バナナと日本人
著者:鶴見 良行
3月の一時帰国時に書店で目にして購入、イースターの連休をバンコクで過ごした後の帰国便の中で読了した。著者の名前は、私が若い頃、従兄である鶴見俊輔や従姉である鶴見和子と共に時折耳にしてはいたが、この著者の作品に触れる機会はないままであった。今回、1982年の出版のこの新書を手にして、実は彼は東南アジアの専門家で、この作品以外にも、多数の東南アジアに関する著作を残していることが初めて分かったくらいである(因みに、著者の父親は外交官で、シンガポールの総領事も勤めたことがあるという)。著者は既に1994年に68歳で亡くなっているが、この新書はその後も再販を重ね、私が購入したのは2012年1月出版の55版であるので、新書としてはそれなりに名著として扱われているようである。実際、サイトでこの著者とその作品の書評の幾つかに接してみると、米国生まれの著者が、従兄らの影響でヴェトナム戦争に関わったことを契機にアジア研究の道に進んでいったことが分かる。そして特に旺盛なアジアでのフィールド・ワークを行いながら、一般の日本人の日常生活の中から抽出したテーマを基に、大きな社会的・歴史的鳥瞰図を描いていくという著者の手法は当時画期的であり、それが最も典型的に示されたのがこの作品であると紹介されている。そうした先入観にとらわれる必要はないが、一応それも念頭に置きながら、この「名著」を見ていくことにする。
この作品の舞台はフィリピンである。著者はこの国の近代史を振り返りながら、そこでバナナ栽培のための農園が広がり、それが米国大資本の傘下に組み込まれ、この国の最下層労働者のみならず、民族資本さえも、そうした外国資本の思うままに動かされていった様子を、現場での多くの取材と共に報告している。言わば、バナナの社会史という観点から、戦後の東南アジアにおける米国資本の産業支配構造の一端を分析したものであると言えるが、著者は、それが戦後のバナナの対日輸出解禁が一つのきっかけとなったとして、日本がこの国の経済的収奪に間接的に関わっていたと主張するのである。
まず指摘されるのは、そもそも東南アジアが原産であるバナナは、アメリカ人により中南米に移植され、そこで顧客の嗜好に合せて改良されたという点である。その改良された品種が、戦後の日本でのバナナ需要の急速な高まりと共に、気候・風土・土壌の合ったフィリピンに改めて移植され、そこで米国資本の参入により大規模農園の形で生産が拡大されたのである。面白いのは、この改良され、原産のバナナと異なったカベンディッシュという品種のバナナは、そのフィリピンでは好まれず、地元では消費されない、日本向け輸出のためだけの品種であったということである。この歴史の中に、この産業のフィリピンにおける拡大の皮肉な背景が端的に示されている。
それでは、何故これがフィリピンで起こったのか?そしてその産業の支配構造は、どうであったのか?
まず、フィリピンが1898年から1946年まで米国の植民地で、独立後も米国との「特殊な関係」が続いていたことが挙げられる。そしてバナナ農園が広がったのはミンダナオ島であるが、そこは歴史的にムスリムの支配地域で、その分中央の支配力の弱い「未開の土地」であり、また戦後も占領軍司令官であるマッカーサーが地元の地主層と結託して土地・農地改革を行わなかったため土地の入手が容易であったことが指摘されている。そして最も重要なのは、この土地がバナナの栽培に適していたからであるという。
この最後の点は、それ以前の日本からの開拓農民の移民の歴史と重なる。即ち、元々は米国植民地下で米軍除隊者などが細々と入植し麻やコーヒー農園を開拓していた、自然条件も現地人との関係も厳しいミンダナオはダバオと言う町の周辺に、19世紀末からそうした労働条件に耐えられる日本からの下層農民が新天地を求めて入植する。そして彼らは、ここで幾多の困難を乗り越えて、軍艦のロープや和紙、小間物に使用されるアバカ麻の農園を開拓し、動力装置開発等の生産性向上や第一次大戦時のアバカ麻市況の高騰により発展、一時期は日本人の自治まで実現するほどの勢力になったという。1930年代には、このある意味満州を想起させるような日本人の勢力拡大を危惧した米国植民地政庁が、日本人の土地使用等を制限しようといった動きもあったが、それは現地人のための議論ではなかったこともあり、結局実効性がなく、この時期を通じて日本人の土地利用面積は増加し続けたという。最終的には、第二次大戦の終了により、こうした日本人経営の農園は全て接収され、日本人は強制送還されるが、日本人が開拓したアバカ麻農場が、米国人が支配していた牧場とパイナップル園等と共に、戦後のバナナ農場の経営モデルとなっていく。またこうしたアバカ麻農場で一般的であったパキオア制度(地主の下に管理人、監督の中間職制があり、底辺の労働現場では、親方や請負人が、出来高払いの請負制度で労働者を働かせる体制)が、戦後のバナナ農場でも引き継がれていくことになる。更に、日本人の農場の拡大を防ぐために、それを囲むように国有の流刑地を作ったが、それらがまさに戦後米国資本が進出する基盤になったという。
戦後、日本人の追放により麻農園が荒れ果てた後に、最初の輸出専用作物として米系資本によるバナナ農園が広がったのは、麻農園だった場所ではなく、流刑地として囲い込んだ地域であったという。それは、日本人の麻農園が細分化されており、地主や農家から広い土地を借り集めるのに手間がかかったことと、土壌が麻栽培で疲弊していたことが原因であったという。そして、日本市場でのバナナ輸入の自由化を展望して、1958年から本格的なバナナ生産が開始されるが、まずその開発を主導したのは、既に中南米のホンジュラス、パナマ、エクアドル等で米国向けバナナ生産・流通で成功していたユナイテッド・ブランズ社とドール社であった。それにデルモンテ社と日本の住友商事が参入し、60年代の末には、この4社が実質的に自営の農園を持つと共に、他方で川下では日本の輸入・販売業者を確保し日本向けの輸出バナナの生産・流通の太宗を寡占化することになる。彼らはフィリピン政府による外国資本の大土地利用を制限する法制の網を、フィリピン中央権力とのパイプや地場大地主を抱込む等して、巧みに掻い潜りながら、実質的に広大なバナナ農場を支配する。ユナイテッド・ブランズ社によるタデコ流刑地での受刑者という安価な労働力を使ったバナナ農園等は、その最も極端な外資による搾取の事例と言えるだろう。またその他の外資も地場農園との契約という形で支配農園を広げ、彼らとの契約を有利に結ぶことによって、利益を極大化していく。またドール社や住友商事は地場財閥と組み、基盤を拡大したという。その間、フィリピン政府側は、この産業育成や外資による土地取得等について必ずしも積極的な規制・管理を行うことがなく、統一的な政策が実行されたのは、マルコスによる戒厳令発布(1972年9月)後の1973年2月になってからであるが、その頃には日本でのバナナ需要は既に飽和点に達していたということである。
こうした外資によるバナナ農園の寡占の陰で、現地で実際の労働に従事する契約農家の実情はどうであったのか?前記のタデコ流刑地での受刑者による労働という特殊例を除くと、多くのバナナ農園は、外資の参加に組み入れられた地主を経由してバナナ栽培を委託された契約農家により運営されたが、彼らは厳しい契約条件により、徹底的に搾取されることになったという。
著者は、ドール社による契約農家の囲い込みを報告しているが、これは、従来はコメ、トウモロコシ、ココナツなど、自らも食べられる作物を栽培していた小規模農家を、バナナ生産に切り替えさせるために、まずは目先魅力的な条件を提示すると共に、農家が完全に理解できない英文契約書で、市況が活況を呈している時に10年の長期固定価格での買い上げといった外資に有利な条件を呑ませたという。バナナ栽培への切り替えのための初期投資は外資から借りられたが、これはその後農家の債務負担となって彼らを苦しめることになる。そして農家側の不満が噴出する時には、支配者側が有する戒厳令下での様々な暴力装置が登場したという。農家でさえそうした状態に追い込まれていたことから、土地も保有しない農園労働者の賃金は更に抑えられる。そしてその結果、「植民地主義が浸透して輸出産業が発達した土地では、貧富の差がもっとも激しくなっていった」のである。更に外資の本国では使用が禁止されているような農薬の大量散布により、自然と労働者の健康の双方が損なわれていったことも報告されている。
最後に著者は、こうした外資と住友商事による、フィリピン・バナナの日本側の流通ルートの取材も行っている。日本でのバナナ輸入解禁と共に、フィリピンからの各輸出会社が、60年台末から70年代初頭にかけて日本側で夫々の流通ルートも抑えたことは前述したが、日本側は折からのバナナ消費ブームから、これまた強気な条件を呑み、市況下落リスクを負うことになる。しかし70年代半ば以降、バナナ消費がピークを越え、果物としてはメロンや苺にその地位を奪われていくにつれ、薄利多売というコンセプトは機能できず、契約のキャンセルなどが多発し、日本側の受け入れ態勢の合理化(輸入問屋集団の解散や共同むろの設置等)も進むことになる。しかし、そうした状況下でも、特に米系3社による日本でのバナナ取り扱いシェアは、この本が書かれた時点では上昇していたという。生産側を押さえた彼らが、日本での価格支配力も確保することになり、その結果、「バナナが商品化され市場に流れて来る過程で生まれる利益は、このようにして本来的にはフィリピンの生産とも日本の消費ともかかわりのない外部の多国籍企業の手に入るようになっている」のである。
こうしてフィリピンにおけるバナナ栽培とその日本への輸出という過程を見ることによって、著者は、実は「実際にバナナを作っているフィリピンの労働者と、これを食べている日本の消費者が分断されている」とする。しかし、それは他方で、消費者としての日本の市民が「食物を作っている人々の苦しみに対して多少とも思いをはせる」ことを可能にするのではないか、と考える。言わば、当時まだ高度成長が続いていた日本人の生活が、フィリピンの農民や農園労働者の厳しい搾取の上に築かれていることにつき想像力を喚起し、それによってその地域の人々の生活向上に向けた何らかの支援を行う契機となることを期待しているといえるのである。
この作品は、日本人の日常生活の一断片から、その背後に広がるフィリピンでの農園経営の歴史と現状を浮かび上がらせたということで、「新書の古典」としての地位を持つことになったと思われる。しかし、他方で、この作品が書かれてから30年経った現在、フィリピンを含めて東南アジア諸国の経済状況は大きく異なってきている。ここで書かれているような外資系企業のアジアの農村支配やそこでの農民・農村労働者の労働条件もそれなりに形を変えていることは容易に想像される。
同時に、バナナに関わらず、アジアでの農産品製造・販売に関しては、例えばパーム油会社のように、我々が日常的に接している東南アジアの企業が支配力を握っている分野も多くなってきている。こうした産業での経営者―労働者関係や、彼らの輸出・流通戦略等は、言わばこの本で報告されている例との比較で検討することも出来そうである。その意味で、この「古典」で報告されている事実自体は古くなっているのであろうが、そこでの視点とフィールド調査を含めたアプローチ・分析手法は、依然我々がこの地域の同種の産業を見る上で役に立つことも間違いないと思われる。その意味で、この作品は、そこに書かれているフィリピンにおけるバナナの生産・流通という事実を学ぶのではなく、現在の様々な事実を見ていく時の手法を学ぶような作品と言えるのである。
読了:2012年4月8日