東南アジア史
著者:レイ・タン・コイ
2012年最初の読書は、ヴェトナム人が書いた東南アジアの通史である。本書の最初の出版は1970年ということなので、それこそまだヴェトナム戦争が泥沼化しており、東南アジアの中では政治的な混乱が支配し、地域を一体として見るような雰囲気はおそらく全くなかった時代である。その時期にこの地域の通史をまとめるというのが野心的な試みであったことは想像にかたくない。それに加え著者がヴェトナム人であるというのも驚きである。著者の略歴は、背表紙に簡単に書かれている程度しか情報がないが、1937年生まれで、1961年に上智大学に留学。その後フランスで古クメール語碑刻文学を研究した後、上智大学に戻り、アンコール遺跡国際調査団団長なども務めたということから、日本とフランスを中心に母国とその周辺地域の歴史研究を行ってきた人物であるようだ。確かにアンコール・トムを訪れた時に、上智大学の遺跡再建活動を紹介したパネルがあったが、まさに著者がこうした活動にも関わってきたであろうことは間違いなく、この大学の関係者に聞けばそれなりに有名な人物なのだろう。本書は、その原典に、2000年と2004年に訳者が若干の増補や修正を加えたものになっている。
この地域の古代から始まる通史であることから、基本的には私が他の地域毎、あるいはテーマ毎の作品で今まで学習してきたことの復習である。且つそれを新書の中でまとめているということから、言わば大きな鳥瞰図を見ることが主題となるので、ここではこの地域の歴史の大きなうねりを整理するに留めておこう。
まず、この地域の人種的、宗教的、言語的多様性と、気候条件や農業社会での女性優先社会、伝統的土着宗教(精霊・祖先・土地崇拝等)、海洋を通じての交流等の共通性から、地域の統合が、「ビネカ・トゥンガル・イカ(多様性の中の統一)」というジャワの宮廷歌人タントゥラルの言葉に象徴されている、という序文から始まる。言うまでもなく、これはインドネシアの国旗にも書かれている表現であるが、そうした多様性と共通性がどのような歴史過程を経て生成されてきたかが、この本での主題である。
古代のジャワ原人からこの地域での新石器時代の文化やタイ、ミャンマー、ヴェトナム北部等での青銅器文化が語られた後、紀元前後の中国漢帝国拡大による海上ルートを通じての中国文化の伝播が行われたことが紹介される。紀元前1世紀の漢代の陶器が、カリマンタン、ジャワ、スマトラ等で発見されているという。更に同じ頃インドからもこの地域への進出が行われ、既に香辛料などの交易と仏教の伝播が行われ、この地域の後の歴史に大きな影響を与えることになる。またインドを通じてローマ社会との交流も既にこの時期に始まっていたという。但し、仏教の伝播は長い時間をかけて徐々に入ってきたようで、「少なくとも上座仏教が入ってくる12世紀までは、支配層のみに定着していたにすぎない」とされている。
こうして2世紀以降は、所謂多くの「マンダラ国家」が地域の覇権を巡り膨張と縮小を繰り返すこの地域の典型的な政治力学が、近代に至るまで続くことになる。その嚆矢が2世紀頃に、扶南(ヴェトナム・カンボジア南部)に成立した港湾都市オケオを首都とする王国で、これは東西貿易の拡大により力を蓄え栄えるが、6世紀頃勃興したクメールに押されて凋落する。ヴェトナム中部ではチャンパーが、現在のフエ中心に勢力を拡大し、中国からの中継貿易で栄えることになる。また同じ頃、マレー半島の付け根にあるチャイヤー近辺やジャワ、スラウェシ、スマトラ島のパレンバン等でもそれなりの勢力が存在したことが古代の文献や出土物から確認されている。
7−8世紀になると、中国の唐朝の安定とバクダットのアッバース朝の建国で、この両国間の交易が活発になり、その中継港としてマレー半島の諸都市が勃興する。この中で特筆すべきは、パレンバンを中心に栄えたシュリーヴィジャヤ港市国家で、大乗仏教を信奉し、一時マレー半島やジャワにも勢力を拡大したという。またそのジャワでは、シヴァ信仰を掲げたマラタム王国が、仏教を信奉したシャイレーンドラ王朝に押されジャワ東部に逃げ込むことになる。後者は8世紀後半から9世紀にかけてボロブドゥールを建設したことで知られているが、9世紀半ばに再びマラタム王国に追われて姿を消し、この王国が10世紀初頭にジョグジャカルタにヒンドゥー様式のプランバナン遺跡群を建設することになる。このあたりはこの地域の旅行で体験した歴史の復習である。また10−11世紀にかけては、中国名三仏斉という国が現われ、マラッカとスンダ海峡及びマレー半島を支配下に置き海上貿易を独占したことがペルシャの古文書に記されているという。
マラッカ地域では、13世紀以降、主としてインド人イスラム教徒の商人を介してイスラム教が浸透していく。この地域には、1292年にマルコ・ポーロも立ち寄っている。本格的なイスラムの受容は、14世紀末この地域で勢力を拡大したムラカ王国からであるが、この王国は鄭和の征西に後押しされながら急速に発展する。しかしイスラムの伝播ということでは大陸部は上座仏教の力が強く、むしろ島嶼部に広がっていくことになる。しかし、そこでのイスラムは「以前から存在する信仰を壊した訳ではなく、アミニズム・仏教・ヒンドゥー教などの形式や祭礼を受けとめながら、それを大いに包んでいった」というのは、この地域の宗教的大らかさの歴史を物語っていると言えよう。
15世紀以降、この地域への西欧の進出が始まる。ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスと続くが、「重商主義のヨーロッパには、19・20の両世紀のヨーロッパとは違い、アジアの商品に対して競争力を持つ商品がなく、(中略)ヨーロッパは買い付けに来航し、高価な香辛料を入手するのに金や銀を持ち出さなければならなかった。」という点は、この時代の富の分布を物語る面白い指摘である。また西欧列強は当初は「領土獲得は第二に考え、いくつかの戦略拠点を確保して交易にとって有利な制海権を握ることを第一とした」という。しかし、カトリック布教のためポルトガルとスペインが「刀と砲火を用いてイスラム教徒に戦いを挑んだ」ことで、この地域が次第に騒乱に包まれていくことになる。ムラカの陥落はそれを象徴する事件であるが、これらを受け、交易の中心はスマトラ北岸(バンテン国や都市国家スラバヤ)や西ジャワ(マラタム王国)に移り、その中でも特にマラタム王国が支配地域を広げていく。しかし、1596年オランダがこの地域へ進出。ポルトガル艦隊にバンテン沖で勝利し、この地域での制海権を握る。そしてオランダ東インド会社の圧力を受けこの王国も16世紀には崩壊することになる。また1597年ドレイクの来訪で英国もこの地域への進出を開始する。
大陸の肥沃なデルタ地帯の攻防は「南進する屈強な民族の絶え間ない移動によって特徴づけられる。」既に述べた6世紀のクメールの勃興に続き、8世紀にはタイが、9世紀にはミャンマーが、10世紀にはヴェトナムが中国の支配から脱し、それぞれ南下を始める。タイの南下の過程では、彼らの親戚筋のラオ人及びシャン人が山岳地帯に残り、「後背地に小国を建国する。」クメールは、アンコールを建設した12世紀に最盛期を迎えるが、1431年頃タイの攻撃でアンコールが陥落してからは、タイ及びヴェトナムの双方からの圧力を受けて徐々に衰退する。その要因の一つとして、著者は大陸部における大乗仏教の浸透により、従来のヒンドゥーの権威に依拠したアンコール朝の正統性が弱まったことを挙げているが、これはこの地域での宗教のダイナミズムを物語っていて興味深い。
ヴェトナムでは、938年に呉権が南漢軍を破り中国の支配から脱し、ハノイを都とする李朝が成立し、13世紀初めに陳朝に取って代わられるまで安定政権が続く。陳朝では儒教官僚による伝統体制が更に強化されると共に、経済や文化(自国語チュノム文学)が発展、また軍隊も強化され、13世紀の元寇を撃退(白藤(バクダン)江の戦い)することになる。そしてその後王朝は変遷するが、1471年、中部のチャンバー王国を征服。また南のメコンデルタに入植したヴェトナム人は、17世紀に、従来はカンボジアが支配していたサイゴン等を略取していく。そして19世紀初頭、フランス人志願兵の支援も受けた阮朝によりヴェトナム全域が統一されることになる。この嘉隆(ザーロン)帝が、「中国の国境からタイ湾までの現在のヴェトナム国を分割することなく統治した最初の王である。」しかし19世紀になるとこの阮朝は権力内部の腐敗に自然災害も加わり不安定化し、フランスの攻略の前に内部から瓦解することになる。
ミャンマーでは、先住民のピュー人が7世紀にピエー中心に「タイェーキッターヤー」と呼ばれる都市国家が建設していたことが仏典から確認されているという。しかしこの王国は、北部に勃興した南詔国によって蹂躙され、多くの住民が昆明に連れ去られたことから、この空洞をモン族やミャンマー族が埋めることになる。
この地域で初めての大きな勢力は、11世紀半ばのアノーヤター王の登場で、町の起源は2世紀まで遡れるというバガンが、現在のミャンマーにあたる地域の中心地として栄えることになる。王は大乗仏教に改宗し、また文化的にはミャンマー族よりも優れていたモン族を征服し都に連行することで、文芸・美術・書法などが花開いたという。仏教文化は、まさにこのミャンマーを基点にタイ、カンボジア、ラオスに伝わり、大陸部をイスラムの影響から守ることになるのである。
しかしそのバガン朝は、13世紀末に元の圧力で崩壊。その後は北部の上ビルマ、東南のタウングー、南部の下ビルマに分割され、3世紀にわたり小国が相争う時代になる。16世紀になり、ようやくタウングー朝の下で再統一がなされ、バゴーが首都になる。その王朝のバインナウン王は、マダマ(マルタバン)に商館を設置しこの地域に進出していたポルトガルの傭兵の支援も得てタイを侵略、支配地域を拡大するが、今度は内政面で混乱し、モン族の反乱が発生。それを抑えるため「中世的な孤立政策」に戻ったり、再度拡張政策に転ずるなどその政策は一転二転することになる。しかしこうした政治的な混乱にも関わらず、ミャンマーの自然の富はインド、中国、アラビア、ヨーロッパの商人をひきつけ、18世紀末に設立されたヤンゴンがこうした交易の新たな拠点として発展していくことになる。
タイの古代から現代までの歴史は、別の新書で既に相当細かく見ているので、ここでは簡単に見るだけにする。「タイ(シャム)人は、歴史上には比較的遅れて登場してくる。」北部のラーンナータイ、中部のスコータイ、メコン中流域のラーンサーン王国、上ミャンマーのシャン人の国々、チャオプラヤー下流域のアユタヤ等が13−14世紀にかけて広義のタイ系民族国家として成立する。そしてこの中から、河港から直接海に出る交通の要地と中部の肥沃な平野を有していたアユタヤが拡大していくが、16世紀中葉にミャンマーの侵略で崩壊。その後、18世紀までミャンマーによる侵略とそれからの解放を繰り返しながら、18世紀末にラーマ一世の下でバンコクに遷都、その後西欧列強の植民地化を免れ現代に至るのである。一方ラーンサーン王国はメコン川中流の高原地帯で自然障壁に守られ存続するが、17世紀には国土が3つの勢力に分断され、それを理由にしたタイやヴェトナムの侵略を受けることになる。そして近代に至るまでラオスはヴェトナムの支配下に入ることになる。
次の「旧体制の凋落」と題された第7章は、近代のこの地域への西欧列強の進出と植民地化が主題である。ここで旧体制と言う時に示唆されているのは、まず農業生産力に依拠した世界であり、「マンダラ国家」が隣国との戦争に明け暮れたのも、表向きの理由は何であれ、農業用地開拓の労働力を確保することが最大の理由であったとする。そして15世紀以降は、これに交易の拡大による経済基盤の拡充が加わる。しかし、こうして「通商から得られた財貨は、資本の蓄積にはほとんどといっていいくらい使われず、貴族たちの驕った欲求の従属、豪華な日常生活、もしくは王宮および伽藍の建設に当てられていた」ことが、交易を王や貴族が独占していたこととも相まって、この地域でのブルジョアジーの形成を妨げることになった。それは、産業革命を終えた西欧列強の前に屈服する主因になると共に、それからの解放後の政治・経済構造にも大きな影響を及ぼしたと考えられる。18−19世紀の列強によるこの地域の分割の過程が説明されるが、それは既に色々な本で見てきたところである。そして著者は続けて第8章「民族の再生と抵抗」で、19世紀末からの独立運動、そして大恐慌から太平洋戦争と日本の進駐とその時期の抵抗運動を、第9章で「独立と新国家の建設」で太平洋戦争後の独立とその後の経緯を各国ごとに簡単にまとめているが、これも多くの個別国については既に別の本で見てきたところである。
しかし、ここでは、唯一今までその歴史に関わる本を読んだことのないミャンマーの近現代史だけ簡単にまとめておこう。18世紀末のミャンマーの内紛を理由に、英国は主として既に植民地化していたインドの東北辺境に対する安全保障上の観点からビルマをターゲットに定め、1852年第二次緬瑛戦争で下ミャンマー地域を併合、コンバウン王朝から海洋の出口を奪うことになる。そして1886年に最終的に上ミャンマーも併合し、ミャンマー全土がインド植民地政庁の一州となり、1897年までにインド政庁の直接統治が確立することになる。
その後、第一次大戦後にヤンゴンの仏教徒教会総評議会による参政権要求等の運動を受けて、一部ミャンマー人閣僚の任命などが行われたが、最終的な独立は日本からの解放以降となる。1948年1月の、ミャンマーの英国からの独立を指導したのが抗日組織反ファシスト人民自由連盟(略称パラパラ)総裁のアウン・サンである。しかし、このパラパラに結集した組織が、独立後夫々勝手な行動を始め、アウン・サン自身も暗殺されてしまったことが、この国のその後の困難を象徴する。共産主義者と社会主義者らの抗争に、宗教を異にする民族間の抗争が加わる。この混乱を抑えるため1962年3月、ネー・ウィン将軍がクーデターで軍事政権を樹立し、この軍事政権が1988年の民主化運動まで続く。民主化運動の高まりの中で総選挙が実施されるが、アウン・サン・スウ・チー率いる国民民主同盟(NLD)が議席の9割を確保したことで、再び権力を掌握した国軍が権力支配を強化しスウ・チーを軟禁、軍事政権を維持し続けることになる。その後欧米中心に経済制裁を受けるものの、徐々に開放政策を進め、1997年7月にASEAN加盟。そして昨今のもう一段階の民主化と欧米への接近策への転換を行うというのが、私自身も来週初めて訪れる予定のこの国の近現代史である。
こうして東南アジアの通史を概観してきて、大きな流れとして抑えておくべきは以下の二つの点であろう。
まず、この地域における国家形成は大陸部とマレー半島からインドネシアに至る島嶼部でやや異なった形で行われたという点。大陸部は、まさにいくつかの「マンダラ国家」が、農業生産力に依存した地域的な覇権を争い攻防を繰り広げたのに対し、島嶼部ではむしろ港湾都市国家が海洋貿易を支えに小規模な覇権争いを行っていた。その結果、大陸部では、現在の領邦国家の基盤が早くから出来ていたのに対し、島嶼部に領邦国家的な枠組みができるのは、オランダや英国による植民地支配が確立してからであったと思われる点である。これはマレーシアやインドネシアの国家意識を見る際に重要であると思われる。
二つ目の点は、双方の地域における宗教分布である。大陸部は早くから成立した領邦国家が中世以降仏教の影響を受け、以前からあったヒンドゥーやイスラムの影響を駆逐して行ったのに対し、島嶼部では、海上交易でのインドやアラブ商人の存在感が強かったこともあり中世以降イスラムの影響が強まり、仏教の影響力が大陸部ほど浸透しなかったという点である。これは、何故マレーシアやインドネシアでイスラムが支配的宗教になったのかという、私がこちらで生活を始めてから常に持っていた疑問に一応の回答を与えてくれたように思われる。
1970年の出版ということで、最新の情報は盛られていないが、この時期に、既にこうした東南アジアの鳥瞰図を、それなりに客観的な視点で描いたという点で、この著者の知識と歴史的視点に敬意を表したい。
読了:2012年1月6日