カンボジア最前線
著者:熊岡 路矢
8月の一時帰国時にブックオフで見つけた1993年5月出版の新書である。著者は、1947年生まれで、1980年、自動車修理工としての専門技術を生かした途上国での職業訓練指導員としてタイに渡り、そこで活動する中で次第にカンボジア難民との接点が多くなり、その後は主としてカンボジア支援のNGOメンバーとして、依然内戦が続くこの国に関わることになる。この本は、そうした彼の草の根活動を通じて観察したこの国の約10年前までの状況報告である。
この国は1970年以降、東西冷戦下の大国による代理戦争の舞台となり、徹底的に破壊されてきた。この年米国の支援を受けたロン・ノルのクーデターが発生し、シアヌーク国王を追放しクメール共和国が成立する。しかし、1975年、中国の支援を受けたポル・ポト政権がロン・ノルを倒し、その極左思想に基づき、徹底的な旧政権関係者のみならず知識人全体の粛清を行う。しかし、1979年、今後はヴェトナムの支援を受けたヘン・サムリンがこのポル・ポト政権を倒すが、ポル・ポトはジャングル地帯に籠り、引続き抵抗をする。そしてこの本が刊行される直前の1992年3月、パリ和平会議で、内戦終了にようやく一定の目途がつくことになるが、まだまだ安定には遠いという情勢が続いている。著者がここで報告しているのは、この、ヘン・サムリン政権成立からパリ和平に至る時期、草の根の支援NGOでの勤務を通して見たカンボジアの姿である。
大国の思惑に翻弄された結果、「破綻国家」化したというのが、この国の現代史であるが、この本は、まず著者がこの地域での活動を始めた1970年代終わりのインドシナ情勢全般の説明から始まる。
この時期、ソ連・東欧ブロックの支援を受けたヴェトナムは、1975年の米国に対する勝利での自信を深め、1979年カンボジアに侵攻し、ヘン・サムリン政権を樹立する。ヴェトナム撤退以降、この国に圧力を強めていた米国は、「西側社会と国連に影響力を行使し、一方でヴェトナムの首を政治的、外交的、そして経済的に締めつけながら、他方インドシナからの難民流出を促す道を選択した。」他方、中国は、カンボジア侵攻も含めたヴェトナムへの「懲罰」として、この年、北の国境ラインを越えて軍事攻撃をしかけ、国境近くのヴェトナムの町を徹底的に破壊する。こうした情勢の中で、ヴェトナムのみならず、カンボジアからも難民がタイ国境に押し寄せることになっていたのである。同時に、この時期、それに先立つポル・ポト時代の3年9カ月に起きた大規模な粛清についての実態が少しずつ明らかになっていった。著者がバンコクでの日本奉仕センター(JVC)という支援NGO活動に飛び込んでいったのはこうした時代であった。
著者は、まずカンボジアの歴史、特に米国、ソ連・ヴェトナム、そして中国に振り回された1950年代以降の歴史を改めて説明しているが、これは続けて読み始めた、ジャーナリストによる別の新書の方がよく整理されているので、こちらに回し、ここでは著者の草の根の視点から見た80年代から90年代初めのこの国の民衆の姿を見ておこう。
まずはバンコクを起点としたカンボジア難民向けの技術学校の開校のための活動。著者は、いきなり強盗にあい、殺された日本人同僚を送ることになる。この時代はまだカンボジアではポル・ポト派の支配する村も点在しており、国境近辺ではこうしたゲリラに襲撃される危険もあったが、この事件は一般の強盗であったようだ。
1979年以降、インドシナ三国から逃れてきた人は広い意味で「難民」と認められたとはいえ、ラオス及びヴェトナムからの越境者が一般的な「難民」としての保護を与えられたにも関わらず、カンボジアからの越境者は、「不法入国者」、「一時越境避難者」として第三国への出国などは認められず、国境近くの難民キャンプに留められることになっていたと言う。
こうした環境で、著者は欧米支援グループや難民の自治会との協力により、カンボジア難民向けの技術学校に向けた準備を行っていくが、まさに候補となる建物の再建を含め、ほとんどゼロからの出発である。1981年8月準備が完了し、カオイダンという故郷の町で学校が開校するが、この過程では、既にこの地で活動していた「国境なき医師団」や「国連難民高等弁務官事務所」のサポートを受けたことが語られている。
こうした過程で知り合ったカンボジア人から聞くのは、ポル・ポト時代の苦難であり、著者が紹介している何人かのカンボジア人は、総て家族の誰かをこの時代に失っている。また技術学校で学んだ後日本に移住したカンボジア人も多かったというのはやや意外であった。
当初のタイ国内での活動を経て、JVCはカンボジア国内での支援活動に乗り出し、1982年から「井戸掘り事業」を始める。この時期、国際社会ではまだ「ヘン・サムリン=ヴェトナムの傀儡政権」という評価が一般的で、そのため欧米からの経済制裁も残り、日本のNGOが直接カンボジアで支援活動を行うには、日本とカンボジア双方の事情で多くの制約が残っていたという。そのため彼らの活動は、あくまで既に政府の承認をうけ活動している英国のNGOを経由して行われることになる。
こうした中で始めた著者らの「井戸掘り事業」であるが、当時のプノンペンでの滞在が「孤独感と閉塞感」に包まれたものであったことは想像するに難くない。80年代全般、「プノンペンの西側外国人の数は、ユニセフ、赤十字、NGOをあわせて、わずか50人足らず(1993年には、国連関係で2万人、NGOだけで100団体1000人を越す)」という状態で、著者も1985―86年にここに駐在し、それを実感することになる。例えば、プノンペンに入るルートは、ホーチミン経由のみ。使われる機体は第二次大戦中の支援物資輸送に使われた古いもの。現地からの国際電話はモスクワ経由で繋がるまでの待ち時間が2−3時間となることも一般的であったという。こうした話からは、この時期、やはりこの国の最低のインフラを担っていたのが、ヴェトナムとその背後にいたソ連であったことが分かるのである。
1985年からの著者のプノンペンでの生活が語られる。当面の支援業務は、井戸掘り給水支援の継続とカオイダンでの技術学校の発展としての機械修理の技術訓練プログラムということであったが、当時のカンボジアの政治情勢は、ポル・ポト派、シハヌーク派、ソン・サン派の三派連合とヘン・サムリン派との内戦が続いていたこともあり、引続き国際社会では孤立しており、国際NGOを含め援助活動は停滞していたという。
そうした中でのゼロからの出発、そして何よりも生活そのものの厳しさは、今の時代からは想像もつかない水準である。上下水道の混在、その他の様々な要因に起因する病気の数々。当然気候の厳しさや停電、物品調達の難しさや外界からの孤立感といった様々なハードシップが語られるが、そうした中で生き抜いた著者の気力・体力には敬意を表したい。そうした厳しい世界と共に、閑話休題でカンボジアの1年の歳時記が紹介されているが、これなどは現在もそのまま変わっていない数少ない世界であろう。
カンボジアでの活動を通じて知り合った人々が紹介されるが、まさに今のように本から得られる情報のない時代、こうした人々から語られる世界は、ポル・ポト時代の苦難のみならず、この国に関する情報として貴重であったのは間違いない。個々の紹介は省くが、ヘン・サムリン政権の官僚との接点の中で、著者が抱いたこの時期の政権の特徴は、「トップを少数の元ポル・ポト派(ヘン・サムリン、チア・シム、フン・セン等)で作り、専門職に、ごく少数しか生き残らなかった西側に強い官僚をあて、その他の大部分の行政職に元先生・元学生をあてた」であるとしている。大雑把に言えば、「専門職、知識人、公務員などのどの分野でも、ロン・ノル時代までに10人いたとするなら、ポル・ポト時代に8人が殺され、1人がプノンペンに残り、残り1人が難民キャンプか海外(フランス、米国など)に逃れた勘定になる」と指摘しているが、いずれにしろこの時代の被害が、いろいろなところでコメントしている、スターリン、ナチスによる粛清・虐殺に匹敵するものであったことだけは間違いない。
またカンボジアでの華僑の動向も興味深い。「中国が支援していたポル・ポト時代には、元商人の都市住民の中国人は殺される側で、79年以降は、ヴェトナムと近いヘン・サムリン政権下で、中国人は政治・経済的に警戒されていた」が、1989年前後から、市場経済への移行が始められると直ぐにホイ・ケン(中国系カンボジア人で75年以降は香港、シンガポールに逃げていた)といった大物華僑によるホテルやレストラン再建への投資等の「里帰り」が始まったという。しかし、「食べる、飲む、暮らす、日常的に使う、というものの大部分が、華僑及び中国系ネットワークの支配下に入る」という形で、「シハヌーク王家と華僑資本、ロン・ノル軍人政権と華僑資本の結びつき以来17年ぶりにカンボジア経済が再び華僑資本のネットワークに組み込まれる」ことについて、著者はやや複雑な気持ちを持っているようである。またヴェトナム系カンボジア人も戻り始めているが、彼らは一般の商業に加えて、建築技能者が多く、建設現場はヴェトナム語の世界であったという。またイスラム系も、再び表に出てきているが、ここで面白いのは2世紀から17世紀まで中部ヴェトナムで栄えた「チャンパ王国」はイスラム王国で、この末裔がカンボジアに落ち延び暮らしていたということである。平家の落人部落のような世界が、インドシナにもあったというのは興味深い歴史の裏側である。
1991年10月のカンボジアに関わるパリ和平協定とそれに関わる日本を含めた国際関係について著者なりの整理をしているが、これは省力する。ただこの時点では、日本はポル・ポト派を含めた三派連合の「民主カンプチア」を支持しており、ヘン・サムリン政権についてはヴェトナムの傀儡政権ということで承認せず、ただようやく外務省筋がコンタクトを開始したばかりであった、というのも特記すべきであろう。
最後に、著者は1993年5月に訪れたカンボジアでの印象を下に、この時点でのこの国の展望を整理している。UNTAC(国連カンボジア暫定行政機構)に反対するポル・ポト派は、依然山間部を基地にテロ活動を続けている。日本はプノンペンを承認し、ポル・ポト派からは、時折日本批判も聞こえてくる。そうした中、4月の選挙に向けた準備が進められ、各政治勢力の思惑が交錯している。
こうした中で、著者は、こうした政治の動きとは別に、草の根でのカンボジア人の「自立意識」が育ってきたことを評価している。これは草の根で援助活動を行っている人々の実感だと思うが、一般の福祉と同様、過剰な援助は自立意識の成長を歪め、たかり・依存体質を強める危険がある。その意味で、援助とは自立のための触媒であるべきなのである。農業や林業で、自らのイニシアティブによる中長期的計画が実行に移されているという。もちろん戦争の後遺症は、まだ心身の障害者も多い孤児院などに残っており、こうした人々の社会復帰を促すのは容易ではない。しかし、著者が最初に関わったタイ国境の難民キャンプからの人々の故国への帰還も順調に進んでおり、あとは例えば農業支援での農薬問題など、この国の環境に適した支援が行われれば、カンボジア人自身によるNGOの活動開始など、人々は自らの手で再建を行っていくことが出来るだろうと期待している。
既に書いたとおり、この国を破綻させた大国のパワー・ポリティックスについては、別のジャーナリストの本がよく整理しているので、あえてここではコメントしない。ただ、この本の特徴は、そうした大状況が不安定な中でも、NGO組織を中心とした草の根からの支援が地道に行われていたことを伝えていることにある。そこには、著者のように、現地での厳しい生活を甘受しながらも、そこで草の根での人間ネットワークを広げていった人々がいるのである。
現在、私の周辺にも、あえてこうした世界に踏み込もうとしている若い人々がいる。もちろん、ここで舞台になっているカンボジアも、今やプノンペンには証券取引所もでき、アンコール・ワットの遺跡には別に書いたとおり日本人の高中年の観光客が押し寄せるようになっており、著者が活動していた20年前とは大きく状況が変わってきている。
当初は密林に篭り抵抗していたポル・ポト派の残党も、今や裁判で当時の犯罪を裁かれる時代になっている。しかし、一般の新聞報道によると、ポル・ポト派が依然農村部を中心にそれなりの支持基盤を有していることもあり、国のこれ以上の分裂を止めるため、その裁判は一部の指導者のみに留めようとする動きもあるとのことである。また今年になり隣国タイとの間で武力衝突が勃発した、世界遺産プレアビヒア寺院を巡る西部国境問題や、タイを追放された前首相タックシンがこの国を訪問し、フンセン首相との親しい関係を誇示するなど、近隣諸国との関係でも、相変わらずデリケートな問題を抱えている。こうした事実は、東西冷戦が終了して既に20年以上も経っているにも関わらず、かつてこの国を破綻させた国際情勢からの影響と、それに伴う国内の分裂が、まだ決して過去のものになっていないことを物語っているようにも思われる。これから益々我々のビジネスでも関与を深めていかなければならない国の一つでもあることから、この国を巡る最新情報をフォローしていかなければならないことを確認すると共に、その際、政治・経済の大状況だけでなく、この本で取り上げられている現場からの視点も、この国の発展を見ていく上で是非持ちたいと痛感したのである。
読了:2011年9月30日