マラッカ海峡物語
著者:重松 伸司
今回のアジア本は、2019年3月の出版であるので、間違いなく初読である。著者は、1942年生まれなので、現在既に70代後半。経歴を見ると1999年に博士号(文学)を取得しているので、これも50代後半と、元気な高齢者のお手本のような人生を送っている。そしてこの本の内容も、著者がこれまで調査してきたミクロの材料を散りばめた、相当マニアックな作品になっている。
題名は「マラッカ海峡」であるが、主たる舞台は、マレーシアのペナン。このアンダマンに面した島は、私が1990年代後半に、初めて家族と長期の休暇を過ごした東南アジアのリゾートで、且つ昨今は業務で深い関係を持つに至っている。その地を核に、主としてベンガル湾を巡る近世の交易と街の発展を様々な側面から描いている。そして、この「ベンガル湾海域を内懐のように抱えるインドと東南アジア」という視点から、ペナンの歴史を通じて「マラッカ海峡―ベンガル湾―インド洋間の文化伝播・交易関係」浮かび上がらせようという点が、本書の特徴である。
19世紀より以前から、マラッカ海峡では「南インドに拠点を持つマラッカイヤールやムスリムのチュリア、あるいはヒンドゥー商人のチェッティ、そして西アジア出身のアルメニア海商、インドネシアの海民」らが、「ペナンやアチェを拠点に交易に従事していた」が、「19世紀初期から20世紀にかけて、このルートは、(中略)新たに南インドやベンガル各地からマレー半島への移民の移送路となった」という。そしてそのルートの中で、「島周辺の海域の広さ、水深の深さ、風待ちに適した入り江などの自然条件」と「ビルマ、タイ、インドからの交点に位置する」ことからペナンが海政学的な重要性を持っていたと考えられる。ベンガル湾海域とインド洋の交差点にあるこの地域は二つの複雑なモンスーンの影響下にあり、上記の海商たちは、「こうした複雑な風向と風力を読みつつ、いずれのモンスーン期にもほぼ半年間の風待ちと交易生活をペナン・マラッカなどの港市で過ごしていた」という。
こうしたペナンの、主としてイギリス東インド会社の行政長官らに率いられた街作りが、詳細に渡って紹介されている。植民地支配の死活問題であった良質な飲料水の確保、海岸沿いのバトゥ・フェリンギー(マレー語で「異人街」を意味する)などの保養地やビンロウで覆われた熱帯性原生林の果樹・薬草園としての開発(ペナンは、マレー語の「ビンロウ」。ビンロウは、一種の覚醒作用があり、アジア人の儀式・祭礼で必要不可欠な習慣であった、という)、コショウ栽培計画や海軍基地構想の失敗、あるいはシンガポールやマラッカのそれと同様、「小規模な土塁」に過ぎないが、戦略的な意味を持ったコーンウォリス要塞の建築等。
続けて、冒頭でも紹介されたこの地域で活動していた数々の海商たちーインド商人、「農・商・海・海賊といったさまざまな生業を複合的に持ち、不定期の移住・移動の慣行をもっていた」というアチェ、ブギス、ミナンカウ等の海民、アラブはイエメンからやってきたハドラミーらーの細かい活動と、そうした多様な民族が出入りするペナンを植民地化した英国人フランシス・ライト等について語られている。
改めて首都ジョージタウンの建設史が説明されるが、ここで面白いのはペナンが、シンガポールと共に英国植民地であったインドや、ナポレオン戦争後の英蘭協定でオランダに組み込まれたスマトラからの「インド人流刑囚」受入地となり、彼らが都市建設の労働者となったが、1857年のインドでのセポイの反乱後、受入れが拒否されたという歴史である。現在のシンガポールでのインド、バングラ等からの契約労働者による土木現場の労働力確保は、この時期に作られた形が、そのまま現代まで続いていると考えられる。また同時に、ペナンの守備や治安はインド人傭兵に担われたというのも、シンガポールと同じ構造である。また19世紀半ば以降、錫鉱山、ゴム、紅茶、コーヒーなどの労働力として中国から「奴隷に近い」労働者がかき集められた、というが、これがまさに地域全体における「プラナカン」化を促したことは言うまでもない。そしてそうしたインド人や華人集団を統制するために、それぞれの集団に「カピタン」という頭目を置き、彼らにまとめ役の機能を負わせた「間接統治」を行うことになる。こうした移民集団は、華人の中だけでも出身地ごとに結束し、抗争を起越していたというのも、現代に至る移民社会の裏面史である。
19世紀後半頃の、この地における「からゆきさんを抱える娼館」を含む日本人街の存在や業種毎の日本企業の進出についても著者は言及しているが、その資料は主としてシンガポール日本領事館の文書である。これは19世紀頃は、シンガポールの日本領事の管轄はペナンなどのマレーシアも含んでいたということであろう。それによると1915年にペナンで日本人会が組織され、その数年後には相当活発に活動していたが、大正中期以降、日本人がこの島を離れていき、下火になったという。続けてペナンにおける「海域回遊交易商人」としてのアルメニア人の動きについても一章が割かれているが、このあたりはまさにマニアックな世界であり、現在この地域でアルメニア人と接する機会はほとんどない。ただペナンのE&Oホテルやシンガポールのラッフルズホテルを建設・経営したのが、イランのアルメニア人居住区からペナンに移住し財をなしたアルメニア人のサーキーズ4兄弟であったというのは、アルメニア移民の東南アジアでのプレゼンスを物語る逸話である。またこうした成功した移民の例として華人やインド人の富豪についても仔細に紹介されているが、そのあたりは省略する。
著者のマニアックなペナン物語はこうして終焉を迎えるが、やはりこの地域の多民族性が、彼のような研究を可能にしていることは間違いない。複雑に交錯する個々の民族集団を掘り下げていくと、そこにはそれぞれ民族固有の歴史や物語があり、そしてそうした多様な集団が交錯する社会は、単一文化の傾向が強い日本とは比べ物にならないくらいの緊張と不確定性を秘めている。それは共同体の統一や経済的生産性向上の桎梏となる一方で、研究対象としては限りない興味を喚起させる。結局、欧州についても同様であるが、私自身がこうした地域に強い刺激を受けるのも、そうした文化的多様性が最大の要因である。かつて、家族で初めて一週間の休暇を過ごした東南アジアのリゾート地で、いまや多くの日本の年金生活者も暮らすこの島、今月末には、ここから多くの客人を事務所に迎える予定のこの島の歴史を深く知ることができる作品であった。
読了:2019年10月31日