物語 ビルマの歴史
著者:根本 敬
今年の初めシンガポールを出る前に、コンサル業の著者が書いたミャンマー解説本を読んだばかりであるが、続けて研究者による本格的なミャンマーの通史を手にすることになった。前者も、ミャンマー入門書としてはうまくまとめられていたが、この新書はそれ以上に詳細にこの国の歴史を説明している。著者によると、特に現代史に焦点を置いた、とのことであるが、英国植民地時代のこの国の位置付けから始まり、日本軍占領期のアウンサンらの動きから戦後の独立国家建設への動き、軍政による政権奪取、そしてアウンサンスーチーによる民主化運動の進展などを、決して感情的な議論になることなく淡々とかつ論理的に綴っている。
まず「ビルマ」と「ミャンマー」という国名の説明で、著者は専門家としてのこだわりを示す。歴史的には「ミャンマー」という言葉は「『ビルマ民族』や彼らが住む空間を意味」しており、「現在でいうカレン族やシャン族などの少数民族を含む国民全体を示す概念ではない」。それに対し、「ビルマ」は、1930年代の反英独立闘争の中で、ビルマ国軍の前身となったナショナリスト団体が、口語で使われていたこの国名を「少数民族を含むビルマ国民全体」を示す言葉として使ったという。そうした理由で、著者はこの本では、「ビルマ」という呼称で統一している。
この国の特徴としては、他の東南アジア諸国と同様、多民族(ビルマ族が約7割。約135の民族)、多言語(「チベット・ビルマ語派」が主流であるが、その中でも意思疎通が容易でない)、そして多宗教(上座仏教徒が89%であるが、キリスト教、イスラム教外4つの宗教の存在を憲法で公認)という点だけ押さえておけば良いだろう。最後の「上座仏教」については、釈迦の入滅後の起源1世紀頃、「根本分裂」と呼ばれる大分裂が生じ、この時「個人による出家と修行を重視する自力救済を重視」したのが「上座部系」。他方「釈迦の慈愛による生けるものすべての救済を信じた」のが「大衆部系」であるが、こちらが、自分たちが救済に至る「大きな乗り物(大乗)」であるのに対し、上座部系を、少数のエリートしか救済しない「小さな乗り物(小乗)」と批判したのが「小乗仏教」という「蔑称」の由来である、というのが面白い。またこの宗教との関係で、「ビルマの竪琴」で、主人公が竪琴を奏でながら戦友の遺骨収集をするという行為が、ビルマ人からは奇妙な行為になるという指摘も、日本人としては踏まえておく必要があるだろう。
最初の王朝が出来るのが11世紀半ばのパガン朝であり、250年の間に王や有力者の積徳行為として4000以上のパゴダが建立されたというのは、個人的な旅行(シンガポール通信ー旅行、参照)の良い思い出である。その後幾つかの王朝の勢力拮抗期を経て18世紀半ばに「コンバウン朝」が成立、これがビルマ最後の王朝になる。この王朝が南下し、モン族の拠点ダゴンを占領した時に、この町をビルマ語で「敵が尽き果てる」という意味の「ヤンゴン」に変更したという。ただこの歴史の中では、パガンに続く王朝中心地と私が理解していたマンダレーは、19世紀半ば僅か28年間の王朝最後の首都という以外は登場しない。これは改めて確認しておく必要がある。またこの王朝はタイのアユタヤを蹂躙したことでも有名である。
英国は、インドから中国への交易路を確保する必要から、英国東インド会社の支配下に入っていたベンガル地方チッタゴンへの侵入を理由にビルマへの圧力を強め、まず1852年下ビルマ全体が英領とする。内陸国となったビルマは、それでも近代化に着手するが、改革派皇子の暗殺や英領下ビルマからの経済的圧力(特にコメの生産地である下ビルマを失ったことが大きな打撃となった)の前に弱体化し、最後の策としてフランスに接近したことを理由に英国の侵攻を受け1885年に王朝は崩壊、翌1886年に、「英領インド帝国ビルマ州」として最終的に英国支配下に入ることになる。著者は、隣国タイが植民地化をまぬがれたことと比較し、タイが列強のインドシナ植民地化が進む前に近代化に着手したのに対し、ビルマは下ビルマを失い、英国の影響力が圧倒的になった時点でしか改革を行えなかったことがその主因であるとしている。「時代が生んだ不運であった」というのが著者の見方である。
英国による植民地化で最も重要なのは、ビルマが「それまでの王朝国家とは質的に異なる新しい国家として作りかえられた」ことである。当初は当時のアフガニスタンで英国が行ったような「王国の保護国化」を考えていたようであるが、既存の王朝の中に「英国に協力的で土着社会にも影響力を持つ都合の良い新しい王」を見つけられなかったこと、及び既に王国の支配力が弱体化していたことから、「ビルマ王国ゆかりの土着の国家機構は(中略)、英国が導入する『合理的』国家制度と接木することで生き残る機会を永遠に奪われた」ということになる。更に経済的には、ビルマはあくまで英国が重視するインドに向けて食糧と燃料を補給する基地として、言わば「インド支配のための重要な『付属品』」に過ぎなかったことから、インフラ整備や国内向けの産業育成は全く行われず、経済成長から取り残されることになる。ただ後者は植民地経済に共通する問題である。そしてシンガポール等の他の英領植民地と同様、民衆の中間管理者として大量のインド人が流入したことで多民族化が進むと共に、金融業を営むインド人が担保として保有する土地の不在地主化し、土着民族から敵視されるようになったという。また首都ラングーンは英国により近代都市に改造されたが、その過程で短期滞在のインド人(ヒンドゥ及びモスレムの両方)が増加し、1931年の統計で都市人口の53%、中国人を加えると61%と、ビルマ系が少数派となる現象が生じ、これが第二次大戦に向けビルマ・ナショナリズムが高まる主因の一つとなった。そして「仏教青年会(YMBA)」といった宗教的活動を嚆矢として次第に政治運動が拡大していくことになるが、それは省略し、日本軍の進駐に移ろう。
何よりも鈴木大佐が率いる「南機関」によるアウンサンのアモイでの拉致と日本への連行、そして彼を含む「30人の志士」の海南島での厳しい軍事訓練と武器の供与というのが、この時代の日本軍部のこの国に対する戦略(謀略?)を物語る。丁度「中村屋のボーズ」を日本の右翼が支援したのと同様、アジア民族主義を反英闘争のために利用するという戦略である。しかし、真珠湾以降、日本は直接英米と戦闘状態に入ったことから、アウンサンを使った謀略による反英闘争の必要はなくなり、直接ビルマに侵攻。但しアウンサンには独立を約束していたことから、現地指導者となった鈴木は、アウンサンの「ビルマ独立義勇軍(BIA)」と日本の軍部の板挟みとなる苦難を味わうことになる。その結果、当初は圧倒的な軍事力(特にシンガポール攻略が予想外に早く終了したので、日本軍はビルマに戦力を回した)のためアウンサンも日本軍と共闘し英軍と戦ったが、ひとたび日本軍の劣勢が明らかになると、泰緬鉄道建設によるビルマ人の強制徴用といった日本軍の圧政もあり、英国側に寝返ることになるのである。但し、前に読んだミャンマーレポートで振れられていた、戦後アウンサンが、戦犯となった鈴木を弁護し、恩返しをしたことは、この本では触れられていない。
戦後支配者として戻ってきた英国とアウンサンらによる独立交渉については、他の英領東南アジア諸国のそれと大きな違いはない。確かにその過程におけるアウンサンの指導力は大きかったようである(1947年1月のロンドンでのアトリー首相との会談と協定の締結等)。それだけに1947年7月のアウンサン暗殺は、この国の戦後にとって大きな不幸であった。この暗殺事件について著者は詳細に説明しているが、首謀者として逮捕・処刑された年長のナショナリスト、ウー・ソウ(彼の日本との関わりも面白い!)の犯行とするのが本当に正しいかは、著者も疑問を持っている様子である。時代を考えると様々な勢力が謀略に関わっていた可能性が想像されるが、真相についてはまだ定説はないのであろう。
アウンサンの暗殺後、跡を継いだウー・ヌの指導下で1948年1月にビルマは独立するが、独立過程で排除されたビルマ共産党やカレン族等少数民族の武装反乱などにより当初から不安定であった。与党パサパラ内でも政策や人間関係を巡る対立が激化し、党は分裂。その結果、国内武装勢力と前面で戦ってきた軍の発言権が強まり、1962年の国軍によるクーデターによりネィウィン大将による軍事政権が成立し、それが結果的に2011年3月の「民生移管」まで続くことになるのである。言うまでもなく、その軍事政権時代に、この国は特に経済面で周辺の東南アジア諸国から大きく取り残されることになる。
この軍政について、著者は単純に批判するのではなく、客観的な歴史叙述を目指しているように思える。ウー・ヌ政府があまりに不安定であったことから、クーデターの直後は「国民は当初、国軍の本格的な政治介入を歓迎する雰囲気にあった」という。しかしネィウィンの権力が次第に突出してくると、その「ビルマ式社会主義」が、国有化された大企業や官僚組織の軍人による私物化と非効率化、農業の収奪などにより、政治・経済を大きく停滞させていく。そして1988年、「極度の経済不振と自由の束縛に対する不満」が民主化運動として爆発する。アウンサンスーチーが政治家として登場することになるこの民主化運動によりネィウィンは退陣するが、運動自体は軍からの激しい弾圧を受け、二回目のクーデターによりソオマウン大将(4年後に、タンシュエ大将へ移行)を首班とする新たな軍事政権が誕生する結果となる。
この軍事政権は、名目上「自らの使命を治安回復と複数政党制に基づく総選挙の実施に定め、暫定政府としての位置づけを行い、経済政策においては26年間続いたビルマ式社会主義を捨て、市場経済への移行に舵を切った。」しかし、実態は、1989年のアウンサンスーチーの自宅監禁や、投票自体は「特に大きな問題がなかった」1990年の総選挙の実質無視、そして兵員や装備が強化された国軍による一層激しい民主化運動の抑圧と、それまでの軍政と大きく変わることがなく、その結果としての国際社会からの批判と孤立を招くことになる。そしてそれ以降の最近の動きは、いろいろなところで報道されているとおりである。2011年まで、この軍政が権力を維持した理由について、著者は、@強大な物理的強制力、A中国・インド・ロシア(そしてある程度は1997年に加盟が認められたASEAN)の支援、B資源輸出でのある程度の外貨獲得、そしてC国民の「あきらめの感情」を挙げている。
ここで著者は、アウンサンスーチーの経歴を詳細に説明している。これはまさに私がシンガポールで見た彼女を主人公とする映画(映画日誌・アジア映画・ご参照)の原型で、改めてあの時の感動が蘇ると共に、占星術師に頼るネィウィン、といった描写を除くと、映画が史実に忠実に1988年以降の彼女の姿を描いていたことを認識させるものであった。映画で明確に示されていなかったのは彼女の政治思想であるが、それについては、彼女がかつてインドで学んでいた際に強い影響を受けたガンジーの非暴力不服従と、一人の人間に出来ることの限界を自ら認識しながら、紛争当事者の双方から常に距離を置きながら問題の解決を目指すという実務的姿勢を確認しておけば十分だろう。もちろん、ロヒンギャ問題で批判されたように、そうは言っても実際には他者からは中立的ではない、と看做される場面は多いことは現実の政治過程での宿命ではある。
最後に著者は、2011年の民政移行後のこの国の最新の姿を報告すると共に、今後の問題を整理することになる。前者については多くの報道がなされているとおり、著者も間違いなくテインセイン大統領の下で「変化」が始まっていることは認識している。それは民主化運動の結果というより、国際イメージや経済発展の重要性を認識した「国軍が自ら姿勢を転じることによって生じた」ものであるが、最大の難問は軍事色の強い2008年憲法の改正問題であると言う。更にそれに加え、大きな3つの政治課題―@連邦改革=少数民族問題と難民問題、A教育改革=主体的思考ができる人間の養成、そしてB経済改革=民主主義と協調する経済発展について、伝統的な排他的ナショナリズムを押さえながら道筋をつけていけるか、が今後のこの国の主要課題ということになる。
いうまでもなく、現在の「ミャンマー・ブーム」により、前回読んだコンサルによる紹介本を含め、この国に対する関心は強くなっている。かつて2007年8月の僧侶デモをきっかけとする民主化運動の高まりの中で、日本人ジャーナリストが国軍兵士により撃ち殺された事件があったが、北朝鮮との不透明な関係も含め、この国への国際社会の関心は従来ほとんどがネガティブなものであった。しかしそれがここ数年大きく変化してきている。そうした中で、著者のようにこの国に留学し、この国の研究に生涯を捧げてきた人々にとっては、現在のこの国の変化は一方でもちろん歓迎すべきものであると共に、他方ではある種のわだかまりと不安を伴うものになっているのではないかと思われる。長い歴史を踏まえて現在を分析すると、この国の基層にある伝統や人々の行動様式、あるいは民族間の関係がすぐに変化するとは思えない、という不安があることは容易に想像される。著者がこの作品を、極力主観性を排除し、それぞれの時代、局面を冷静に説明しようとしている背景には、歴史家としての自覚と共に、このビルマーミャンマーという国の専門家であることによる無意識の自制が働いているのではないだろうか。その意味でこの作品は、一時期のミャンマー・ブームに便乗したものとしてではなく、長い歴史過程の中で間違いなく東南アジアの一つの大きなプレーヤーであったこの国を、中長期的な観点から理解するための重要な一冊として読まれるべきであろう。
読了:2014年3月9日