗の経験が語られていることである。「外貨準備が為替の乱高下によって激減しないようにリスクヘッジするため」行った為替取引で「結局、冒険は失敗して巨額の資金を失った」と自ら語っている。かつて為替市場で名を馳せたマレーシア中銀の派手な取引の結末は、著者が自ら認める通りだったのである。

 マレーシア株取引停止やリンギ/ドルの固定相場制の導入といった「反IMF的」な政策を強行していく過程が語られる。インドネシア政府がIMFに屈し、「カムドシュが、スハルト大統領の前で腕を組んで、勝ち誇った不遜な写真」に怒りを感じた、という感想は、欧米主導への反発の極みである。この危機を乗り切る上で功績のあった現在の中銀総裁であるゼティへの全幅の信頼の反面で、アンワルについては「不適切な性行為による解任」で、「通貨危機への対応策の不一致」が原因ではない、としているが、これはその後の二人の関係を考えると単なる政治的な批判であることは明白である。

 9.11については、穏健モスレムとして、ブッシュがこのテロを「キリスト教徒に対するイスラム教徒の攻撃」と位置付け「聖戦」を呼びかけたことを厳しく批判している。「貿易センタービルの崩壊は、別に地下に仕掛けられた爆弾が原因で、テロリストに対して総力戦で戦うことを世界に納得させるために入念につくりあげられたシナリオではなかったのか」という陰謀史観にはやや承服しかねるが、それでも米国のアフガン進攻には消極的に、そしてイラク進攻には積極的に反対を表明し、パレスチナ問題に対しては反イスラエルの論陣を張ったというのは、ある意味一貫している。

 著者の最初の閣僚経験が教育大臣であったことから、マレー人と中国系を始めとするその他民族の教育問題は、この国の難しさを物語っている。中等教育を英語で行うか、マレー語で行うか、という問題は、一方でブミプトラというマレー人優先政策を実施しているこの国の場合は、英語で割り切ったシンガポールのように簡単ではないのは理解できる。マレー語の公用語化について著者は献身的に闘ってきたというが、他方でマレー語教育の結果、マレー人の教育水準が低下していることも認識している。「現実主義者として」英語教育の必要性を熟知すると共に、イスラムの宗教教育が「儀式をいかに行うか」を重視し、「イスラム教徒としての生き方や価値観をいかに築いていくかを教えなかった」ことにも批判的である。こうして公的教育での英語問題や多民族キャンパスなどが試されることになるが、著者自身が必ずしも成功したとは言えないことを認めており、依然この国の教育問題は問題が根深いことが示唆されている。更に、最近の「大学入学者の70%が女性である」ということで、マレー人男性の怠惰を嘆いているあたりは、自分のマレー人との接触経験からも、これはさもありなんという感じである。

 2003年の首相辞任の経緯が語られる。後継者にアブドラ・ラーマンを指名。そのアブドラが副首相にナジブ・ラザクを選任し、丁度私がこちらに着任した時の体制が出来上がった。しかし、著者も認めているように「わずか数年で、あまりに早く物事が深刻に変化する。」「自分自身が立候補しない選挙としては40年振り」であった2004年の総選挙は与党UMNOが勝利し、いったんは自分の後継指名は間違っていなかったと感じる。しかし、アブドラが首相としてふさわしくなかったことを悟るのにそう時間はかからなかった。著者が進めてきた幾つかのプロジェクトがアブドラの下で中止された。その一つはシンガポールとの間の新しい架橋計画であり、これは著者によるとシンガポールの主張に「服従」したものであったという。そしてアブドラ政権に批判的な発言を行うことを決断するが、他方アブドラ側も彼が再度立候補した党員選挙で、彼の支部代表選出を妨害するなど、やや緊張が高まったようである。更に2008年3月の選挙でのUMNO敗退は、彼のUMNOへの献身を失望させることになる。丁度、著者がこの回想録を終える時点で、アブドラが首相を退任し、ナジブが第6代首相に就任することになった。著者は「このことでUMNOや与党連合は救われるのだろうか」と自問し、「無能な国家経営の下で国がつまずいているのが耐えられない」として復党を決意する。時まさにリーマン危機が発生し「金融機関のメルトダウン」が発生している。ナジブ政権がこれを乗り切れるか?著者は「アブドラ政権よりはよほどまともであることは間違いない」として、この回想録を結んでいるが、その後のナジブ政権の評価が、まさに、あわよくば独立後初めての政権交代、しかも、彼の宿敵であるアンワル率いる野党への政権交代をもたらす一歩手前まで行った昨年(2013年)5月の薄氷を踏むような際どい総選挙結果に示されたといえる。この選挙運動への著者の協力については、それがあったためにあえて与党は踏みとどまったのか、それともそのためにこうした際どい結果になったのか、というのは判断が難しい議論であろうが、彼の現在の政治的影響力を見る上で興味深いところである。

 第二部は1995年に日経新聞に寄稿した「私の履歴書」であるが、第一部と重複する部分が多いのと、政策問題についてはいまや時代が古くなりすぎてしまっているので、簡単に見るだけにする。

 1995年という時代は、2年後にアジアを襲う通貨危機の前で、マレーシアを含めたアジア全般が元気であった時期である。他方日本ではバブルが弾け、結果的にその後約20年に渡るデフレが始まることになる。その中で、著者は自分が「国家建設の一つの手本にしてきた日本、アジアの発展に多大な貢献をしてきた強力な日本が最近、指導者に恵まれず、政治も経済も混迷しているのが気掛かりである」と警告する。まさに著者自身が日本の混迷を予想していたかの如くである。

 それ以外は、この最初にアジアが元気であった時期を反映し、ある意味自信に溢れた著者の履歴が紹介されている。実は幼年時代から引っ込み思案で初対面の人と話すのは苦手、そしてそれは基本的に現在も変わらないこと、英語学校で英語の本を片っ端から読んでいったこと、しかし日本占領後は果物などの屋台を開き、日本人と初めてじかに接触することになる。

 戦後戻ってきた英国によるマラヤ連合構想に反対することから著者の政治活動が始まる。著者によればこのマラヤ連合構想は、マレー人と中国人を台頭に扱うという構想で、マレー民族主義の立場から彼はこれに反対の論陣を張る。マレー人の反英組織はその後UMNOとしてまとまり自然に独立運動となっていったという。

 医者としての学生生活やそこでの、将来の妻となるハスマとの出会い。医師として働きながらの政治活動。1964年に地元ケダー州から当選し、マレー人の権利拡大に奔走する。中央議会で、中国人やインド人にも対等な権利を与えることを主張していたリー・クアン・ユーと激しく論争をしたという。「新米議員が中央政界でたちまち有名になれたのは、リー氏との激しい論争のおかげでもある」というのは、その後現在まで続くこの両者の個人的な関係を示唆していて面白い。

 その後、1969年5月の、クアラルンプールでのマレー人と中国人の間での人種抗争を契機とする、著者のラーマン首相批判とUMNOからの除名、「マレー・ジレンマ」の執筆から復党。企業経営実務の失敗経験から日本の産業政策との出会いによる東方政策の策定など。副首相から首相への道のりは、前半部でも書いたが、その過程はあまりクリアーではない。その他、EAEC東アジア経済グループ構想と、それに対する米国の妨害と日本の優柔不断な姿勢なども批判されているが、これらも第一部と重複する記載である。

 この政治家の特徴は、政治的には穏健イスラム教に依拠したマレー民族主義者であるが、経済政策面では「ルック・イースト」に象徴されるプラグマティズムがバランス良く共存していたことにあるのではないだろうか。もちろん地域のライバルであるリー・クアン・ユーも、カメレオンのように政策を転換していくプラグマティストではあったが、彼は「反共」という点を除けば、政治的にも一定のドグマに囚われることのないプラグマティストではあったが、マハティールの場合は、イスラムという枠組みがある点が決定的に異なっていた。それが特にマレーシアでの中国系に対する処遇を中心としたリーとの論争となり、また彼がマレーシア政界でのしあがっていく要因にもなったといえる。

 他方で、そうした穏健ではあるがイスラム民族主義的な側面が、この自伝の中でも時としてやや情緒的な議論をもたらしているように思える。リーはプラグマティストとして、カメレオンのように政策転換を行ったが、それぞれの局面での彼の判断はある意味非常に論理的であり、読者に対し十分説得力を持っている。それに対し、マハティールは、もちろん基底にある反欧米感情は別にしても、国内での政治問題―例えば他民族教育問題やアンワルやアブドラとの対立等―について必ずしも論理的に説明ができていない。そして何よりも、既述したように、一般庶民出身の彼がどのようにして首相までのしあがったのか、ということについては少なくともここで翻訳された部分では明確に説明されていない。そのためこの自伝で私が最も興味を持っていた、この国の政治システムがどのような要因で動いているのか、そしてそこでの指導者はどのように選別されているのか、といった論点については、残念ながら十分な情報が得られなかった。これが、シンガポールの発展が論理的に理解できるリーの自伝と、著者の自伝との最大の違いである。そしてこの地域に6年弱住んだ私が、この国とそこでの人々に対して抱いたある種の苛立ちは、ここで著者がクリアーに説明していない問題に、その根源的な要因であるのではないか、と思われるのである。

 今後、私がまたこの地域に戻ることができるかどうかは、まだ現時点では明確ではないが、もし再びそうしたチャンスがあるとすれば、同じ穏健イスラムの隣国インドネシアと共に、この国に対しもう少し踏み込んだ観察を続けてみたい。

読了:2014年2月8日