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アジア読書日記
マレーシア
ラーマンとマハティール
著者:萩原 宜之 
 この直前に読了した「リー・クアンユー」についての著作と同様、岩波書店刊行の「現代アジアの肖像」シリーズの一冊で1996年2月の出版である。著者は1925年生まれで、アジア経済研究所、そしてその時期の2年間のマラヤ大学留学等を経て、この出版の時点では獨協大学法学部教授となっている。「リー」についての著作と同様、出版から20年以上が経過し、マレーシアについても大きく変わった部分と変わらない部分が混在しているが、取合えず戦後からマハティールの第一次政権に至るマレーシアの歩みを改めて確認することを中心に整理しておきたい。

 まずは、著者が最後にまとめている1960年の訪問時に目撃したマレーシアの特徴が分かり易い。それは@マレー人、華僑・華人、インド系からなる多民族社会の多様性、A天然ゴムとスズに依存するモノカルチュア経済と、B至る所に残るイギリス植民地支配の遺制であり、戦後、なかんずく1957年にマラヤ連邦として独立して以降のこの国の歴史は、この3つの宿命との闘いであったと言える。それを担ってきたのが独立後、この時期までの4人の首相、ラーマン、ラザク、フセイン、そしてマハティールであり、その中でも特に長期にわたって首相としての指導力を発揮したラーマンとマハティールの二人に焦点を当てて、1990年代半ばまでの彼らの闘いを整理した著作と言える。

 まずAのモノカルチュア経済の基盤となった天然ゴムは、「1877年、アマゾンからロンドン経由でシンガポールに送られたゴムの苗木がそこで植林に成功」、シンガポール植物園長となったイギリス人による品種改良と「マラヤ半島における適地性」もあり大規模植林がいっきに拡大した、というのは、イギリス植民地政策の成功例と言える。そしてスズ鉱山開発での華僑やインド系の流入により、この地域での多民族化が進むことになったのは、シンガポールと同じである。ただこうした複合社会が進んだのは所謂「海峡植民地」を含む「マレー連邦州」で、それ以外の「マレー非連邦州」ではマレー系が圧倒的多数を占めていたという点が、小島であったシンガポールとは異なる。これが独立後のマレーシアでの、華僑系を中心とした富の偏在化と、「農業やゴム小農、漁業はマレー人、天然ゴム、スズ及び金融、保険、貿易、商工業、運輸はイギリス資本と華僑資本」という職業の分化を生み出すことになった。そして独立後は、こうした「格差」を、マレー系に優位になるよう是正していくことが優先されることになる。

 こうして、独立後のマレーシアの最初の首相となったラーマンの歩みが語られる。詳細は省くが、ケダ州のスルタンの20番目の子供として生まれ、ケンブリッジに留学した彼は、そこで「イギリス・マレー人協会」を組織し、マレーシア・ナショナリズムの源流を生み出す。そして帰国後、ケダ州での活動を続け、日本の占領期も乗り切ったラーマンは、戦後イギリスの帰還と、彼らによる「スルタンの権限を制限し、マレー人の優先的地位を否定する」政策への反対運動として、マラヤ独立運動の母体として1946年に立ち上がっていた統一マレー人国民組織(UMNO)の指導者に祭り上げられる。1951年のことである。
 
 それまでは余り目立っていた訳ではないというラーマンではあるが、UMNO総裁となって以降は指導力を発揮し、独立に突き進んでいく。特に、上記の民族格差はあったものの、彼は華人系の政党との連携も強め、1957年、ついにマラヤ連邦として独立することになる。これはイギリスとの交渉による「平和的」な成果で、インドネシアやヴェトナムのような宗主国との武力闘争を経ての独立とは異なっていた。また国内では華人系のマラヤ共産党の武力闘争が続いていたことから、独立に当たっては、華人系政党を含めた保守系の勢力による「民族間の妥協と協調以外の選択はなかった」ということになる。そして独立後は、この民族間の軋轢の解消と共産党との闘いが大きな課題となる。

 新たな独立国家は、基本的に「マレー人優位の政治体制」ではあったが、華人系やインド系のビジネスエリートも「既得権益が失われない限り」これを認めることになったという。そしてケンブリッジ留学やイギリスでのマレー人協会活動時代からラーマンの盟友であったラザクが副首相として、ラーマン支えることになる。彼らは、取合えず華人系等の既得権益に介入することなく、農業分野を中心とした土地開発政策などでマレー系の経済状態改善に努めることになったという。

 1963年、インドネシアやフィリピンが反発する中、彼らの主導でサバ、サラワクを加えた形でマレーシアが成立するが、2年弱でシンガポールが分離独立する。この分離も取合えず平和裏に実施されたが、マレー系と華人系の間の軋轢はその後も収まらず、1969年の5月13日事件へと向かっていくことになる。

 この事件は、直前に行われた総選挙で、華人系の政府批判票が増加したことを契機とする両者の対立が多数の死亡者を出す事件となったものであったが、これがラーマンの退陣を促すと共に、この時はまだマレー強硬派の少壮政治家であったマハティールの指導部批判、UMNO除名といった事態も引き起こした(その間に彼が執筆し、1970年に刊行した「マレー・ジレンマ」は当初は発禁となるが、シンガポールでは読めた!)という。13年に渡るラーマン政権は、ある意味、彼の温厚な性格も反映した斬新的な改革時期であり、それは彼の後継首相となったラザク、そして第三代のフセインへと引き継がれるが、この二人の政権は、彼らの急死という形で短命に終わり、そして除名から復権していたマハティールが1981年7月、第四代首相となるのである。その後、彼はこの著作の執筆時点を経て、2003年まで22年間の長期政権を担うことになる。

 以降は、彼が主導した強力な「ブミプトラ政策(マレー人の公正なシェアを求める主張)」の解説に充てられることになる。彼が「ルック・イースト」政策で日韓の成長を称揚したのは、彼の西欧批判と、他方では「マレー・ジレンマ」でも主張したマレー系の労働倫理活性化という両面を持っていたことは言うまでもない。ただここで、彼が敢えて「華僑から学べ」ではなく、「日韓から学べ」といったことは、マレー系の華人に対する「敏感な」民族感情に配慮した、という指摘は非常に説得力がある。もちろん彼はその後も、この政策を受けた日韓の急激な進出に対しては、度々警告を発することになる。また国内的には、引続きマレー系と華人系の対立が続く中、彼が「強権的」手法でそれを抑え込んだことも記されている。更に90年代に入ると、彼は「東アジア経済共同体(EAEC)」構想の実現に奔走したことも説明されているが、これはこの著作の時点のみならず、現在まで実現されていない。著者は、その一因は、米国との関係に配慮した日本の慎重姿勢もあったとコメントしている。また経済政策では民営化による成長を核とする「WAWASAN2020」を発表したが、これを受け、アヌワール(現在は「アンワル」が一般的呼称となっている)蔵相をこのヴィジョン実行の核に据えると共に、次期首相としての彼の地位を暗示したという。これはその後のアジア経済危機を契機とする二人の長期にわたる対立と、その後の和解と再度の対立という宿命的な関係を考えるとたいへん興味深い。また、第二代首相ラザクの長男、ナジブ・ラザクが1986年に下院議員となり、国防相などの要職で、マハティールーアンワル体制を支えた、という指摘も、その後の3者の関係を考えると昔日の感がある。

 こうしてこの著作は、マレーシア独立前後からマハティール政権の全盛期である1990年代半ばまでのこの国の歩みを辿ったところで終わることになるが、このUMNO支配は、その後2018年の総選挙で終焉し、ナジブと袂を分かち、アンワルと組んだ92歳のマハティールが、2003年の退任以来13年振りに首相に復帰したことは、この選挙のレポート(別掲)で報告したとおりである。そしてそれが再び2020年以降流動化して現在に至っているのも周知のとおりである。その意味では、戦後のマレーシアは、マレー系と華人系の対立を常に抱えながらも、政権の支配体制は大きく変動することなく、最近まで続いたが、今まさに転換期を迎えているということかもしれない。この本で紹介されているマハティールの「WAWASAN2020」という経済ヴィジョンは、既にその目標年を越えた訳であるが、少なくとも私がシンガポールに滞在した2008年以降は、この名前を聞くことがなかった。その点では、マハティール後のどこかで、このヴィジョンは放棄され、政権の課題は、新たな「中心国の罠」との闘いに移ったということかもしれない。それについて当時引退中のマハティールが何らかの不満を持っていた可能性もある。後半は細部にこだわり過ぎて、やや全体感が分かり難かったが、少なくとも独立前後の動きと、それが現在まで持っている課題については理解できた作品であった。

読了:2021年11月22日