アジア・ドイツ読書日誌と
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アジア読書日記
その他アセアン
新しいASEAN
編著:山影 進 
 2011年12月刊行の新書である。ここのところ、アジア関係の概説書でアセアン関係の説明も幾つか目にしてきたが、これはその中では最も最近の著述である。その意味で、以前に読んだ説明でも、一部説明が陳腐化している部分もあったので、この最新の作品で改めてアセアンの現在を見直しておこうということで取り上げた。

 編者によると、この本は、2008年から2010年にかけて日本国際問題研究所が企画・実施した共同研究(通称「ASEAN研究会」)の成果を、一般向けに補足・編集したとのことである。研究の報告自体は「アジア経済研究所」のレポートになっているようであるが、やや専門的な研究であるせいか、以前に読んだ概説書がそれなりに全体観をつかみ易いのに対し、この新書は説明がやや分かり難い。特に、ほとんどの文中で頻繁に使われている関連条約等のアルファベットの略称が、専門家にとっては常識なのだろうが、一般読者の場合は一々確認を行わないと全く文意が不明になってしまうという問題がある。ここではそれも整理しながら、以前に読んだアセアンの概況をアップデートすることに注力してみたい。

 まずアセアンの発展段階が4つの時期に分けられ説明されているので、それを復習しておこう。

@発足から最初の首脳会議開催まで(1967年―1976年):「同床異夢」ではあったが、「相互不信を払拭して善隣友好関係を確立したい」という意思の体現。1976年の首脳会議での「東南アジア友好協力条約」締結と外相会議、経済大臣会議、アセアン事務局の設置。この体制が基本的に2008年の「アセアン憲章」発効に伴う組織再編まで持続。

A第4回シンガポールでの首脳会議(1992年)まで:国際社会で注目され始めるが、他方で冷戦終了まで続いた沈滞期。欧米日との協議の制度化と輸出指向工業化による経済成長を実現した反面で、インドシナ半島の政治的混乱と域内経済協力の停滞。

B第9回首脳会議(2003年)まで:冷戦終結によるアセアンの国際社会への適応。深化と拡大(インドシナ三国とミャンマーの加盟)という「自己変革」と、経済と安全保障での「アセアン自体を含む広域制度内でのサブシステム化(APECやASEM等)」の進捗。アジア金融危機を経た「自己変革」。

C現在まで:2003年の「ASEAN第二協和宣言」での共同体創設(政治安全保障・経済・社会文化の三本柱)という将来目標を勘案すると2015年までがひとつの区切り。2008年12月発効の「アセアン憲章」が、この時期のもうひとつの大きな里程標。

 以上の歴史を確認したうえで、現在のアセアンの特徴として、筆者は「第三期に広域制度構築に積極的な姿勢を見せるようになった」アセアンが、第四期に入って、中国、日本、韓国、オーストラリア、インドなどと相次いでFTA的な条約を締結したり、東アジア共同体構想(東アジア首脳会議―EAS)の中核を担うなど、更にその方向を強めることになったという。他方で、こうした広域制度の中で以前に増して「アセアンの中心性」が強調されるようになっていることは、こうした制度の中で「中国はもちろんアメリカやロシアが関与する中で、ASEANの主導権が奪われかねないという危機感の裏返しである」と見ている。またアセアン諸国は「伝統的にASEANとしてまとまったうえで、域外諸国(とくに大国)と有利な立場から交渉・協議をするのが常であった」が、他方で二国間FTA締結に積極的なシンガポールやタイのように「ASEANを経由しないで域外諸国と直接関係を強化する」動きも出てきている。またインドネシアの指導者の間では、「ASEANを代表する地域大国から脱却してG20に招かれる主要国になりつつあるという自意識の変化」なども起こっている。その意味で、「ASEANが自己充足的に小さくまとまっている状況は非現実的になっている」ともいえるのである。

 他方で、2015年の共同体創設を越えた、更に先の目標として「ASEAN共同体をさらに強化し、地球規模の問題にASEANが関与するような制度構築を目指そう」という動きもでてきている。著者は、こうしたアセアンの自己変革はある程度は可能としながらも、他方で「人権問題や加盟国の内政への言及・関与」は引続き域内対立の争点であり続けるだろうと指摘する。同時に、EU等に比べ、生活水準や政治体制で加盟国格差の大きなアセアンは、常に悲観的に語られることが多かったが、それでも間もなく設立後半世紀を迎えるこの組織は、今までもその悲観論を乗り越えて一定の成果を上げてきたともいう。そしてそれを次に、個々の課題ごとに見ていくことになる。

 まず政治安全保障(APSC)である。これは言うまでもなく加盟国間の紛争回避・解決の枠組みであると共に、大国の利害が錯綜するこの地域で、大国間の関係をアセアンの主導性と自主性で解決することでアセアンを「新しい東南アジアの国際秩序の主要な担い手に引き上げる」試みである。そしてこれを遂行する制度的枠組みが、アセアン憲章と、国防大臣会議、そして日米中印などが加わった拡大国防大臣会議である。このための行動計画として2004年にVAP(ヴィエンチャン行動計画)が策定されることになる。

 しかし、実際には2015年までにAPSCを作るという計画は、アセアン内での対立、なかんずくタイ・カンボジアの国境紛争などにより、遅々として進んでいないと言う。また域内での大きな問題である南シナ海を巡る中国との紛争解決も、2011年7月に、2002年にアセアンと中国で合意した「南シナ海行動宣言」の履行を確認することを改めて合意しているが、実際には中国の影響力の強いカンボジアとフィリピン、ヴェトナムなどが対立する構造になっており、最終的な行動規範の作成は必ずしも容易ではない。この問題は日本の尖閣諸島を巡る中国との関係にも大いに関連してくる訳であるが(実際、今回の尖閣問題が勃発した後、中国はスカボロー礁を巡る紛争でフィリピンに発動していた観光客渡航抑制やバナナ輸入制限を緩和した。複数の紛争の同時進行を避けようという意図が丸見えである)、その点で日本のアセアンとの関係でも大きな鍵を握る分野であることは間違いない。

 経済共同体(AEC)は、EUがそうであったように、政治共同体に比べると統合が相対的に容易な分野である。これは1997年12月クアラルンプールで発表された「ASEANビジョン2020」が原点である。

 しかしEUと比較して域内諸国の経済規模の格差が大きい(例えば国家財政収入の関税依存度は、主要国が一桁台であるのに対し、フィリピン、カンボジアは20%を越えている)アセアンの場合は、EUのように関税同盟をいっきに実現することは困難であることから、その自由化と円滑化の範囲はやや限定的であるという。実際2009年のインタビューで、リー・クアンユーは「時間が必要」と言っているようである。それでも、経済統合の牽引役である「ASEAN自由貿易地域(AFTA)」を利用した関税率の引下げや原産地規則の運用柔軟化等が着実に進んできているようである。他方サービス分野を含めた外国投資規制の緩和状況についても筆者は詳細な議論を展開しているが、こちらは各国毎の事情があり、その自由化業種や進捗度は相当異なるという印象である。

 最後の「ASEAN社会文化共同体(ASCC)」では、「人間開発、社会的厚生、社会正義と権利保障、環境の持続性、ASEANアイデンティティーの構築、及びASEAN原加盟国と親加盟国との格差是正」が課題となっているが、他の2つの目標に比較して議論が聞こえてくることが少ないという。筆者は、これはASCCが「国家と社会全般の関係が活動対象となるので、利害や意見が多すぎて集約されにくい」からであろうとしているが、もっと総括的に言えば、アセアン諸国での「市民社会の未成熟」という言葉にまとめられるのではないだろうか。それでも、教育、気候変動、環境問題といった分野では、共通の制度化が進めば、それなりの成果が期待できるのではないかと筆者は示唆している。また域内で大きく変動している人口動態と労働者移動については、以前は共通政策としての議論は行われていなかったが、2007年に初めて「移民労働者の権利の保護と促進に関する宣言」が出され、ようやく出発点に立ったとされている。そして最後に「市民社会の未成熟」論についても、近年は様々な知識人、市民社会グループが活動を始めていることも確かであるとして、特にミャンマーにおける人権問題が、「共同体としての重大な試金石」であるとしている。

 既に「アセアンの中心性」という概念で説明された、アセアンの域外諸国との関係の発展過程が別に独立して説明されている。これは、現在アジアに存在している「アジア太平洋経済協力(APEC)」、ASEAN地域フォーラム(ARF)、ASEAN+3、東アジア首脳会議(EAS)、日中韓三国間協力といった複数の地域制度の中で、アセアンが「ハブ」的な役割を果たしていることの意味を確認しようという作業である。

 70年代から80年代にかけて、アジア太平洋地域の他の地域制度に対して消極的であったアセアンが、その基本姿勢を変化させるのは、やはり冷戦終結がきっかけであった。これ以降、冷戦下では関係構築が難しかった韓国、中国、インド等と関係を修復していくと共に、日本やオーストラリア等の近隣の「域外大国」からの地域制度形成の要請に賛意を表することになる。これは一方で、アセアン国内の政治的安定化と経済成長による自信、そして何よりも「域外先進諸国と対等の立場で協議できる場を設置することはASEAN諸国にとって結果的にプラスと判断された」ことによる。その際に、例えば米国主導の地域制度が提案されることもあったが、アセアン側はあくまでアセアンを核とする制度にこだわり、その結果として1993年にASEAN地域フォーラム(ARF)が形成されたのは、一つの象徴的事例である。また逆に1997年の通貨危機で打撃を受けたアセアン諸国は、今度は「東アジアという地域でのとくに金融・通貨の分野を中心とする協力に積極的に賛意を示し」たのが、ASEAN+3であったとされる。

 それ以降は、アセアンを核とした域外諸国との関係が急速に親密化するが、その際に大きな役割を担ったのが「東南アジア友好条約(TAC)」であったという。即ち、そもそもは1976年の第一回アセアン首脳会議で締結されたこの条約が、2000年代に入り機能変化し、「域外の主要国に対し、(中略)国家主権の尊重(中略)したうえで、東南アジア地域の安定化に貢献することを誓約させるための条約という新たな機能が付与された」のである。こうしてアジア太平洋の主要な域外諸国がすべてTACへの加盟を果たすことになったのである。そしてこのTACをベースに、経済面では周辺国とのFTA締結を進め(先行したのは中国であった)、また新たな広域地域制度としての「東アジア首脳会議(EAS)」が形成される。特に後者は、アセアンとの良好な関係が参加の条件となるという意味で、アセアンが中核となった広域地域制度であると言える。

 但し、こうしたアセアンを「ハブ」とする広域地域制度が構成されたのは、域外諸国がアセアンとの連携を志向し、他方でアセアン側も特定の大国の影響下に入ることを避けるということで利害が一致した結果であった。しかし、その状況が今後も続くかどうかは分からないとして、筆者は、2008年6月、オーストラリアのラッド首相(当時)により提唱された「アジア太平洋共同体構想」を取り上げている。これはアメリカ、中国、インドといった地域大国からなる枠組みで、アセアンからはインドネシアだけを想定していた。この提案は、例えば南沙諸島問題で、中国の実力行使とアセアンの分断工作で緊張が高まっている時に、より問題解決に「実行的」且つ「結果の出せる」制度構築を求める動きであると理解される。更に、既に述べたとおり、「アセアン諸国自身が団結して外に対応することを選択しなくなる可能性」もあり、それは例えば、インドネシアがG20参加を目指すとか、ブルネイ、シンガポールが既に参加しているTPP等にも現われている。こうした動きの中で、アセアンが今後も求心力を維持できるかどうかは確かに注目される。

 2008年に発効したアセアン憲章は、アセアンの40年の歴史の中で蓄積されてきたルールや慣行を改めて整理し明文化すると共に、「ASEANの意思決定や合意履行を効率化し、平和的紛争解決を徹底するため」の新たなルールや組織を導入したという。このアセアン憲章発行に伴う新たなアセアンの姿と課題が整理されている。

 それによると、引続きアセアンでは、加盟国の首脳や閣僚が集まる会議が意思決定の主体で、事務局はその会議を招集するなどの裏方に留まっている。しかし、他方で、今回の憲章により、常駐代表委員会という組織が設立され、「政策や合意を円滑に遂行する」役割を担うことになった。言わば立法機能と行政機能の明確な分離ということである。そして前者については、引続き「コンセンサス制」を維持しながらも、首脳会議の合意により憲章違反と看做される加盟国に対する一定の制裁も加えることが認められ、実際ミャンマーの国内情勢で、議長国就任を遅らせた例などが紹介されている(「それが限界」という見方もできるが・・)。また後者の常駐代表委員会は、今回常設組織として設置され、一定の範囲内で、例えば紛争解決の実務を行ったり、人権問題での問題提起などもできることになっているとのことである。ただ、同時に各国の常駐代表は外務省関係者が多く、経済関係などでの調整力の課題が残る他、事務局全体としての予算が少ないため、多くの問題の処理に手が回らないという。これは、事務局への拠出が、加盟国平等の原則から、同額で行われることとなっているため、最貧国の水準に合わせなければならないという事情があり、実際には、その予算の相当部分が日本などからの援助で賄われているという実態もあるようである。この辺りは、今後のアセアン諸国の経済力向上を待って、時間をかけて解決される問題であろう。

 更に域内、及び域外との関係での紛争処理の事例として、まず経済紛争では90年代初頭にマレーシアが、時刻の自動車産業保護を理由に関税引下げを見合わせたケースで、代替措置を取ったケースが紹介される。しかしよりシリアスなのは安全保障面での紛争で、既に何度も言及されているプレア・ヴィヒア寺院を巡るカンボジアとタイの国境紛争と、南シナ海での中国との紛争が取り上げられている。

 前者は、結局、憲章の定める「国際的手続き」や「東南アジア友好条約(TAC)」に従った処理は当時者国が合意せず、結局「アセアン議長国の仲介」に委ねられる方向になっているようであるが、解決には至っていない。また中国との海洋権益を巡る紛争は、前述のとおり、2002年にアセアンと中国が採択した「南シナ海行動宣言」という枠組みに加え、2011年5月の首脳会議で確認された「地域行動規範」の策定による解決を目指しているということであるが、足元の議論の進捗状況を見ると、それも簡単ではない、というのが実情であろう。結局のところ、アセアン憲章は採択されたとはいえ「設立条約としてはかなり簡素な文章」であり、加盟各国の解釈も異なることから、この憲章を念頭に置いた組織運営もまだまだ多くの曲折を経て進むことになろう、というのは筆者の感触である。そして最後の章で、このアセアン憲章の「規範性」を巡る考察がなされ、特にミャンマーでの人権問題と「内政不干渉」原則をどのように理解していくかということが議論されているが、最終的には「人権や民主主義といった規範を掲げはするが、その促進に実効性を持たせることは保留している、というのがASEANの規範の現時点である」と結論している。

 まさにこの評を書いている最中の11月18日、プノンペンにて第21回アセアン・サミット(+日韓中)が開催された。そして同時に米国オバマ大統領の再選後初めての外遊として、タイを経た、米国現職大統領としては歴史上初のミャンマー訪問、更に11月20日のプノンペンでの東アジア・サミットへの合流が続いた。

 予想されたとおり、まずこの地域への影響力強化を企てる米国と、既に膨大な資金援助によりカンボジア、ラオス、ミャンマーなどを押さえている中国とが静かな火花を散らすことになる(中国の温家宝首相は、オバマの後を追うように、サミット後タイを訪れ、続いてミャンマーに向かう予定である)。そうした中で南シナ海の島々の領有権問題についても、議長国のカンボジアが中国の意向を受け、問題の「国際化を行わない」という共同声明を準備したことに対し、フィリピンやヴェトナムが猛烈に反発し、アセアン45年の歴史で初めて共同声明が出せなかった今年7月のアセアン外相会議と同じ事態が繰り返される懸念が高まることになった。

 結局、これは最後は、経済面を考慮し米中関係のこれ以上の悪化を避けたい米国の介入もあり、最後は玉虫色の共同声明が出されることになったが、一連の事態は、アセアンの一体性と大国の影響力の排除という、この共同体の当初からの目的に疑念を投げかけることになった。

 こうしてアセアンの歴史と、夫々の時代における規範的な議論を見た上で、足元の具体的な動きを眺めてみると、この共同体は確かに遅々たる歩みでの前進は続けているとはいえ、EUなどの先進国による地域共同体に比較して、多くの域内・域外での問題を抱えていることが分かる。もちろん、EUはEUで、先に進んだ段階で、現在より構造的な問題を抱えることになっているわけではあるが、アセアン10カ国は、その前の段階で、求心力を維持しながら域内統合を進めると共に、対外的な力を強める上で多くのハードルを抱えていると言える。今回のサミットでは、来年一年間の議長国がブルネイに引き継がれると共に、来年1月から5年の任期でヴェトナムのレ・ルボン・ミン外務次官が新たにアセアン事務局長に就任することも決定されたが、引続き彼らにとっても、この共同体の実務的な運営がなかなか荷の重い仕事であり続けることは確かであろう。

読了:2012年10月30日