ラオス インドシナ緩衝国家の肖像
著者:青山 利勝
ASEAN10カ国の中でも、ラオスという国は、最も存在感の薄い国である。ヴェトナム、カンボジアと共に、フランス領インドシナを構成していたが、その中でも歴史に登場することが少なく、また今まで読んだ本の中でも、個別に触れられることも少なかった。国土の8割が山岳地帯で覆われ、24万平方キロというから、日本の約3分の2程度の面積(本州全土程度)の国土に、僅か612万人の人口(2009年現在)を抱えるだけであり、また一人当たりGDPは916ドル(2009年現在)と、カンボジア(同:814ドル、2010年IMF資料)、ミャンマー(同:342ドル、2008年IMF推定)と並ぶASEAN最貧国のひとつである。しかし、カンボジアは、その内戦の歴史が今でも生々しく語られ、それを指導したポル・ポト派幹部の裁判の進行が現在でも時折新聞で報道されている。またミャンマーは軍事政権によるアウン・サンスーチーの軟禁から最近の解放、そして来る選挙への立候補の容認・歓迎、更には10月にバリ島で行われたAPEC首脳会議で、2014年のASEAN議長国就任が決定、といったように、時折関連の情報が伝えられている。
これに対し、ラオスに関しては、ほとんどメディアで最近の情勢が伝えられることがない。歴史的には、ヴェトナム戦争が最も激しかった時代に、その後背地ということで、「パテト・ラオ」という反米社会主義的民族主義勢力の名前と共に、時折新聞に出てきた記憶はあり、また戦争が終結して南北ヴェトナムが統一したのと略期を一にして社会主義政権が成立したのは認識していたが、その後この国の情報をマスメディアで見ることは少なかった。
東南アジアで生活するようになってからも、この国との接点はそれ程増えることはなかった。もちろん、以前よりもこの国の存在は身近になり、2年ほど前には、ある国際会議で、この国の人々と初めて言葉を交わす機会を持ったり、今年の旧正月には、タイ北部への旅行記で記載したとおり、タイ側から、パスポートなしで入れるメコン川に浮かぶラオス領の中州に足を踏みいれたりしている。また業務面では、昨年ヴィエンチャンに証券取引所が設置され、金融機関1社に加え、この国の大きな輸出産業である水力発電会社が上場されるなど、少しずつ情報を集める必要も出てきている。しかし、それもまだ将来の話ということで、全般的にはまだまだこの国との接点は少なく、また必ずしも観光資源に恵まれている訳でもないことから、なかなかプライベートで訪れる機会もないままになっている。
こうしたラオスに関する新書を、前回の帰国時にブックオフの中古で見つけた時は、こんな国に関する本も新書になっているのだと少しびっくりすると共に、1995年刊行と16年前の作品であるものの、この存在感のない国の概観を掴むには良いだろうということで購入、今回読了した。著者は外務省職員で、フランス語研修を経て、1992年から94年までラオスの日本大使館に勤務している。この新書は、言わば彼のラオス駐在の卒業論文である。経済関係は、今や間違いなく変わっている部分が多いと思われるので、ここでは歴史や基本的な国の特徴等を中心に見ていくことにする。
ラオスの存在感の薄さは、一つには著者が引用しているある米国人ジャーナリストの言う「世界でもっとも不思議な国」という言葉が象徴しているように思える。ヴェトナム戦争の最盛期、この国は「中立化政策を内外に表明していたにも関わらず、国外ではヴェトナム戦争に巻き込まれ、国内では内乱が進行」し、「国内では共産側勢力とアメリカを中心とする西側戦力が混在し、表面的には牧歌的なラオス人の生活の裏で、陰謀渦巻く世界が存在していた」という。また1975年12月の革命後、王政を排して社会主義国となった後も、王族や仏教を激しく迫害することもなかった。また、政治・経済面でも、ヴェトナムのドイモイへの転換よりも若干ではあるが早い1986年11月に既に経済開放化政策を打ち出し、社会主義体制を堅持しながらも自由主義経済体制との結びつきを強めるなど、政策の柔軟性も持っている。そうした点で、「矛盾した事柄が、何の違和感もなく自然に共存している社会」であるという。こうした異質の世界の共存を許容するある種の鷹揚さと呑気さが、この国の特徴であると共に、他方で個性のなさを示していると言えるようである。
著者は、この国のインフラ整備を象徴する事例として、1994年4月に開通した「ラオス・タイ友好橋」の開通式典(タイのブミボン国王等も出席)の様子から始めている。別の本でも紹介されていたが、これは全長4350キロに及ぶメコン川にかかる初めての国際橋であり、日本が開発調査を始めたが、最終的にはオーストラリアからの無償資金協力で建設が行われたという。この橋の建設にあたっては、普段は、あるフランス人に「稲を植えるのがヴェトナム人、稲の育つのを眺めるのがカンボジア人、そして稲の育つ音を聞いているのがラオス人」と揶揄される程労働意欲の低いラオス人が懸命に働いたという。また古くは、日本占領時期の道路建設や、1967年から戦火の中で建設が続けられたヴィエンチャン郊外のナヌトゥン・ダムの建設現場でも彼らは「強い意志と我慢強さ」で働いたということである。
そのラオスは、民族的には低地ラオ族が60%を占めるが、山岳部には60−70もの少数民族が生活し、その山岳民族は従来から焼畑によるケシ栽培を行っており、それは元々は自分たちの薬用であったが、ヘロイン業者がこれに目を付け、タイを経由して流通していったようである。私が訪れたゴールデン・トライアングル地域は、かつてその集散地であったが、現在は国連の協力で撲滅運動が進められてきた。
この山岳民族は、インドネシア系、クメール系、中国系が主流で、10世紀頃中国南部からメコン川に沿って南下してきたラオ族との複雑な闘争を経て、山岳部に定住したようである。宗教的には小乗仏教と土着の精霊信仰が混じっているとのこと。1975年12月の無血革命後、一時仏教徒への迫害が行われ寺も荒れ果てたようであるが、1980年頃から、プーミー副首相らの主導により、ラオスの人々の生活に根付いた仏教を保護する方向に転換したことから、仏教施設の再建が行われている。著者は、「ラオス人の、何事にものんびりして他人の生活に無関心な生活態度や、昔からの生活習慣を容易に変えようとしない保守性は、仏教との永く深いかかわりぬきには語れない」としているが、タイやヴェトナム、カンボジアも仏教国であるので、ここではもう少しこの国の地域性が関わっていると見た方が良いだろう。
このプーミー副首相は、パテト・ラオの闘士から最後は大統領代行という要職についた人物であるが、日本軍進駐時は東北部ホアパン県の知事の職にあり、そこで日本軍が中国に向けた補給道路を建設するのに協力し、また日本軍兵士をもてなす宴を開催するなど親日的であったようで、その時の日本軍兵士の回想録や、それを受けて1993年に大使館がプーミー氏と日本軍兵士の再会をお膳立てすると共に、ラオスの寺の修復に充てる義援金を贈った話が紹介されている。そのプーミー氏は、その翌年1994年に逝去したとのことである。
戦後ラオスの政治史が、1992年に逝去したカイソーン大統領の経歴にあわせて簡単に紹介されている。カイソーンは、1975年12月の無血革命で、ラオス人民共和国の初代首相に就任すると共に、一党独裁の政権党であるラオス人民革命党の党議長となり、その後の国家建設を指導してきた人物である。
彼の闘争は、ハノイ大学在学時に強い影響を受けたホー・チ・ミンと連携したものであったが、フランス滞在経験があり、国際世論も味方につけてフランスやアメリカと戦ったホー・チ・ミンとは異なり、あくまで国内での活動でのし上がったことから、国際的には謎に包まれていたという。そしてまずはラオス愛国戦線(パテト・ラオ)という民族主義戦線の中心人物となり、そこから社会主義革命を目的とするラオス人民党を組織して1975年12月の無血革命で政権を奪取するのである。この時国王であったサヴァン・ワッタナ王が退位し、14世紀から続いた王政は廃止されるが、退位した王は大統領の顧問となり、王家の処刑や亡命ということにはならなかったという。
そこに至る過程では、アメリカの支援を受けた右派と中間派とソ連、ヴェトナムの支援を受けた左派の代理戦争があったが、カンボジア程国内情勢が悪化しなかったのは、そこに中国が深く介入することがなかったからではないかと思われる。パテト・ラオのホー・チ・ミンとの強い関係を認識し、あえて中国は、カンボジアでポル・ポトを支援するのと同じような動きは控えたということだろうか。
しかし、その後の、ラオスの土着性にあった社会主義国家を建設する試みは苦難の連続であり、特に最大の援助先であったソ連の崩壊により、1980年代半ば以降には、市場経済を指向する経済開放化政策へ舵を切ることになるのである。
大使館員として日常的に経験した、公用物資引き取りや国内・国外移動を含めたあらゆる手続きでの許可制や非効率性が紹介されている。当然大使館勤務の現地職員は、派遣者の行動監視役であるのは、当時の社会主義国では一般的な状態であろう。
経済開放化政策は、ヴェトナムの「刷新(ドイモイ)」宣言に1カ月先立つ1986年11月の第4回党大会で、西側諸国からの援助を求めて、「新思考(チンタナカン・マイ)」が、また国内的には「新制度(ラボップ・マイ)」と呼ばれる構造改革が決定され開始される。これはこの国の柔軟さを示すと共に、他方で経済規模の小ささから国際的にはあまり注目されることはなかったと思われる。しかし、この結果ラオスでも西側、特に日本、オーストラリア、スウェーデン等の援助が増大したという。1988年4月には、外国からの投資誘致のための外国投資法が制定され、またそれ以降、それまでは党の指令が総てであったその他の法整備が進み、1991年8月の憲法制定でまがりなりの法治国家の体裁が整えられることになる。但しそうした法律の運用・解釈は、この本が書かれた時点ではまだ未熟・恣意的であり、著者も、「外国企業の側からしてみれば、施設が老朽化し、人材のレベルの低い国営企業に投資する意欲はない」し、「新たな企業を起こすにしても、政府が朝令暮改の通達で法律の解釈を変えたり、社会主義制度特有の上納金のような形で利益をもっていかれてはたまらない」として、まだ実際の民間投資を引き出すには時間がかかると見ている。それから16年経った現在、このあたりがどうなっているかは調べてみる価値がありそうである。
中国及びヴェトナムとの関係は、先に「混乱が回避されたのは中国が本格的に介入しなかったからではないか」と書いたが、現在でもなかなか微妙であるようだ。基本的にはヴェトナムとの関係を重視し、中国とは距離を置いている。しかしソ連から供与された戦闘機や戦車などの維持管理は、現在は中国からの軍事援助に頼っているという。そうした中、中国雲南省の経済発展もあり、著者が接している官僚も中国派とヴェトナム派に分かれるようになってきたという。官僚がそうであれば、当然政治家も同様であろう。「近隣国との友好関係を保ちながら、自国の独立性を確保していく」という難しい問題は、この小国の定めではある。
第三章で、改めてこの国の歴史全体が説明されている。簡単に整理しておくと、まず、1353年に現在のルアンプラバンに建国されたランサーン王国がこの地域での初めての国家である。以前読んだ本で言われていたインドシナの「マンダラ型国家」の一つで、このランサーンが、近隣の同様の国家であるランナータイやクメール、タイのスコータイやそれを滅ぼしたアユタヤ、更にはビルマのタウング王朝等との合従連合を繰り広げる。16世紀にビルマの支配下に入った後、18世紀にはアユタヤの影響下、ルアンプラバン王国やヴィエンチャン王国等に分裂、一部は実質的にシャムの属国になっていった。こうしたマンダラ国家間の関係を象徴する逸話として、現在バンコクに安置されているエメラルド仏像(プラ・ケオ)の流転の歴史が紹介されている。この仏像は、その過程で一時期ヴィエンチャンの寺に安置されていた時期もあったとのことである。先般チェンマイで訪れたプラ・カオ寺院も、これが一時期安置されていた場所であったが、この地域には同じような場所がいくつもあるということが分かった次第である。
1893年、既にヴェトナムを植民地化していたフランスが、シャムに圧力をかけ、ラオスの保護権を獲得する。その統治政策は、「愚民政策」と「放置主義」であり、例えば国内の教育制度は整備せず、高等教育はヴェトナムで行わせるといったものである。先にカイソーンがハノイ大学でホー・チ・ミンの影響を受けた、と書いたが、国内では教育の機会がほとんどなかったということであろう。また別のヴェトナム本でも触れられていたが、フランスはラオスで、中部の錫鉱山開発や南部のボベロン高原でのコーヒー・プランテーションに乗り出すが、その経営にはヴェトナム人を採用していった。他方で、低地ラオ族と山岳民族の対立などを利用した分断統治を行っていたという。しかしフランスの課した過度の税金や賦役が住民の生活を圧迫し、自然に反仏蜂起を促していく。中でも南部ボベロン高原で35年間に渡って続いたカー族の反乱は最大のものであったという。
日本のラオス進駐は1945年3月と既に敗戦の色濃い時期であったことから、4月に独立を宣言したペサラート首相は、フランスの再征服に備えた準備を行っている。しかし彼らは、再度進駐してきたフランス軍になすすべなく敗れるが、この決定的な戦闘になったタケクでの戦いは、フランス軍の非道・残虐振りから「ライオス国民怨念の日」とされ、その後の反仏抵抗運動の象徴となったという。
1954年3月のヴェトナム、ディエンビエンフーの戦いでフランスのインドシナ支配は終わり、同年8月のジュネーブ協定でヴェトナムからのフランス軍撤退と併せて、ラオスからのヴェトミン軍とフランス軍の撤退も合意される。この合意の趣旨はラオスの中立化であったが、この協定に入っていないアメリカが、その後右派に対する軍事援助を開始し、それに対抗するソ連・ヴェトナムの左派支援により、ラオスも代理戦争に巻き込まれていく。この状況は、米国ケネディ政権が、改めてラオスの中立化を目指して主導した1962年7月の第二次ジュネーブ協定以降も変わらず、外交上は中立、国内的には右派、中央派、左派の連合政権が存在しても、実際には其々の外国勢力が抜け道を見つけ、其々の勢力を支援するという「陰謀渦巻く」状態が続いたという。例えば、この時期のヴィエンチャンは、「中立派のプーマ政権下で、右派王国軍が公然とアメリカからの援助を受けている中で、左派のパテト・ラオの代表部が存在し、北ヴェトナムも中国も大使館を設置していた」という。アメリカの国際支援オフィースがCIAの秘密活動の本拠だったことも公然の秘密であった。
こうした中、ヴェトナム戦争の激化により、1962年から米軍による北爆が開始されるが、ヴェトナム側のホー・チ・ミン・ルートの北部がラオス領内に集中していたことから、ラオスの非戦闘員の農民などにも爆撃の被害が広がることになる。この爆撃によりラオスで死亡した被害者は国民の11%に及ぶといわれ、人口差はあるが比率ではヴェトナムの10%を上回っているという。他方で左派から構成されたパテト・ラオも、直接爆撃を受けるが、自然の要塞である洞窟や深い森林に潜みながら農村部中心に支持を固め、次第に解放区を広げていく。そしてヴェトナム戦争の終焉から1975年の無血革命に至ることになる。
この無血革命の本質ということで、著者は次の2点を指摘している。一つは、中立派のプーマ首相とパテト・ラオのスパァヌヴォン議長が、双方ともルアンプラバン王国の地を引く王族であり、異母兄弟であったということから、合意形成が容易であったこと。そして二つ目は、当初はパテト・ラオもアメリカ支配からの解放は掲げていたが、王政の廃止と社会主義体制の建設までは展望していなかったが、ヴェトナムとの協力関係やソ連、中国からの資金的援助等も受け、最終的に社会主義革命となったこと。そのため、あえて国王を処刑・追放するということではなく、大統領顧問という名誉職での処遇を行うことになった。この点は、同じ社会主義国でも、ラオスのそれはもともと穏やかな社会主義であったと言える。ただ、既に書いたとおり、著者らのそこでの生活実感は、やはり社会主義国家のそれであり、経済面でも非効率な状態が続いていた。そして無血革命後も、タイ国境を越えた難民キャンプ等を拠点にした右派の反政府ゲリラ活動なども続いたという。
第4章では、この国の経済状況を説明しているが、現状に関わる部分は、その後大きく変化していると思われることから、革命後の動きを中心に、この本が書かれた1995年までの流れを簡単に眺めるに留めておく。
まず1975年の革命後の社会主義計画経済については、そもそも資産家の土地所有等の、貧しい農民への無償分配などの処置がとられたが、そもそも「農業に従事する農民の半分近くが焼畑農業などの非効率な農耕を行っている実情」ではうまくいくはずがなかった。1976−78年にかけての洪水、旱魃もあり、自給自足の目標は危機に直面するが、80年代に入ると、それでも米、イモ類、トウモロコシ等が増産されるようになり、若干安定する。しかしソ連・東欧諸国の援助は多くが有償協力で、国家が独占的に買い付けたコーヒーやタバコ等で返済されたようであるが、1987年以降からソ連の援助が停止されると、結局債務だけが残り、その返済もルーブルの価値が不安定でうまくいかなかったようである。
こうした中で1986年11月、経済開放化政策に舵を切ることになり、経済政策の地方分権化、国営企業の民営化、税制改革、現行制度の改変、外国貿易の自由化が導入される。第二次5カ年計画は、事実上骨抜きになる。
しかし、1995年時点では、この経済開放化政策もまだ効果を発揮していないようである。老朽化して非効率な国営企業を引き受ける資本はなく、人材も不足している。そして成長してきているのは、生産部門ではなく、物流やサービス業が中心で、多くはタイ経由で、シンガポール華僑の資金なども入ってきているとされる。それがラオスでのバーツ流通の拡大となっているという。他方、政府は「外貨の稼げる大規模プロジェクトとしてエネルギー分野の開発、中央集権化のための道路輸送網の整備、通信網の整備」を急いでいる。この時点から16年経った今、それらがどこまで実現されているか検証してみたいものである。道路網については、第二メコン橋を巡る日本も含めた交渉の様子が紹介されているが、最近出版された別の本では、これも2006年に日本の支援で完成した、とされているので、それなりの進展があるようである。売電のためのナヌトゥン・ダム2が、1995年頃から建設開始との計画になっている。その通りであれば既に竣工・稼働している訳であるが、これは現時点ではまだ私は確認できていない。その他経常的な財政赤字、恒常的な貿易赤字、人材養成問題等々が、この時点での問題として取り上げられている。
最後に、著者はこの国を巡る日本人が巻き込まれた事件を3つ紹介している。最初は1961年4月の参議院議員辻政信の失踪事件、そして1977年12月のラオス大使館杉江代理大使夫妻殺害事件、そして1989年3月の三井物産ヴィエンチャン事務所長誘拐事件である。後者二つは、いろいろ解釈もあろうが、基本的には途上国での邦人の安全保障一般の問題と考えられるので、ここでは最初の辻政信参議院議員の失踪事件についてコメントしておこう。これは、別掲の「華僑虐殺」でも触れられていたが、シンガポールでの華僑虐殺の戦犯が、戦後中国経由日本への脱出に成功し、その経験を著書で出版すると共に、その人気で参議院議員となったものの、1961年突然ラオスに現われ、そこで失踪した事件である。
辻は、その日、ラオス僧に変装し、一人の若いラオス僧を伴ってヴィエンチャンを出発、徒歩で国道13号線をルアンプラバンに向かったが、そのまま失踪したという。その行動の真意も分からない中、この事件を巡りいろいろな解釈がなされているし、辻はまだ生きている、と主張した本もあるようである。その中で有力な議論は、辻がホー・チ・ミンとの会見を目論み、その頃成立した米国ケネディ政権との間での和平交渉に一肌脱ぐことで、自分の「アジア五族協和」という理想を実現しようとした、というものである。しかし、陰謀が渦巻く当時のラオスで、そうした単独行動は、余りに無謀であった。エジプトのナセルや中国の周恩来と撮影した写真を携行していたようであるが、恐らくはパテト・ラオのゲリラに拘束され、スパイ容疑で抹殺されたのではないか、というのが著者の推測である。いずれにしろ、戦後の混乱を果敢に生き延びた軍人の哀れな最期であったことは間違いない。
1995年のラオスは、このように、冷戦後の新たな世界秩序の中で、西欧諸国を中心とした援助を頼りに、何とか独立を維持しながら生き延びていこうというインドシナの最貧国の姿を示している。この本が書かれた時点での人口が440万人。現在でも612万人という小国で、国民ものんびりしていることから、国際情勢さえ安定していれば、あえて無理な成長路線を取らなくとも、それなりに生きていける国家なのだろう、という感じがするが、同時に東南アジア全般が成長し、周辺諸国からの物流や情報が氾濫すると、当然そうした地域全体の成長の影響は良くも悪くもこの国におよんでくることは間違いない。最近のこの国の情勢につき、日本外務省のサイトでの解説を見ると、政治面では、2010年に開催された第9回党大会で、軍出身の党創設メンバーが引退し、1975年の革命以来、実務の実績を積んできた文民官僚が党政治局入りするなど、指導層の変化が見られるようである。経済面では、1997年のアジア危機で通貨安とインフレ、近隣地域の経済低迷の影響を受け成長率は低下したものの、その後は年6−7%、2006年には8%台後半と着実に成長を続けている。最新のデータとして2009年の数字を見ると、鉱業や製造業、サービス業等の継続的な成長に支えられ、経済成長率は7.6%、一人当たりGDPは916米ドルを達成。インフレ率は0.03%まで落ちてきたという。投資分野では中国及びヴェトナム企業の進出が顕著であり、前記のとおり、2010年からはラオス証券取引所が開設、2011年から電力会社と金融機関の2社が上場され取引が開始されている。そうした最近のデータを参考に、輸出用の天然資源も産業も限られているこうしたインドシナの小国が、この本が書かれてからの15年でどのように変貌してきたのかを、今後自分自身の目で検証する機会を作っていきたいと思うのである。
読了:2011年11月25日