アーロン収容所
著者:会田 雄次
1962年出版の歴史学者による、第二次大戦終了時の自らの捕虜抑留体験記(終戦直後から1947年5月までの1年9カ月)である。シンガポールに来てから、日本ではあまり見かけたことのないこの新書が、こちらの日本書店の棚に並べられていたことから、アジアに関連する本であることは予想できたが、今更日本残留兵の収容所体験でもないだろうということで、ただでさえ高い値段を出して買う気にはならなかった。ところが、昨年末帰国した際に、ブックオフのバーゲンでこの新書を見つけることになった。350円という価格であれば買っておいても良いだろうということでまずは入手することになった。その上で内容を見てみると、「アーロン」というのはラングーン(ヤンゴン)近郊であることが分かった。それでは旧正月のミャンマー行きに向けて、ということで読み始め、ミャンマー旅行の最後、ヤンゴン空港でシンガポールへの帰国便を待っているゲートで読了することになった。
著者は戦後京大で世界史、特にルネサンス期の研究を始め、その後日本人論の嚆矢となった「日本人の意識構造」で著名になった学者で、1997年に逝去している。「日本人の意識構造」は、学生の必読書になっていた記憶もあるので、私も手に取ったことくらいはあるのかもしれないが、学生時代、一般的な「日本人論」等に余り興味を喚起されなかったこともあり、内容は全く記憶に残っていない。あとは時折中道乃至は右寄りの評論雑誌等に度々登場していたと思うが、それらを意識的に読むこともなかった。その意味で、私にとっては彼は旧世代の学者という位置付けであり、アジア関連ということでもなければ、この新書も手に取ることはなかったであろう。しかし、それが偶々ミャンマー旅行を計画していた直前の日本で、安売りで手に入るのだから、ある種の奇縁ではある。
さて、「アジア」での収容所体験ということであるが、内容的には、著者がそれまで勉強してきた、そして抑留が終わり日本に帰ってからも彼が研究を続けた欧州ヒューマニズムについての考察が副題である。私自身もそうであるが、物心ついた時から欧米文化に憧れ成長してきた日本人が、実際の欧米人との接触を通じて、その実態を知ることである種の幻滅感を抱くことがある。著者は、それをまさに戦後の英国収容所で体験し、それを自らの欧州研究の原点として記録したのがこの作品である。その意味では、この本を「アジア読書日記」に掲載するのはやや疑念もあるが、舞台がミャンマーであり、そこでの「ビルマ人」との交流にもしかるべきページが割かれているので、ここではそうしたアジアとの交流に関連した部分を中心に見ておこう。
「捕虜となるまで」ということで、マンダレー南方イラワジ河会戦、トングーの戦い等を経て、終戦までにビルマ南東部に追い詰められ、シッタン河の河口で英軍に最後の抵抗をしていた様子が語られている(因みに、この本では「ビルマ」や「ラングーン」等、植民地時代の旧名称が使われているので、ここでもそれに従うことにする)。今回の旅行で飛行場に立ち寄っただけであったが、この国の京都といわれるマンダレーが爆弾による破壊で「文字通り壊滅し、見わたすかぎり瓦礫の原野と化していた」と語られている。
終戦となり、英軍に投降、収容所に向かう。ここでビルマ人の対応が初めてコメントされている。もう通用しない日本軍の軍票を持ってきて、「日本では使えるのだろうから、何か売ってくれ」というのが、ビルマ人の日本軍捕虜に対する言い分だったという。
厳しい捕虜生活の詳細や、それを生き延びるための色々な知恵や英国軍側との攻防が描写されるが、これはあまりここに書くまでもない。いずれにしろ、東南アジアで日本軍捕虜収容所の担当になる英国人等は教養も品格もない連中ばかりであったようで、西欧史を勉強してきた著者は、これがあの英国人か、と幻滅することになる。しかし、それは人間が自分の接触した範囲の人間という限られたサンプルで、その人間を含む母集団を一般化することになるという、よくある傾向を示しているに過ぎない。
ビルマ人の盗みの話が挿入されている。著者が目撃したのは、港で陸揚げされた支援物資の組織的な盗難現場で、それを目撃したことで、その窃盗団から口止めのために脅されたようである。しかしビルマ人は「住民の三分の一が坊主で、三分の一がパンパンで、三分の一は泥棒だ」というのは、この時代は別にこの国に限ったことものではないであろう。実際、著者は「タイよりはまし」という話も聞いていたという。そして「日本軍捕虜、ビルマ人、インド人苦力、荷造り修繕の大工などとして来ているシナ人、それを警戒するインド兵、糧食や衣服を受領に来るインド人の自動車運転手や係の兵隊―これらすべてみな隙あれば物をとろうとしている泥棒たちであった」というのは、まさに全ての人々が生き延びることに必死であったこの時代の一般的な断片であろう。
「捕虜の見た英軍」という章は、この本の主題である「英国人のヒューマニズムなるものがいかにいい加減なものか」を綴った部分であるが、ここで面白かったのはむしろインド兵が全般的に日本軍捕虜に対し好意的で、また時として日本人が無から有を生み出す能力を持っていることに畏敬の念を抱くことさえもあったようだ、といった感想である。インド人はビルマ人からは徹底的に嫌われていた、というのも、英国人支配者に使われるインド人中間管理職の歪んだ意識を示している。この構造は、現代のシンガポールにも残る旧英連邦の中でのインド人を巡る一般的な人種意識と言える。
「日本軍捕虜とビルマ人」で、ビルマ人との関係が回想されている。まず触れられているのは、敗残日本兵に最後まで仕えるくれたビルマ人兵補の話しである。敗戦時にこのビルマ人と最後の別れを交わした時、彼の仏教的な「諸行無常と諦観」に感激したことが記されている。そして彼に限らずビルマ人の日本人を見る目が、戦中は強者への憧れとして、そして戦後は自分たちと同じ苦しみを持つ者としての共感と同情と、どちらにしても共感に満ちた視線であったことを著者は感じている。彼はそれを、「ビルマの地にいわゆる小乗仏教に精神が生きており」、「ビルマの仏教は、ただこの国が僧侶の天下であり僧侶もまた真面目であるだけでなく、その精神が一般に人々のなかにこのように生きていること」によるのではないかと考えている。
その後も著者はビルマ人の好意をいろいろなところで感じたとしていくつか例を挙げ、それがこの精神と関係があるとしている。笑ってしまうのは、ビルマ人の小さな女の子との交流の話で、女の子が「花飾りを頭にさして、額にビルマ特有の黄色い白粉みたいなものをつけていた」というくだり。タナカ(別名「オレンジ・ジャスミン」)の樹枝を擦り合わせてつくるこの国独特の化粧品であり、今回の旅行ではガイドさんを含め若い女性やほとんどの子供がこれを顔に塗っているのを目にしたが、これは終戦直後の混乱期も変わることのない、この国の風俗であることが分かった。また見ず知らずのビルマ人の自宅の船で、「カレーか、唐辛子のすごく効いたゴッタ煮を飯にかける」食事を御馳走になった話しなども出てくるが、ある兵隊はこれを食べたところ「身体中から汗がふき出てきて脳貧血をおこし、倒れてしまったものもいた」という。今回の旅行では、観光客向けの食事がほとんどであったので、あまり辛いメニューはなかったが、確かにガイドさんによると、一般に人々は自宅では辛いのみならず油をふんだんに使った食事をしているということである。また「マンダレーの椰子酒」も登場するが、これもガイドさんが説明してくれたが、今回は体験できなかったメニューである。
著者は最後に、日本の軍隊集団では、戦場と収容所では異なった指導力が必要とされ、そこで力量を発揮できる人材が異なったという例を幾つか説明し、「異なった歴史的条件が異なった才能を要求し、その型の人物で、傑出し、しかも運命にめぐまれた人物だけが活躍した」という、やや失礼だがありふれた歴史哲学を披露している。もちろん、戦闘や収容所と言う極限体験の重さについては大きな敬意を払うとしても。
こうして1947年5月、著者は帰還の途に就く。甲板の上で「さらばラングーンよ、また来るまでは」と小声で合唱しながら。その後著者がこの地に戻る機会があったかどうかは分からない。
能天気な旅行に同伴するにはあまり明るい本ではなかったが、それでも太平洋戦争から約70年が過ぎ、この戦争の体験者も、著者を含め多くは既に鬼籍に入っている。戦争自体が過去の映画の世界だけになっていく中、この本の世界も、今や何か作り物の遠い世界のように感じられる。しかし、日本軍が70年前にこの国を占領し、シンガポールのように華人の虐殺のようなことは行わなかったにしろ、強制調達等でこの国の人々を苦しめたことは確かであろう。それにも関わらず、この本で描かれているビルマ人は、もちろん窃盗や死体からの金歯抜き等、生きるためには何でもやるとは言え、親日的で、また仏教の影響からか温和である。軍事独裁政権から民主化への道のりの希望が見えてきている現在、こうした戦後の原点で観察されたこの国の庶民が、何とかこれからこの国の安定と成長を享受していくことを祈らざるを得ない。
読了:2012年1月23日