カンボジア戦記
著者:冨山 泰
日本に向かう飛行機の中で読了した。10年ほど前の1992年3月刊行のカンボジア物第二弾であるが、やはりこの時期は1970年代からのこの国の混乱が、1991年のパリ和平会議により、ようやく落ち着き、取りあえず国家再建の方向が見えてきたタイミングである。その意味で、ジャーナリスティックな観点でも、この国に対する関心が強まった時期であったのだろう。またこの本にも書かれている通り、このカンボジア和平は、日本が初めてPKOとして自衛隊を海外派遣したという、日本の外交、なかんずくアジア外交の一つの大きな転機となった事案でもあった。しかし、その後、この時点ではまだ不安定であったこの国の政治は、ヘン・サムリン派、なかんずく現在まで首相として権力を維持しているフン・センの下で、ポル・ポト派が抑え込まれ、裁判による歴史の審判も行われていった。現在では、もちろんタイとの国境紛争など、この時代(あるいはそれ以前からの)の負の遺産も残っているとは言いながらも、政権は圧倒的に安定している。そして皮肉なことに、情勢が安定化するにつれ、この国に対するジャーナリスティックな関心は薄れ、この国に関する書物も少なくなっているように思える。その意味で、この本は、この国の危機の時代をジャーナリスティックな視点で追いかけた最後の作品になってしまったのではないかと思われる。この前に読了した新書が、NGOによる支援を通じて見た、この転換期のミクロの姿を追っていたのに対し、ここではまさにこの国の危機を招いた列強の思惑と、それが時代の変化の中で変わっていった過程を、それぞれの政治勢力の思惑を中心とした大きな視点から整理したものである。その意味では、この危機の時代から転換期にかけてのこの国を巡る国際政治のダイナミックスを見る上で、たいへん参考になる。
著者は、ポル・ポト自身の生い立ちから、フランス留学を経て共産主義者となり、地下活動・ゲリラ戦でのロン・ノル政権打倒、そして恐怖政治の時代を迎えるまでを、実の兄への取材などにより紹介することから始めているが、ここでは、むしろこの危機の時代を作ったこの国の政治勢力と列強の思惑を整理しておこう。
まず1970年3月の、シアヌーク追放と親米のロン・ノル政権の誕生。これは1965年、ヴェトナム戦争で米軍がダナンに上陸し直接介入に踏み切ったことに憤ったシアヌークが、米国との外交関係を断絶すると共に、「カンボジア領内でのヴェトナム共産軍の拠点設営を黙認するとともに、中ソ両国がカンボジア南西部のコンポンソム港(当時シアヌークビル)で武器を陸揚げし、これをカンボジア領経由でヴェトナムに送ることを許可した」ことに起因する。反米姿勢を強める一方、北西部で発生した農民暴動をきっかけに左派をも弾圧したことで、左右両派の双方を敵に回し、経済政策にも行き詰ったことがシアヌーク政権崩壊の原因であったという。ロン・ノル政権は、ヴェトナム戦争で反共軍事路線を強める米国のドミノ戦略下での親米政権の擁立であったが、しかし、この親米政権が出来たことで、追放されたシアヌークはポル・ポト派に接近し、主として中国とヴェトナムの支援を受けて僅か2年でロン・ノルを打倒することになる。ポル・ポト派の勝利は、「『革命』意識に燃えた強力な軍隊を持ち、加えて国民の九割を占める農民多数の支持を獲得できたこと」が主因であった。但し、面白いのは、ソ連は倒されたロン・ノル政権を承認し続け、それから3年以上関係を維持したという。また、ここに至るまで、反シアヌーク運動や反ロン・ノル闘争の過程でポル・ポト派とヴェトナムとの関係が悪化していったことも、その後の歴史では重要である。当初はヴェトナム軍の支援に依存していたポル・ポト派は、何度かのヴェトナムの「裏切り」を受け、次第にヴェトナムを無視した動きをするようになり、最後は関係が完全に決裂する。
1975年4月から1979年1月までのポル・ポト政権下での「大虐殺」は、既に前に読んだ新書を始め、いろいろなところで触れられているので、ここでは繰り返さない。政治的観点から見て重要なのは、まず近隣各国との国境紛争が、1977年初め頃からポル・ポト政権のもとで蒸し返されたという点。まずタイとの間では、プリアウィヒアー寺院の領有権問題。これは1950−60年代のシアヌーク時代に一旦発生し、当時ハーグの国際司法裁判所に持ち込まれ、カンボジアに軍配が上がっていたという。ポル・ポト時代に、この地で再び武力衝突が発生したが、この時は大きく悪化することはなかったという。言うまでもなく、この問題は、本年2月に改めて両国の国境軍事紛争になったことは記憶に新しいところである。
ヴェトナムとの国境紛争は、よりシリアスであった。両国の国境線は、フランス植民統治時代に、植民地当局が便宜的に引いた行政境界線を、シアヌーク時代に再確認したものであったが、75年の「解放」後もこの国境線を越えてヴェトナム軍が居座っていたという。
断続的に行われた交渉が進まない中、1977年9月、ポル・ポトは、ヴェトナム南部への総攻撃指令を出したが、この時、この命令を拒否し、逃亡した軍人の中に、後にポル・ポトを倒すことになるヘン・サムリン師団長やフン・セン副司令官兼参謀長らがいたことである。彼らは、当初ジャングルに潜んだ後、ヴェトナム領内に逃れ、保護され、1978年12月に結成されるカンプチア救国民族統一戦線の主要メンバーとなる。彼らが、当初ポル・ポトに協力していたことで「大虐殺」へ関与したことも取り沙汰されるが、彼らはそれに関しては一切沈黙している、と著者が指摘している。これはまさに現在行われているポル・ポト派裁判に対する現政権の複雑な立場を物語っていると言える。彼らも言わばその時代の協力者であるが故に、どこかでこの裁判を終わらせたいと考えているのは想像するに難くない。ナチ裁判と同様に、この問題を完全に総括するには、まだ時間がかかるのであろう。
1978年12月、ヴェトナム軍はカンボジアに侵攻し、1月初めにはあっけなくプノンペンを制圧する。ポル・ポトは西のタイ国境近くのジャングルに逃れ、プノンペンに幽閉されていたシアヌークは北京に脱出したという(ポル・ポトが、都市住民の大粛清を実行しながら、シアヌークには手を出さなかった、というのは興味深い)。新政権は、ポル・ポト政権成立前にヴェトナムに逃れ反政府活動に入った「クメール・ベトミン」グループと、直前に離脱したヘン・サムリンらの地方幹部の2つのグループから構成されていたが、次第に後者が力をつけ、実権を握っていったという。
ここから、「ソ連・東欧ブロックに支援されたヴェトナム傀儡政権」であるヘン・サムリン政権と、米中そしてASEANが支援する「首都を追われたポル・ポト派(極左)とシアヌーク派(王党派)、ソン・サン派(反共)が結成した三派連合政府(民主カンボジア連合政府)」の戦いが継続する。著者は、この「三派連合政府ほど奇妙な政府はなかった」と指摘している。何故なら、この政府は、「大統領以下、政府の組織図は一応存在しても、政策を決定する首脳会議や閣議が定期的に開かれるわけでもなく、三派は原則として、ばらばらに政治的、軍事的方針を決めて実行するだけ」という「亡命政府の実態すらない、典型的な『ペーパー・ガバメント』」に過ぎなかったからである。しかし「この架空の政府が、日本を含む多くの国からカンボジアの正統政府として承認され、89年まで国連代表権を与えられてきた」という事実は、まさにこの地域を巡る列強の思惑の難しさを物語っていたと言える。即ち、まずポル・ポト派は、「大量殺人集団」としてのイメージを覆い隠すためにシアヌークの権威を必要とし、ポル・ポト派を嫌悪する他の二派も、お互いに対する不信感を抱えながらも「ヴェトナムからの自国の解放」のための「次善の策」としてポル・ポト派からの支援を期待せざるを得なかった。そして最後にヴェトナムの勢力拡大を懸念するASEAN、なかんずく強硬派のタイおよびシンガポールから、シアヌークに対する三派連合への強い要請があったという。またインドネシアやマレーシアのように、「国内に異質の中華社会を抱え、中国への警戒心が強い」国は、「中国が支援するポル・ポト派以外の勢力をカンボジアの反ヴェトナム陣営の中に育てたい」という意向があったという指摘も面白い。シアヌークは、独自にヴェトナムと直接交渉を行い、「民意を代表する新政府の選出とそれまでの国連のカンボジア代表権を空席にすること」なども工作したようであるが、反ヴェトナムである米国や中国の反対にもあい、1982年6月、この「奇妙な連合」を受け入れざるを得なかったという。
こうした対立構造の中で内戦が継続していたカンボジアに和平の動きが出てくるのは1987年以降である。ここでは外部環境の変化が大きな要因になる。
まず1986年12月のヴェトナム共産党第6回大会での改革派グエン・バン・リン政治局員の党書記長就任とドイモイ路線の採用。レ・ズアンやレ・ドク・トといったヘン・サムリン政権樹立の「陰の立役者」の退場でカンボジア問題に対する新思考が可能になったと分析される。またその背後でヴェトナムを経済・軍事支援していたソ連が、ゴルバチョフの下で、対中関係の改善も念頭に置きながら、ヴェトナムに対する援助を大きく削減すると共に、カンボジア問題でも譲歩を迫ったという。
これを受け、1987年5月、シアヌークが三派連合政府の大統領の「休職」宣言を行い、「和平の条件は、ヴェトナム軍の無条件撤廃」と強硬に主張していたポル・ポト派、ソン・サン派と距離を置き、ヘン・サムリン政権への接近に動き始める。北朝鮮ピョンヤンでのシアヌークvsフン・セン会談や、インドネシアとヴェトナムが主導した非公式和平協議など、失敗も続くが、この年の12月、パリ郊外でついにシアヌークvsフン・セン会談が行われる。この会談は、三派連合の他の二派の猛反対を受けるが、シアヌークは手練手管を使いながら着実にこの方向を進めていったようである。
これ以降は、著者がまさに通信社のバンコク特派員として追いかけた、1991年10月のパリ会議での和平合意に至る過程の詳細な報告である。これは二転三転しながら進むが、主要な節目となる出来事は以下のとおりである。
・1988年7月タイ首相のプレムからチャチャイへの交替。「戦場から市場へ」というスローガンでのカンボジア政策の転換。
・1989年、4月のヴェトナムによるカンボジアからの無条件撤退発表と同年9月の撤退。
・1990年2月のシアヌーク、フン・センらによる東京会談。
・1990年7月の米国のカンボジア政策大転換(三派連合政府の国連代表権への反対とヴェトナムとの政治協議の開始)。これを受けた中国によるポル・ポト派支援とカンボジア和平への姿勢の変化。
・1991年10月のパリ会議での和平合意。
こうして、この本では和平後の国家再建に向けて依然残る多くの困難を指摘して終わることになる。この時点ではシアヌークやポル・ポトといったこの混乱期の指導者たちは以前健在であり、特にポル・ポト派は、ジャングルを基盤としたテロと農村部への影響力拡大を試みていた。他方カンボジア和平では、日本が国連によるPKOで初めて自衛隊を派遣し、内外で論議を生むことになる。既に首相を引退していたシンガポールのリー・クアンユウが「アジア諸国の多くは日本に武装した平和維持活動に関与してほしいと思っていない」とコメントし、「まるごし」での派遣を薦めたというが、さすがにこれは日本には飲めなかったという。
この本ではカバーされていない、その後の主要な動きは、以下の通りである。
・1992年3月、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC、明石康事務総長)実働開始。
・1993年4−6月、国連監視下での総選挙実施(ポル・ポト派を除く三派参加)。王党派党首のラナリットが第一首相、人民党のフン・センが第二首相という「2首相制」の立憲君主制へ。同年9月、シアヌークが大統領就任。UNTACの暫定統治終了。
・1997年7月、プノンペンで王党派と人民党の武力衝突。ラナリット、パリへ逃亡。
・1998年3月、恩赦でラナリット帰国。7月総選挙で人民党勝利。フン・セン第一首相就任。9月、ラナリットは国民議会議長就任。
・1998年4月、ポル・ポト死亡。ポル・ポト派支配地域の平定。12月にポル・ポト派幹部が国民に謝罪。
・1999年4月、ASEAN加盟。
・2001年1月ポル・ポト派幹部を裁くカンボジア特別法廷の設置が国連との間で合意。
・2004年10月、シアヌークが退位。息子のノロドム・シハモニが国王に即位。
・2006年10月、王党派、ラナリット党首を解任。2007年3月マニラ滞在中のラナリットに背任罪判決。ラナリットは、海外滞在のまま新党を結成。
・2009年、カンボジア特別法廷は、キュー・サムファン元国家幹部会議長、その他の幹部を大虐殺(ジェノサイド)罪で訴追。
カンボジアの現代史は、まさに冷戦下での米ソ中の対立、更にインドシナの中ではヴェトナムとその他ASEAN諸国の思惑に翻弄された歴史であった。この冷戦構造の終焉に伴い、最悪の国内政治環境は過去のものになり、今この国は少しずつASEANの周辺国にキャッチアップする道を歩んでいる。もちろん過去の歴史は完全に払拭されたわけではなく、ポル・ポト派幹部の裁判も、象徴的な裁判に留めざるを得ない様子であるし、タイとの国境でも、今年始めのように、時々武力衝突が蒸し返されている。また伝統的に、カンボジアをASEAN分割のために利用してきた中国が、国内インフラ投資を中心としたこの国への支援を続けているのは、西沙諸島等を巡る中国とASEAN諸国を巡る紛争を睨んだ動きと考えられなくはなく、再び中国を巡る紛争でこの国が犠牲を払わされる恐れもなしとはしない。
そうであるとすると、現代のインドシナの政治情勢を見る際にも、20年前までのこのカンボジア現代史とそれを巡る関係諸国の動きを引き続き頭に入れておくことは必要である。それはこの地を再び列強の権力政治の舞台としないためにも、またスターリンやナチスの粛正に匹敵すると言われるその大量殺戮という悲劇を繰り返さないためにも重要である。ジャーナリストの視線で、このカンボジアの大きな転換点を捉えたこの小著は、その意味で現在もそれなりの価値を持っていると思われる。
読了:2011年10月7日
(追伸)
10月31日付の当地新聞(The Straits Times)が伝えるところでは、昨日、プノンペンで、シアヌークが久々に公共の場に姿を現したとのこと。これは内戦後の彼の帰国から20周年を記念すると共に、本日(10/31)89歳の誕生日を迎える、この元国王を祝う式典であったという。現国王のシハモニや首相のフンセンらと共に登壇したシアヌークは、宮殿前に集まった数万人の聴衆に向かい、自分は二度と祖国を去ることはない、と述べ、聴衆からの歓声を受けたという。
カンボジア関係の本を読んだ後、このシアヌークの近況はどうなっているのか、という疑問を持っていたが、近年は、癌などの病気治療で中国に滞在していることが多いというものの、依然存命であり、またそれなりに国民の敬意を集めているということを改めて確認することになった。シンガポールのリー・クアンユーとほとんど同じ年齢であるこのカンボジア現代史のキーマンのしぶとさに、改めて恐れ入った次第である。
2011年10月31日 追記
(追伸2)
2012年10月15日、シハヌークが、病気療養で滞在中の北京で、心臓麻痺により逝去した。享年89歳。10月31日の90歳の誕生日の直前の逝去である。ただちにシハモニ国王とフンセン首相が、遺体の移送のために北京に向かったとのことである。
前回の追伸を書いてから丁度1年。この戦後カンボジアの混乱期をしたたかに生き抜いたこの元国王については、70年代のこの国の悲劇を招いたという否定面があるものの、他方で常に国民の敬愛を受けてきたことはも間違いない。彼の逝去が、カンボジアの戦後混乱期の最終的な終焉を象徴することになることを期待したい。更に同じ89歳という年齢に達しているシンガポールのリー・クアンユーを始め、マレーシアのマハティールやタイのブミボン等、戦後の東南アジアを率いてきた各国のカリスマたちの退場も近づいていることが感じられる。東南アジアの新しい時代がまさにそこまで来ていると言えるのだろう。
2012年10月15日 追記