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ヴェトナム 「豊かさ」への夜明け
著者:坪井 善明 
 旧正月の連休を利用したタイ北部の旅行中に読み進め読了した。本来は、この時訪れたゴールデン・トライアングルに関連するタイ、ミャンマーやラオスに関わるものを持って行きたかったのであるが、さすがにその題材は限られており、取り敢えず関連する地域ということで、この本を取り上げることにした。

 この本の出版は、1994年7月。この前に読んだ岩崎育夫のアジア政治分析と同様、ブックオフで見つけた古い本であり、その意味で、やはり時代は感じざるを得なかった。しかし他方で先般読んだ古田元夫のドイモイ論は、出版自体は最近であるが、内容はドイモイに至る政治過程に絞った分析であったことから、政治・経済・文化を含めたこの国の全体を知るには、こちらの新書の方が手頃である。ドイモイについても、先に読んだ作品とは異なる人物に焦点を当てており、また違う角度からこのヴェトナムの戦後の政治・経済過程を見ることができる。

 まずはヴェトナムの文化の基層についての説明。著者自身が、1989年から1991年までの2年間、主としてハノイで、また2ヶ月をホーチミンで暮らした実感を交えながら紹介していく。まず指摘されるのは、特に北部での中国の政治的存在感と、既に20年前の時点で強まっていた経済面での中国の影響力の大きさである。1979年の中越国境紛争で、中国側が破壊し尽くした中国国境の町ドンダンまではハノイから僅か150キロという、中国との地理的な近さ。また、ホ−チミン市の「チュロン(大きな市場)」で17世紀以来活動してきた中国人商人は、1975年のサイゴン陥落以降、社会主義政権に改造を迫られ一時は多くの人々が海外に脱出したりしたが、80年代後半以降、ドイモイの下で再び息を吹き返し、今や「『架橋ネットワーク』とも呼ばれる人的関係にのらないと、ヴェトナムではうまく商売ができない」と言われるまでに元気を取り戻しているという。1991年の中国との国交正常化以前から、中国を始め、台湾、香港、シンガポールの華僑を通じた大量の品物が、彼らを通してこの国に流れ込んでいたという。

 文化面でも、歴史的には科挙制度や儒教文化という、漢字文化の影響を受け、しかしそれに対抗する民族意識から、例えば「チューノム」というヴェトナム独自の漢字を作ったり(これは一部の知識人に限定された言語のようである)、一般には「コックゴー」という、フランス支配下でイエズス会宣教師が作ったアルファベット綴りを使用したりすることになったという。また中国の大きな影響下、中国=「北国」に対する、ヴェトナム=「南国」と、「中国とは文化の面では対等であり、政治的には独自の領域と王朝をもつ主体である」という独自な「南国意識」を形成したが、重要なことは、これが「たんに中国に対する対抗概念だけでなく、近隣の東南アジアの諸民族を『蛮夷』とみなす中華意識としても定着していった」ことである。この中華意識は、フランスによる植民地支配下で、フランス人がヴェトナム人を、カンボジアやラオスの原住民を支配すための中間管理職として利用したために、ヴェトナム側では益々増幅され、また周辺諸国では直接の怨嗟の対象となり、近年の周辺諸国との紛争の精神的要因となったという。

 ヴェトナムの民族構成で面白いのは、人口の90%を占めるキン族は平野の住民であり、それ以外の10%を構成する53の民族は、ほとんどが山岳民族系の少数民族であり、キン族との間で「住み分け」の関係が確立していたという。またそもそも西欧列強による植民地化までは、この地域の支配者にとっては国境という概念はなく、あくまで勢力圏が意識されただけであった。そしてこうした少数山岳民族が住む地域は、平野部の権力者も「住み分け」に従い放置した。その結果、彼らにとってはそもそも国境という概念はなく、現在でも「割と自由に国境を越えて親族と往来し合っていることが多い」という。まさに、この本を読みながら回っていたタイ北部の山岳民族も、同様のスタイルだったのだろう。しかし、交易が拡大し、周囲の町が発展すると、そうした山岳民族の生活スタイルも自ずと変貌を余儀なくされる。その最も寂しい例が、今回の旅行で私がほんの僅かの時間ではあるが接した人々であるのだろう。

 ヴェトナムに戻ると、そもそもは10世紀中葉に北部が中国から独立を勝ち取った後、14世紀以降「南進」を行うが、中越国境からタイ湾までの現在の地域を名実ともに政治的に統一したのは、阮朝の初代皇帝時代の19世紀初めになってからであった。そしてその過程で支配下に入った中部のチャム族の王朝「チャンバ」は、現在のホイアンを中心に紀元前の時代から記録が残っているが、「宗教、政治、経済の三つの核の都市を一直線の上に置き、インド文化を取り入れた社会を形成し、海上交易を富の源泉としていた」としている。「建築と彫刻にもすぐれた造形美を示し、中部、南部ヴェトナムに多くの遺跡を残して」おり、これが現在はダナンの「チャム美術館」に集められているという。

 ヴェトナム社会の特徴として著者が指摘しているのは、識字率の高さと長寿である。1992年時点の一人当たりGDPがヴェトナムと同じ200ドル位の国の平均と比較すると、ヴェトナムの識字率は88%(他国平均は45%)、平均寿命は62.7歳(同51歳)である(国連開発計画(UNDP)の報告)。科挙制度の伝統や初等教育の充実が前者の、また「長上尊敬」の伝統と油を取らない食生活が後者の理由ではないかと著者は推定しているが、確かにヴェトナム料理はたいへんさっぱりしているというのは、個人的にも感じているとおりである。しかし、同時に「長上尊敬」の伝統は、この国に「老人支配」をもたらしていることも、著者の指摘する通りである。

 社会意識としては、著者はこの国民意識を「近代と平和を知らない東南アジア・東アジア社会」と指摘している。「近代を知らない」というのは、ハノイやホーチミンのような都市部を除く八割以上が「『近代』の及ばない農村」に住んでいることを指している。また1000年前から戦争に明け暮れ、この一世紀を見ても平和が訪れたのはカンボジアから撤兵した1989年9月以降である、というのが「平和を知らない」という指摘の意味である。そしてこの後者の意識が「10年、20年の単位で大型投資をおこない産業を興すという思考が、ヴェトナムで生じなかった一因」であるという。また1970年末から80年代初頭にかけて100万人以上のボートピープルが発生したというのも、こうした絶え間なく続いた戦争による「精神の荒み」の結果だったとしている。しかし、こうした戦争状態は、決してヴェトナム民族が「好戦的」であったことから発生したのではなく、むしろこれらは「強いられた戦い」であり、著者はヴェトナム社会の中は「驚くほど軍国主義的雰囲気や心性がなく」、王朝時代から続けて「文人優位の伝統」が維持されていると指摘している。

 また南部は「女性の力が強い」とか「社会は国家より強い」といった東南アジア的世界の特徴を、北部は「中国化」された政治制度や「儒教文化」といった東アジア的世界の特徴を持ち、更に独自の山岳民族の世界があり、全体としてはそれらが混在化している社会であるという。更に都市部の最先端の生活と農村部の「2000年前の生活の共存」とか、知識人の「知」のあり方の相違、あるいは「地縁・血縁」の重視や「噂の重要性」あるいは「外国人に対する猜疑心と不信感(“外国人慣れ”していないナイーブさ)」といった著者の個人的な体験から感じた印象も紹介しているが、このあたりは途上国のどこででも見られる特徴であろう。

 日本に対する感情としては、まず「仏印進駐」時に、日本軍の権威主義と共に200万人の餓死者を出した(ホーチミンの演説での数字)という歴史から来る猜疑心と、戦後の経済成長や日本製品に対する尊敬とが混在している、としているが、他の東南アジア諸国に比べると、中国と対抗関係にあったことから、日本軍もシンガポールで行ったような極端な中華系社会の弾圧・粛清は行わなかったように思える。

 また経済面では、ヴェトナムの経済界が「小商人」の世界を越えられない、という指摘は重要である。「商売に圧倒的な強さを持つ中国人が近くに存在すること」と、「戦によって、生産機材が破壊されたり優秀な人材が散逸したりして、大規模な産業はヴェトナムの地ではどの時代においても育成されなかった。」フランスの植民地下では、フランス人が工業・鉱業・プランテーション等を経営したが、「ヴェトナムの民族資本による大規模な産業は、歴史上ついにあらわれずに今日に至っている」というのは、今後のこの国の経済成長を考える際に重要である。「政府の上層部から民間まで“小商人”のメンタリティーなので、外国投資を受けて企業をみずから興すという発想もないし、その任にあたる人もいない」という1990年代の状況が、現在どうなっているかは、まさに私の仕事の上でも、この国の現在を見る上での重要な視点になるであろう。

 党と国家機構についての説明は、やや図式的な話が多い。まずは、ヴェトナム戦争での超大国アメリカに対する勝利の要因の説明。「アメリカ帝国主義に対する民族解放闘争」という「枠組み設定」が、「共産主義の侵略の脅威から自由世界を擁護する」という米国の枠組みよりも「政治的で理念的な戦いで勝利」し、他方で長期戦の中で米国側の厭戦気分を引き出すことにより「現実の戦場での戦闘で『負けなかった』ことが有機的に結び付いた結果であった」という著者の見方は一般的な見解であろう。ホーチミンの卓越した指導力というのも、作られた神話としての性格もあると思われるが、それなりに認めることはできるのであろう。

 戦後の社会主義建設は、「貧しさを分かち合う資本主義」という言葉に象徴されるが、そもそも低い生活水準の社会が戦争で徹底的に破壊された状況下では、「徹底した“平等化”と“愛国心”の鼓舞」が必要であったことは間違いない。しかし「戦時下の耐乏生活を支えるシステム」として成立したヴェトナムの社会主義は、戦争の終了と共に様々な矛盾を露呈することになる。

 著者は、ホーチミンに対して過大評価とも言える褒め言葉を使っているが、その反面、1969年、ヴェトナム戦争終結を待たずホーチミンが死去した後を継いだレ・ズアン指導部に対しては、抗米戦争の勝利と統一の熱狂と自信を受けて、「南部の急速な社会主義化と重工業重視路線」を取ったことが、戦後の困難を招いたと、やや批判的である。また「当面の敵が消滅し競争者のいない政権党になったことにより、規律の弛緩、腐敗堕落現象が各地で見られるようになった。」戦前の「英雄の党」から「権力亡者の党」への変容が起こったと看做している。

 ホーチミン以降のヴェトナム共産党の特徴を、著者は、@集団指導体制(合意形成に時間がかかり、政策決定システムは分かりにくいが、党内の意見の相違ははっきりと分かる)、A党と政府の癒着(財政上の一体化と党予算の「聖域化」)と整理し、またこの一党独裁による国家機構の特徴としては、@共産党の指導(しかし、党と国家の関係は曖昧)、A余剰人員・人員不足の共存(論考褒章による人事の弊害)、B省庁のセクショナリズム(財政法や行政組織法の未整備に起因する所管の不透明、税制の未整備)、C文書主義(決定文書の重要性と口約束の軽視)などを挙げている。また政策決定に際しての「世論」も重要で、「現場の党員、古参党員、党理論家、知識人、若い新聞記者、公安・軍関係者、国際ビジネス関係者」等がその中心になっているという。

そして次のテーマは「ドイモイ」である。ここでは、以前に読んだ古田元夫の「ドイモイの誕生」と比較することにより、その全体像が見えてくると思われるが、著者がまず取り上げるのは、グエン・スアン・オアインという新しい名前である。

 オアインは1921年ハノイ生まれで、裕福な家庭に生まれ、18歳のときに私費で日本に留学。戦中戦後を日本で過ごし、三高を経て1949年京都大学経済学部を卒業。更にハーバードで経済学博士号を取り、1954年からIMFの上級エコノミストを経て1963年帰国。若干42歳で旧南ヴェトナムの中央銀行総裁兼経済財政担当副首相に就いたという超エリートである。1975年4月の南ヴェトナム崩壊後もヴェトナムに留まり、しばらく蟄居生活を余儀なくさせられるが、1977年以降の経済悪化の過程で党内改革派であるグエン・ヴァン・リンやヴォー・ヴァン・キエットらの要請を受け、オアインは経済改革を目指す活動に参加することになったという。

 こうしてオアインは、南部ヴェトナムでの実態調査を開始し、配給制と闇市場、財政赤字の急拡大とインフレ等の問題を解決する方策を、分配・消費過程の改革にまで立ち入って検討していった。そして80−81年にかけて、南部ロンアン省で行われた、配給制から現金支給への転換実験に、彼はグエン・ヴァン・リンの顧問として加わったという。

 この限られた地域での実験が、あくまで非公式に行われたことは、「ドイモイの誕生」にも書かれており、またそれが生産の増加をもたらすと共に、他方で都市部のインフレや非合法活動の横行等の否定的現象ももたらし、その結果82−84年までは保守派が巻き返したことも、そこで指摘されている。グエン・ヴァン・リンも党内で降格されることになったという。しかし、「保守派の一連の対抗措置は、経済的混乱を、警察・公安・軍隊のこわもての行政権力が介入して取り締まるだけで、経済の論理に従った手段で解決を目指すものではなかった」ことから再び経済活動は低迷。これに対し改革派は新聞を利用し、ロンアン省の実験等をうまく宣伝し巻き返しを図っていったという。1985年6月開催された第五期党中央委員会第八回総会で、グエン・ヴァン・リンが政治局員に返り咲き、またこの総会で権限の地方委譲や、補助金システムの撤廃、現物支給から現金給与への変更が決議される。そして翌1986年12月の第六回党大会で、グエン・ヴァン・リンが書記長に選任され、「ドイモイ」が国家目標として宣言されるのである。

 ドイモイの本格的な開始は、全国規模でのインフレや同時に行われた通貨改革による混乱を伴ったが、グエン・ヴァン・リン執行部は、個人イニシアティブ付与による生産の奨励や非効率な国営企業等の改革を進め危機を脱し、1990年初頭までに軌道に乗せることに成功したという。またその過程で、グエン・ヴァン・リンは新聞に、国家の非効率な面や幹部の汚職の摘発を奨励する個人の投書を歓迎するコラムを掲載し、一種のグラスノスチ(情報公開)が促されることになったというのも、この動きの興味深い一面であった。但し、政治の民主化に関しては、ある時点から締め付けが強化されたという。以降、1991年6月の第七回党大会で野心的な経済目標を掲げた「国家建設綱領」と「発展計画」が公表され、また1992年4月の国会で制定された「92年憲法」にドイモイを明記する等、後戻りができない路線として定着したとされるのである。

 このドイモイの部分を読んで、まず奇異に感じたのは、先に述べたように、古田の本で、ドイモイを進めた中心人物として描かれたチョオン・チンが、この新書では全く登場しない点である。否、むしろ古田の本の方が新しいので、この新書で、この政策を推進した党内の中心人物として取り上げられているグエン・ヴァン・リンらが古田に無視されているというべきなのだろう。そしてこの新書では、1986年12月の第六回党大会で、グエン・ヴァン・リンが書記長に選任され、「ドイモイ」が完成すると主張されるが、古田の本では、同じ党大会に向け、チュオン・チンは最後の戦いを行い、大会でドイモイを宣言して引退する、と書かれているのである。これほどに見解の相違があるというのは、同じヴェトナム史研究者の中でも、ある種の派閥があるということなのだろうか?あるいは、坪井のこの作品は、ここで詳細に取り上げられているオアインが直接の取材先で、そのオアインがグエン・ヴァン・リンに近かったことから、グエン・ヴァン・リンに焦点が当たることになったのだろうか?いずれにしろ、一般的には、一党独裁の社会主義国家の歴史を見ると、権力の所在が明確であることから、ある政策転換の責任者も自ずと明らかになる。旧ソ連でのフルシチョフの「スターリン批判」やゴルバチョフの「ペレストロイカ」、毛沢東の「文化大革命」やケ小平の「開放政策」等々である。それを考えるとドイモイという、ヴェトナムの現代史の中では最も重要な政策転換の記録に登場する人間が、本によって全く異なるというのはやや異様である。むしろこうした事態が、この本で言われている「集団指導」故に分かり難い政策決定過程を象徴しているのであろうか?いずれにしろ、ドイモイの歴史については、もう少し他の文献も見た方が良さそうである。

 さて話は、ヴェトナム戦争の後遺症に移る。1994年現在でも、20年前に終わった戦争の痕跡が至る所に見られるほど、米軍による破壊が凄まじかったという。ハノイ・ハイフォンといった主要な交易ルートを結ぶ道路の状態も悪く、またハノイと観光地であるハロン湾を結ぶルートには橋がなく、フェリーを乗り継いで行かざるを得ない等、たいへん不便であったという。戦争による傷病者や枯葉剤による奇形児問題は、よく言われる話である。北から南に対する「隠微な社会的差別」は続き、それも一因となり、南の有能な若者さえもボートピープルとして命を賭けることになる。しかし、他方ではドイモイが進む過程で、外資は圧倒的に南に進出していることから、所得は南が高いという逆転が生じており、その南北格差は拡大しているという。

 そして最後に、著者はこうした1994年時点でのヴェトナムの状況を前提にした経済発展の可能性を議論する。まずこの時点では、経済成長のための外資導入積極派と、政治的な悪影響を恐れる消極派が深刻に対立していたとする。そして著者としては、こうした対立を前提にすると、これまでのドイモイが成功してきた「重工業の見直し」「農業重視」そして「食料・食品、消費財、輸出品の三分野における生産の増加」という実績を踏まえ、その延長線上での漸進的な成長を期待しているように思える。具体的には、「石油開発」、「米・エビを中心とする食料輸出」、そして「西側経済援助の全面再開」の有効利用を上げている。特に、1994年2月、米国クリントン政権が対ヴェトナム禁輸措置の全面的解除を行ったことからアメリカ企業のみならず国際金融機関や西欧諸国からの経済援助が開始されることになったことが重要であると見る。他方、発展を阻む要因として考えられるものは、前に述べた部分と重複するが、「法体系の未整備」、「人材不足」、「経済的自立の観念の欠如」といった問題である。この時点では、まだ新しい展開であったこれらの戦略が実際にどう進展してきたか、また短所を如何に克服してきたかは、時間がある時に是非検証してみたいと思う。また、西側の援助競争の開始を受けて、著者は日本の援助の在り方も議論しているが、「戦争の傷をいやす」、「社会文化発展の後押し」、「内在的理解」、そして「多元的な国際協力」の4つの指摘はまず常識的なものなので、詳述は省略する。

 これを書いている丁度1週間前の2月11日、ヴェトナム中央銀行は、通貨ドンの大幅な切り下げを行った。2010年以降3回目。しかも今回の切り上げ幅は、昨年の2回の切り下げが2〜3%台であったのに対し、今回は9.3%という大幅なものであった。これは依然改善しない経常・貿易収支の赤字の縮小と為替市場での需給調整を目的としたものと言われているが、この背景には、20年近く前のこの新書からも示唆されるとおり、ヴェトナムではまだ産業の高度化が進んでいないことから、内需回復時には中間財や資本財の輸入が増大し赤字幅が拡大するという問題がある。もちろん、ドンの切り下げにより輸出の回復は期待されるが、他方で既に資源価格の上昇等で、この1月で12.2%(前年同月比)まで上昇しているインフレに歯止めがかからなくなるのではないか、との懸念も市場には広がっている。こうした経済問題にこの国が今後、どのように取り組んで行くか、これは私の業務上も、現在の一つの大きな焦点になっているのである

 またこの本で取り上げられている景勝地ハロン湾では昨日(2月17日)、海上で観光客を乗せたままホテルとして停泊していた船が突然沈没し、日本人一人を含む外人観光客ら12人が死亡するという事故が発生した。ここも機会があれば、是非私も行ってみたいと考えていた場所である。この本が書かれてから既に17年経ったヴェトナムが、この本の印象とどこまで異なり、また変わっていないかというのを、是非近い内に、まだ訪れていないハノイを中心に自分の眼で見てみたいと思うのである。

読了:2011年2月5日