ドイモイの誕生
著者:古田 元夫
夏季休暇を過ごしていたバリで読了した。折角であればベトナムで休暇を過ごす中で読了するというのがベストの環境なのであるが、個人旅行であればともかく、家族旅行では、残念ながら、まだベトナムでの休暇というのは受けてもらえるところまでいっていない。実際、ベトナムが、ここで取り上げられている私的セクターを大きく許容する経済に本格的に舵を切ったのが1986年12月のベトナム共産党第6回大会であり、それから約25年、ベトナム経済は、我々を含めて世界の投資家が注目される水準まで拡大してきたとは言え、まだこの国のリゾート(例えば、先週ASEAN+の会議が行われていた中部のダナンなどは、周辺の観光資源に加え、それなりに設備が整備されているきているようである)は、タイやインドネシアのリゾートのように一般に知られている訳ではない。やはり一党独裁の共産主義国であるということが、一般の観光客にとっては出かけることに二の足を踏む理由になっているのだろう。
しかし、私の短いホーチミン市での滞在経験では、この国が共産党一党独裁の暗い国であるという印象は微塵たりとも感じたことはない。人々の生活は活気にあふれ、それなりにしゃれた店も増えている。人々の態度も親切で、かつて共産主義下のソ連を訪れた時のように、外国人観光客に常に党関係者が付き添って監視しているということもない。その意味で、この国はドイモイで大きく経済成長を遂げ、その結果として政治的にも安定してアジアの先を行く周辺諸国に急速にキャッチアップしているという一般的な評価は誤っていないと思われる。そのドイモイが宣言されるまでの経緯を、一党独裁の国の分析らしく、党内論争の跡を緻密に辿ることによって整理したのがこの作品である。
言うまでもなく、この「新経済政策」への移行は、ソ連でゴルバチョフ政権が成立し、1986年2−3月のソ連共産党第27回大会でペレストロイカ路線が軌道に乗ったことから大きく影響を受けている。しかし、著者は、それがこのドイモイ路線形成の主たる要因と捉えることは問題であり、むしろ「まずベトナムの一般の人びとや地方の下級の共産党組織による『下からのイニシアティブ』が重要な役割を果たし、これを受けて共産党の最高指導部の中に生まれたチュオン・チンを中心とする改革推進勢力が、より保守的な、あるいはより慎重な他の指導者を、ある時には説得し、ある時にはその反対を押し切って、ドイモイ路線の形成に至った、という国内の政治過程が決定的に重要な意味をもった」と考えている。
このドイモイ路線は、スターリン時代のソ連で基本的な型が形成された社会主義の「普遍モデル」とその根底にある「貧しさを分かち合う社会主義観」をベトナム指導部が克服していく過程でもあった。この作品は、いわば、そうした大きな流れと見方の検証の試みであるといえる。
まずは1958年、ジュネーブ協定で南北に分断されたベトナムの北部で始まった「社会主義的改造」から話しが始まるが、これはまさに「農業集団化」と「生活必需品の配給制度」を核とする「普遍モデル」による社会主義建設であった。しかし実際には経済の基盤である農民の生活は苦しく、収穫を自由に処分することを認められた僅かな「自留地」での生産に農民を向かわせるという困難に直面する。しかし、1965年以降のベトナム戦争の本格化によりこの困難が隠蔽され、いわゆる「高級合作社」への集中が合理的な戦時経済体制として、農民の間に已むを得ず受け入れられていったという。
しかしベトナム戦争の終結が、一方ではアメリカ帝国主義への勝利に沸く熱狂をもたらすと共に、他方では、こうした戦時経済の合理性への疑問と友好国からの無償援助の減少(中国とは国境紛争により、またソ連からはルーブリの減価が主因であった)、更には、統一はしたが相対的に豊かな南の反発といった問題をもたらすことになる。そしてより直接的な危機は、1970年代後半、国家による米の徴収が急速に減少するという事態となって現れる。特に、歴史上食糧危機など経験したことのなかったホーチミン市での深刻な食糧不足に際しては、当時の市の共産党高級幹部の暗黙の承認を受けて、市の食品会社総裁が、国家の指導価格ではなく、闇市場の価格で買い付けを行うという事態にまで進む。しかし、この時点ではこうした「安い指導価格を改めようという動き」が事実上承認されたのは例外で、ホーチミン市近郊のロンアン省で検討された砂糖や落花生の市場価格での買い付けの試みは、当時のファン・フン副首相の一声で挫折したという。
1979年2−3月の中越紛争で、ベトナム経済は更なる危機を迎える。この年の8月に開催された共産党中央委員会総会で、「普遍モデルの機械的な適用は避けるべき」という議論が現れると共に、地方のイニシアティブが積極的に奨励されるが、これが後に、共産党の公式な記録でも「ドイモイの過程の最初の突破口」と評価されることになる。実際、ホーチミン市では、華僑商人の資金力とネットワークを利用し、香港やシンガポールの商人から必要物資を物々交換で調達するという動きが事実上黙認されたというのは面白い。またこの時期、農業生産性を上げるために「生産請負制」が「もぐり」で広がっていたが、北部のハイフォン市では、これが雑穀栽培に限ってであるが市の指導部公認で導入されたという。但し、この時点では事実上容認されたが、中央の党指導部では批判的な論調が主流で、容認派の論理も、「社会主義的集団農業を危うくする『白紙請負』とは峻別」するものであった。そしてその後ドイモイの先頭に立つチュオン・チンさえも、この動きには否定的であったという。
1980年に入ると、先に市場価格での買い付けに失敗したロンアン省で、再び同様の試みが始められる。しかし、地方の党指導層がベテラン揃いであったこともあり、「市場価格での調達と賃金労働者に対する賃金補填」により、「単一価格制への移行と配給制度の廃止」を展望する改革は、中央の批判をうまくかわしていく。結果的にこの政策は、闇商人による価格の吊り上げを抑制し、また市の財政も悪化させなかったこともあり、次第に肯定的に捉えられていくが、それでも1982年には、再び中央での引締めの動きがあり、必ずしも一直線に拡大していった訳ではなかったようである。
さて、ここまでが言わば前史で、そこから本格的なドイモイの誕生経緯に入っていくが、著者はそこで中心的な役割を果たすチュオン・チンの豹変の軌跡を追いかけている。知識人一族の出身で、ホー・チ・ミンがベトナム共産党を結成した時以来の党員である彼は、当初は厳格な社会主義理論信奉者であったという。
その彼が変節するのは、80年代に入り、当時のNo1であるレ・ズアン書記長が健康を害して、No2の彼が日常業務を指導せざるを得なくなってからであった。側近のブレーンとしての「研究グループ」を立ち上げ、国家が直面している問題を冷静に検討する中で、彼が、市場の活用も含めて、次第に現実的な対応を行うようになっていく様子が語られる。また1983年以降、党幹部の地方視察が頻繁に行われるようになるが、チュオン・チンも精力的に国内を視察し、特に上記のロンアンの実験に強い印象を受けたとの側近の証言が伝えられている。
1984年7月、共産党第五期第6回中央委員会総会が開催されるが、ここで彼は、単一価格制とそれに適合する賃金体系の改定、新しい通貨発行政策といった、それまでの「市場の管理」一辺倒の政策に対する批判を、公式の場で始めて表明することになる。この総会では、レ・ズアンを含めた保守派の牙城は崩せないままに終わるが、彼の主張の一部が決議に反映される。
この際、彼のこの発言文書は非公式に流布され、これを好ましいと考えなかった党書記局がこの流布を禁止することになるが、これが大きな政治問題にならなかったのは、既にこの頃チュオン・チンの政治的威信がそれなりに高まっていたからではないかと、著者は推測している。そして、この総会が、彼による問題提起の場であったとすると、続いて同じ年の12月に行われた第7回総会は、彼の主張の幾つかが「実現に向けての具体的な手掛りをつかむ」総会となり、そして1985年6月の第8回総会が、「官僚的丸抱えが、ベトナムの経済管理の最大の病弊であり、それから決別し経済状況の好転をはかる突破口として、価格―賃金―通貨の改革を断行しなければならない」という彼の主張が正式に決議に記載される機会になるのである。
しかし、この総会直後の8月、保守派によるデノミの実施が、チュオン・チンの地方出張中に突然決定され、9月に実施される。これは財政赤字と通貨不足に対応すると共に、投機に走る私営商人への打撃を意図したものであったが、実施直後から自由市場での年率700%に及ぶ悪性のインフレといった経済の混乱を惹起し、それを契機に新たな党内論争が始まることになる。
12月に開催された第9回総会で、チュオン・チンはより明確に国家が直面している問題を、3つの矛盾として提起するが、それはまさにドイモイの中核的な議論である。即ち
@経済構造に関し、農業を第一戦線としておきながら、他方では、大規模な工業建設を展開する矛盾。
A資源を利用しつくすことを強調する一方で、社会主義改造の早期達成を望み、相当の資源吸収力をもっている非社会主義セクターを廃絶しようとする矛盾。
B中央と地方と基礎で主人公になることを唱えつつ、地方や基礎の自主性を制限し、上意下達の集権的・官僚的管理を行う矛盾。
の3つである。しかし、この議論は総会では決着せず、政治局以下の党執行部での議論に持ち越され、続けられることになる。
ここで、チュオン・チンの議論をよりアカデミック且つ先鋭的に展開した「研究グループ」メンバーの経済学者ダオ・スアン・サム教授による論文が、ソ連から派遣されていた顧問団からの批判を含めて物議をかますことになる。しかし、翌1986年1月の政治局会議では、結局デノミの失敗は、その実施方法に問題があったという結論となり、担当閣僚が罷免されると言った形で決着する。
こうした過程を経て、最終章では、1986年12月のベトナム共産党第6回大会に向けての政治報告の草案作成過程が分析される。この最初の草案が政治局に提出されたのが、1986年1月ということなので、まさに上記の論争の中で、草案作成が進められていたということになり、またこのドラフトが最終稿になる過程が「チュオン・チンの最後の闘争」の場となるのである。この間に何度か行われた政治局の議事録から、まさにアジアNIESの経済的躍進の刺激を受け、彼が「発想の刷新(ドイモイ)」を主導していったことが跡付けられる。病状の悪化から既に引退は時間の問題であったレ・ズアンとその一派は引続き保守派の立場の論陣を張り、それに対抗するチュオン・チンとの緊張が高まったとされるが、チュオン・チンは直接の対決を避け、慎重に自説の浸透を謀っていく。6月のレ・ズアン派の政治報告起草責任者の失脚と、この業務をチュオン・チンが直接掌握したのは大きな節目であったとされる。そして7月、レ・ズアンが死去し、チュオン・チンが後継書記長に任命される。こうして、9月に「経済的観点に関するいくつかの問題についての政治局の結論」という、まさに「ドイモイ」の開始を告げる文書が完成し、11月に予定されていた第11回総会に向けての準備が進められる。
その過程で、基層レベルから始まる「上りの党会議」で、経済的混乱の責任を求める声があがり、保守派の重鎮の何人かが失脚したこと、更にはソ連でゴルバチョフの改革が本格化していたことも追い風となった(冒頭に述べたとおり、著者は、ペレストロイカは、ドイモイの「主因」ではなく、あくまで「追い風」と捉えている)。チュオン・チンは、この年8月と11月に2度に渡り訪ソし、「刷新(ドイモイ)」が「改組(ペレストロイカ)」と同義であることを力説し、ゴルバチョフの同意を得る。こうして最終稿となった文書は、第六回大会で、チュオン・チン自身により報告され、承認される。同時に既にこの時79歳となっていた彼の引退も決定されるが、ここで社会主義の「普遍モデル」からの脱却と「民族化した」ベトナムの新しい道が本格的に始まることになるのである。
こうして、ベトナムにおける「ドイモイ」誕生の経緯を見てくると、まず最初に連想されるのは、中国におけるケ小平による対外開放政策と市場経済導入との関係である。この本では、中国のこの動きとの関係はまったく言及されていないが、内容的には、まさに「ドイモイ」は、ケ小平により推進された経済政策と同じ発想に基づく改革であった。そして、70年代末から80年代初頭にかけての中越関係を考えると、この改革を巡って双方が協議することも、またベトナム側が、公式文書で中国の改革に言及することもありえないのは明らかであるが、それにもかかわらず、ベトナム側が、中国の動きを眺めながら、一部については反面教師として学習しながら、自国の経済改革を進めていった可能性はないとは言えないのではないだろうか?
ケ小平が、対外開放政策を提唱したのは、1980年8月。そして計画経済から商品経済への、行政命令による経済運営から経済の論理による運営への移行という趙紫陽報告が行われたのが第13回党大会(1987年秋)。そしてケ小平の有名な南巡講話は、それから更に下り、1992年1月18日から2月21日のことである。言うまでもなく、その間の1989年6月に天安門事件が発生して、政治的には締付が強まっている。
1980年代が、まさにアジアNIESが高成長を遂げた時期であったことが、この両国の経済政策に影響を与えたことは間違いない。そうした中で、ベトナムよりも早く対外開放政策を掲げた中国を、ベトナムが意識していたこと、そしてそれが、この本で跡付けられているベトナムにおける改革の一つの動機になったと想像するのは、決して無理なことではない。
他方で、明確な改革の公式化は、ベトナムの方が早かったというのも興味深い。更に、中国の場合は、丁度社会主義化の東欧諸国で60年代終わりに発生したように、市場経済導入による経済改革が、市民的自由を求める政治改革の動きとなり、同時期に進行していた東欧革命の影響も受け天安門事件に連なっていったのに対し、ベトナムの場合は、経済改革が共産党の独裁を揺るがすような政治問題とならなかったことが注目される。先に読了した岩崎育夫の「アジア政治とは何か」の中でも、ベトナムで民主化運動が発生しなかった理由を「国家強大型」で、市民社会が未発達であったことに求めているが、丁度「ドイモイ」が宣言された直後のこの時期に、ベトナムの支配者たちが、こうした世界的な流れをうまくコントロールし、大きな政治的混乱なく乗り切っていったというのは興味深い。
他方、この本での著者の分析手法を見ると、冒頭でこの改革が、「まずベトナムの一般の人びとや地方の下級の共産党組織による『下からのイニシアティブ』が重要な役割を果たした」と述べている割には、実際の人びとの生の声で裏付けられている訳ではなく、あくまでチュオン・チンらの動きが徐々に中央に浸透していったのは、こうした末端の支持があったから、と想像しているのみである。その意味では、やはり「国家強大型」のベトナムでは、人びとの「生の声」を一時情報として集め、分析することは難しく、この本も、公式情報と所謂権力中枢部から漏れてきた非公式情報を、その他の外的要素と突合せ真実に迫ろうとする一党独裁国家特有の「クレムリノロジー」的手法に頼らざるを得なかったということであろう。改革に向かった人々の「生の声」にかかわる情報が溢れていた1968年のチェコの「プラハの春」や80年代以降のポーランドの「連帯」等の草の根運動を追いかけてきた私から見ると、やはり「青木書店」刊行の作品だな、という感覚を抱かざるを得なかったのである。
最後に、この本は、まさに「ドイモイの誕生」であり、チュオン・チンの改革路線が1986年12月のベトナム共産党第6回大会で公式化されたところで終わっているが、私の本来的な関心は、そうして実行されたこの政策が、その後20年超にわたり、実際どのような成果を生み、現在に至っているか、そしてそれを基に今後のこの国の政治・経済・社会をどのように展望していくかというところにある。足元に関して、株式市場だけみれば、周辺のASEAN諸国の株式市場がリーマン・ショックによる底値から回復し、むしろ歴史的高値を更新しているのに対し、ベトナム株式市場は、引続き貿易赤字対策からのドン切下げとインフレ懸念からの金融引き締めによる景気回復の遅れから、まだ年初のレベルを8%程度下回るレベルで低迷している。こうしたドイモイ導入以降の歴史と、それを前提にした現状認識や今後の展望に関しては、この本ではまったく触れられていないこともあり、こうした点については著者自身による別の論考も含め、今後日常的な情報や、別の資料や作品を通じて勉強していかざるを得ない。そうした点で、やや過去の歴史の確認に留まる作品であるという不満は残ったが、いずれにしろ、この国の原点についての基本知識は得ることが出来たことは間違いない。
読了:2010年8月12日