東南アジアを学ぼう 「メコン圏」入門
著者:柿崎 一郎
2008年に同じ著者の「物語 タイの歴史」を読んだが、その際著者は、タイ及びメコン圏を中心とした交通開発を研究していると紹介されていた(別掲参照)。親の仕事の関係から子供時代をタイで過ごし、その流れでその後チュラロンコン大学に留学し、タイ語を習得した著者は、そのままタイからメコン圏の交通開発に関心を移していったようである。
そのメコン圏は、フランス圏インドシナ三国の政治的混乱が終息して以降、急速に経済的関係を強めているが、そのインフラとなっているのが、この地域での交易路の整備である。インドシナ最後の戦争であったカンボジア内戦がまだ終息しない1988年、タイのチャーチャーイ首相が掲げた「インドシアを戦場から市場へ」というスローガンが、言わばこの地域の発展を方向付けることとなる。そして実際、戦争時期とまた異なった形での大国の思惑は渦巻いてはいるものの、この地域を東西・南北に結ぶ交通網が徐々に整備されてきた。こうしたインドシナ半島を走る交通網を、著者は「交通開発」専門家として幾度も自らの足で辿ったようである。この本は、そうしたインドシナ、その中でも特に「メコン圏」と呼ばれる地域を巡った著者の旅行記である。旅行記であるが故に、理論的な分析は、ほとんどありふれたコメントしか書かれてはいないが、むしろここではそうした分析は忘れ、私の業務上のテリトリーであり、一部は私も訪れたことのある地域を、著者と共に能天気に回ってみよう。
まずメコン川とメコン圏の確認。メコン川は、全長4350キロ、あるいは4425キロと言われる東南アジア最大の河川である。かつて欧州滞在時に、ドナウ川やライン川紀行を楽しんだように、こうした大型河川を巡る旅はロマンがある。しかし、東南アジアのこの川を巡る旅は、欧州のそれのように、河岸の文化を楽しむというよりも、僅か20年前まで戦乱の中心であり、その後は交易を通じた経済成長の動脈に転じた歴史を感じるという、やや異なる趣きをもっている。チベット高原を源流とし、中国雲南省からタイ・ラオス国境を形成しながらカンボジア、ヴェトナムを経由して東シナ海に注ぐこの大河は、別に旅行記で掲載したとおり、私はタイ北部のミャンマー・ラオス国境で観光したに過ぎないが、今後のこの地域の成長の大きな原動力であることは間違いなく、また別の場所でも訪れてみたいと思うのである。
この地域は戦争により経済成長から取り残されたこともあり、現在「メコン圏構想」と呼ばれる交通、通信、エネルギー、環境・天然資源、人的資源、通商、観光という7つの部門の開発計画が進められているという。その中でも、著者の専門である交通開発に関しては、二つの「南北回廊」と「東西回廊」、「南回廊」の4つが整備されているという。「南北回廊」は、中国雲南省昆明からバンコク、及びヴェトナムのハイフォンに至る二つ。「東西回廊」はミャンマーのモーラミャインからタイ、ラオスを経緯してヴェトナムのダナンに至るもの。そして「南回廊」はバンコクからカンボジアを経由してヴェトナムのヴンタウ(ホーチミン)に至るものである。夫々地図で見るとなかなか雄大なルートであり、私も是非機会があればこれらを辿ってみたいと思わせるものであるが、ここでは著者の旅に身を任せながら、若干の興味深い事象のみを備忘録的に残しておこう。
まず「南北回廊」の旅が、ハノイの外港である紅河デルタにあるハイフォンからスタートする。紅河に沿って北西に向かいながら、中国雲南省を目指すが、ここで面白いのは、まずこのルートが、植民地時代にフランスが中国進出のルートとして開発・整備したものであることである。当初フランスは中国に向かいメコン川を遡ろうと試みたが、早瀬や急流に遮られ失敗し、こちらのルートに切り替えたという。また抗日戦で、蒋介石が重慶に拠点を構えた時に、このルートが英米の物資支援ルートとなり、またその分断を口実に日本軍がヴェトナムに侵攻したというのも興味深い。かつては物資輸送を行う鉄道が敷設されていたが、現在は道路の整備により廃れ、新たな鉄道が完成されるまでは、道路による移動が主たる輸送手段になっている。ハンフォンから昆明まで、車で約10時間の旅であるという。
「常春の町」昆明からバンコクに向かうルートは、全長1800キロと、4つの回廊の中でも最長のものである。まずは昆明からラオス国境にある「タイ族の町」景供までの道路沿線の景観が語られるが、ここで特記されるのは、この地域のメコン川上流に1990年代以降中国が設置したダムにより、メコン川の生態系や水量に関し、下流の諸国との間で軋轢が生じているという点であろう。ここからメコン川は、ラオスとミャンマーの国境線を形成するが、この辺りは2000年に中国、ラオス、ミャンマー、タイで商業航行自由化協定に調印してから、船による物資輸送―特に中国とタイの間の輸送―が活発化している地域であるという。私の「ゴールデン・トライアングル」の旅行記で辿ったメコン川にも、中国の大型輸送船が停泊していたことが記憶に新しい。著者は、上流から船で下っていくが、この地域でメコン川を挟み、ラオス側とミャンマー側にカジノが建つ景観も私が眺めたものと同じである。ただ私も観光で訪れたミャンマーとの国境の町チェンセーンで、中国の資本家(?)が工業団地を計画したが、住民の反対で頓挫した、というのは面白い話である。また著者は、この間を通るラオス内の陸路も辿っているが、これは2008年に開通したが、まだ道路としてはいろいろ問題があるようである。
このルートはタイに入ると、チェンマイ、アユッタヤーなど、チャオプラヤー川の広大な平原をいっきに南下する。まさにこの地域が広大な平原であることが、今回の洪水が一気に広域に広がると共に、流域での雨量は減少したものの、今度はなかなか水が引かない理由になっているのである。著者は、「中進国タイ」の問題やアユッタヤーの歴史、そして正式名称は「クルンテープ(天使の都)」であるバンコク等の簡単な紹介をしているが、これは今まで散々別のところで語られてきたものである。
次は「東西回廊」である。この西の出発点はミャンマーのモーラミャインという町であるが、この国はまだ個人旅行者の陸路での合法的な入国はできないということで、著者の旅もミャンマーの歴史や政治状況を簡単に説明した上で、国境のタイ側にあるメーソートから始まることになる。
ここからチャオプラヤー川流域に至るルートは、タイとインド洋を結ぶ最短路として古くから交易路として栄え、また第二次大戦中は日本軍がビルマ攻略作戦に利用したという。この道を基礎として道路の拡張・整備が行われることになる。まだ私が訪れたことのないスコータイを経て道路は東に進み、タイ東部の山岳地帯を抜けてラオスに向かうが、このルートは1961年に、アメリカが共産化の脅威に晒されていたタイ北東部への支援のために建設したものであるという。広大なコーラート高原を経て、タイで最も貧しいと言われるイサーン地区に入っていくが、ここは既にラオ族中心の社会である。そしてその東に聳えるプーパーン山脈はかつて共産勢力が解放区を作った場所であるという。1980年代にこうした共産主義者が相次いで投降し、この地域の道路建設がようやく進むことになる。道はそのままラオス国境を形成するメコン川に向かうが、歴史的にはこの地域のメコン川の両側ではラオ族が同一の文化圏を形成していたが、1893年にフランスが軍事力で、メコン川東岸をタイから割譲させたことで、ラオ族が川により分断されることになったという。
この地域では、メコン川を渡る橋の建設が、政情不安で長く頓挫してきたが、1994年に、中国国内を除けば初めてのメコン川を渡る橋がオーストラリアの支援で建設され、2006年には第二の橋が日本の支援で完成し、東西回廊が完全に陸路で繋がったという。
ラオスについても著者は簡単な解説を行っている。独立後の経済を支える産業のないラオスは、1971年に日本の支援で完成したダム・水力発電所でタイに売電する東南アジアの「バッテリー」を目指しているというが、この国に関しても、今手元にラオスについての新書もあるので、詳しくはこの本で見ていくことにしたい。
回廊は、ラオスからアンナン山脈を越えヴェトナムに向かっていくが、ここは難路で、植民地時代にフランスがその建設を試みたが全線の完成はできず、地理的には遠いバンコクがこの地域の外港として機能していたそうである。現在では道路が整備され、またこのラオス・ヴェトナム国境のラオス側は経済特区に指定され、ヴェトナム資本中心に、タイ資本も一部加わった形で企業進出が行われているという。この山岳地帯はヴェトナム戦争時に米軍とヴェトナム軍が激戦を繰り広げた場所であるという。そしてここまで来ると南シナ海沿いのドンハまでは真近である。そしてそこから海岸に沿って南下し、古都フエと山が海にせり出した最後の難所ハイヴァン峠を越えて、東西回廊最終地の深水港であるダナンに到着するのである。ハイヴァン峠はヴェトナムの南北で気候を分ける境界になっており、歴史的にも民族や文化も隔てていたということである。しかし、この海岸に沿ったヴェトナムの国道一号線は、国内ではハノイとホーチミンを結ぶ最重要路である。ハノイ・ホーチミン間は約1700キロ。現在は道路の他には古い鉄道があるが、これは両都市間の移動に約29時間かかるという。日本の技術を生かした新幹線計画もあるというが、実現にはまだ時間がかかりそうである。尚、ラオス国境のアンナン山脈を越える回廊は、この東西回廊の北部と南部にも其々一本ずつあるという。
最後は「南回廊」である。これはホーチミン(乃至はその南東の港町ヴンダウ)を出発点に、プノンペンを経てバンコクに至るルートであるが、現在は南北に迂回するバイパスも出来ているという。ホーチミンからメコン・デルタを進むが、この地域はドイモイ以降東南アジアの「米倉」としての地位を回復し、ヴェトナムがタイに次ぐ米の輸出余力を持つのに貢献しているという。カンボジア国境を超えると、直ぐにカジノが乱立している。メコン圏では、タイ、中国、ヴェトナムでカジノが認められていないことら、それ以外の国の国境沿いにカジノが増加したのだという。私が見たゴールデン・トライアングルのカジノもこの延長であったということである。シンガポールも近年これを容認する方向に舵を切った訳であるが、途上国が、地道な勤労によってではなく、これで外貨の主要部分を稼ごうというのは、やや首を傾げざるを得ない。
メコン川を渡り、川にそって進むとプノンペンに到着する。カンボジアの近代史は、著者に説明されるまでもなく、ここのところ集中して見たばかりである。著者はプノンペンから老朽化した鉄道に乗るが、面白いのは列車の本数が少ないために、このレールを使った住民の私的なトロッコが行き来しているという。「レール上のタクシー」も含め、まだ長閑な世界が残っていると言えなくもない。列車からは見えないそうであるが、線路はトンレサープ湖に沿って北西に進む。私もアンコールと共に観光したこの拡張する湖は、雨気に線路近くまで来ることはないのであろうか?また現在タイに大洪水をもたらしている雨は、カンボジアでは被害をもたらしていないのだろうか、というのがやや気になった。
こうして、アンコールで有名なシアムリアプと共に、タイとの間で争奪が繰り返されてきたバッドムボーン等の町を経てタイ国境に向かうが、ここもカジノの群れである。カンボジアの国境カジノの走りが、ここパオイパエトのカジノであるというが、ほとんどタイ資本であるというので、ある意味自業自得なのであろう。国境のタイ側は、むしろ寂れているというが、ここは90年代まで、戦火を逃れてきたカンボジア難民キャンプの町であったという。先に読んだカンボジア難民支援NGOの協力者たちは、こうした場所で支援活動を行っていたのだろうか?
ここからバンコクまでは1941年に開通した古い鉄道が今でも機能しているという。こうしてバンコクに近づくと、スワンナプーム空港からの高架線と同流するとのこと。スワンナプームというのはタイ語で「黄金の土地」を意味するということである。
この東西回廊の南部のバイパスも著者は辿っている。これはカンボジアの新たな外港で、リゾートでもあるクロンプレアシハヌ(シハヌークヴィル)に出てから海岸沿いにバンコクを目指すルートで、タイ族最南端の町コ・コンやヴェトナム戦争時に米軍の保養地として発展したリゾートであるパッタヤー等を経てバンコクに至ることになる。
こうしてメコン圏を貫く4つの主要な回廊とそのバイパスを巡る著者の旅が終了する。旅の終わりの著者による総括は、この地域の「活気」と「変化」であり、特にかつては「辺境の地」で、政治的にも危険な場所であった国境周辺にこの言葉が当てはまるという。交通網の整備により人とモノの動きが活発になれば、経済は着実に向上する。
但し、著者は急増するこの人とモノの移動も、現在までのところは「相互に往来が増えるのではなく、特定の国からの流入が顕著」であるという。例えば中国とラオスの国境では、ラオス人よりも中国人の往来が圧倒的に多く、ヴェトナムとラオス、カンボジアの間の動きも一方向である。またタイからは、多数のギャンブラーを含む観光客がメコン圏に入りこんでいる。そして逆方向ということでは、数字には表れない不法な人の動きが発生しているようである。
こうした現象は、流入する国の政治・経済的な影響力を強めることになると共に、かつてカンボジアやラオスを政治的混乱に陥れた大国間の軋轢を、以前とは違った形で生み出す危険性も秘めている。ラオスやカンボジアを巡る中国とヴェトナムの覇権争いやミャンマーを巡る中国とタイの緊張などは、今後注意して見ていかなければならないだろう。
またこの地域への中国の影響力拡大を睨み、日本も主としてインフラ整備を通じ、この地域の経済発展に協力してきた。著者は、もちろん日本の貢献は、今後も続けられるべきと考えるが、同時に「倦怠感が漂う日本で生活する我々が忘れてしまった」「活気」と「変化」をこの地域から学ぶことも必要であろうとして、この新書を締めくくっている。
「インドシナを戦場から市場へ」というスローガンは、約20年を経てそのインフラがほぼ整備され、次なる成長の時期を迎えているのは確かである。しかし、先日このルートの一つをルポした日本のTVニュースによると、道路というインフラはできたものの、政治体制の違いと非効率な事務から、国境での入国に多くの時間を要し、その結果生じた大渋滞により物流が思ったほど増加していないという。この地域の更なる成長のためには、交通網といったハードに加え、こうした国境通過の事務といったソフト面の整備が必要なことは言うまでもない。こうした地域統合の先達であるユーロ圏は、現在、その政治主権の分裂と統一通貨の矛盾により構造的な危機を迎えているが、そこでの統合でまず実施されたシェンゲン協定のように、関係国でのパスポート不要化等の施策を、この地域でも導入することが望まれるのだろう。
読了:2011年10月23日