アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
アジア読書日記
その他アセアン
日本はASEANとどう付き合うのか
著者:千野 境子 
 週末を過ごすバンコクに向かう機内で読了。産経新聞記者で、マニラ特派員、シンガポール支局長などを経て、2005年から2008年までは論説委員長も勤めたジャーナリストによるASEAN論である。この新聞は、その保守的な論調と保守政権よりの立ち位置から、個人的にはあまり好きなメディアではないが、この著者のASEAN論は非常にバランスが取れている。そして、現在熱い議論が起こっている南シナ海を巡る中国とASEAN諸国の緊張から、日本とASEAN地域との歴史的な関係と将来を展望する議論等、私がこの地で暮らしてから日常的に考えてきた課題の多くにつき示唆に富むコメントを提示している。2015年5月の出版であることから、その後も、例えば前者について、国際仲裁裁判所による「中国全面敗北」の判決が出されるなど、局面は刻々と変わっているが、基本的な視点はまだまだ有効である。

 まずはアジアの地政学的な大状況の整理。これは言うまでもなく中国の台頭と、それに対抗する米国の「アジア・ピボット」又は「アジアリバランシング」と呼ばれる政策転換を核とする日本及びASEAN諸国の対応である。著者の基本的な視点は、AIIB設立や「一帯一路」政策など、「新構想を次々に繰り出し、世界の目をそちらに向けさせている間に(「砂の万里の長城」−ハリス米海軍太平洋司令官―を築くといった)、着々と事を進めていく、中国共産党政権の修正能力の高さ」を意識していることで、これは単なる「反中」ではない、非常にリアリスティックなアプローチと言える。

 中国の南シナ海政策については、著者は、中国が南シナ海のみならず、「太平洋という大海を見はるかして、海洋大国を目指す中国の姿が浮かび上がる」として、明らかに海に向かった膨張路線を取っていると考えている。その具体的行動として、古くは1973年のベトナムからの西沙諸島の一部の武力奪取とその後の実効支配の強化などの例、そして1996年に始まった東シナ海の日本の領海への侵入などの例を指摘している。そして、それでも南シナ海では、実効支配はしても「棚上げ・共同開発」路線を採用していた中国が一線を越えたのは2014年で、中国はベトナムとの紛争地域での資源採掘(「動く領土」としての巨大リグの設置)や、フィリピンが実効支配している地域への圧力の強化等を始ることになる。ベトナムでの反中デモの高まりなど、この地域での緊張が一気に高まり、今回のフィリピンによる国際仲裁裁判への訴え(「十巻、四千頁」の提訴資料を提出したというので、フィリピンも中々やるわ、という感じである!)と勝利、という流れに連なっていったのである。そして、フィリピンでは、1991年にクラーク空軍基地とスーピック海軍基地が閉鎖され、米軍が撤退した直後に中沙諸島スカボロー礁を中国に奪取されたこともあり、再び2014年、米軍のフィリピン駐在に道を開くことになる。但し、直接中国と対峙するこの二か国以外のASEAN諸国の中国に対する姿勢はより打算的で、それが南シナ海問題を巡るASEANの不協和音の要因であること、そしてそれを見越した中国がASEANに対しては「二国間による話合い」という「分断政策」を取ってきたことは、言うまでもない。そして最も中国寄りのカンボジアでは、「日本の(支援の)跡を消そうという魂胆」での、中国の無償援助によるインフラの整備が進むことになる。但し、中国の建設物の質は低いことから、まさに日本は「質の高いインフラ」で巻き返しを図る戦略を取ることになる。それに対し中国は、「新型大国関係」を持ち出し、「アメリカ以外は相手にせず」という姿勢を強めることになる。

 そのアメリカの対中姿勢である。イラクやアフガン問題に忙殺され、アジア政策が手薄になっていたアメリカが、「アジア・リバランス」に転換したのは、2011年11月のオバマ、クリントンにより相次いだ演説によってであり、これにより、権力の空白をついて思うままに振る舞ってきた中国のこの地域での活動に圧力が加えられることになる。中国がこれに反発し、しかし「新大国関係」を翳しながら融和に出ているのは言うまでもない。ただかつての米ソ冷戦時代と異なり、現在の米中関係は、経済面での依存関係を含め、複雑である。中国の動きについて著者は、「2014年に南シナ海で繰り広げられた(中略)衝突、対立、緊張は、中国がアメリカのアジア再参入という戦略転換に苛立ちや反発を覚え、挑戦し、巻き返しに出ていると考えて良い」と見ているが、「表面での融和策の背後で、拳を振り上げる」という中国の常套手段を念頭においた説得力のある分析である。

 アメリカの「アジア・リバランス」への転換を象徴するのが、2011年11月―12月のクリントンによるミャンマー訪問であったことも、そのとおりである。更に、フィリピン、ベトナム、インドネシアとの関係強化が進められたが、著者によると、オバマ政権第二期目に入ると、このアジア政策に迷走が見られたという。アジア訪問頻度も、クリントンからケリーになると大きく減少し、2013年のブルネイでのASEAN会議の会議の「一部ドタキャン」もASEAN諸国を失望させたという。この辺りにつき、著者は、元々中東専門家であるケリーの資質に加え、クリントンのアジア重視が「アラブの春」と重なったことを挙げている。アラブ情勢が再び混乱に転じた時に、「前任者と異なる実績を狙う」ケリーが中東和平にエネルギーを注ぎ、それがアジアへのコミットを弱めることになってしまったが、結局そのアラブ政策は再び挫折し、またシリア内戦とISの勢力拡張という新たな混乱を引き起こすことになってしまった、と見る。確かに、「世界の警察官」たる立場に限界を表明したアメリカは、今や「全面戦争」は出来ない。オバマの任期も少なくなり、また後任大統領も、当初は選挙戦での各種公約―移民問題やTPO、更には国内経済などーを意識せざるを得ないであろうことから、今後しばらく権力の空白が生まれる余地は高まっていると思われる。

 ASEANについての解説は、他の専門書を読んだ後では、あまり新鮮なコメントはない。著者が詳細な報告をしている、マレーシア独立時の初代大統領の側近で、外相を務めたガザリというのは初めて聞く名前であるが、彼が特に興味深い人間という訳でもない。確かにASEANの誕生に大きく貢献した人物ではあろうが、彼でなくとも、「(域内で)争わない仕掛け」としてのASEANは生まれるべくして生まれたと言えるだろう。そして、日本が停滞の20年を過ごしている間に、この地域への中国の台頭を許したというのも、今や常識である。それをどう取り戻すか、という議論には、著者はここでは踏み込んでいない。

 むしろそれに続く、「大東亜共栄圏」を含む近代日本のこの地域への関与を辿る次章が結構面白い。横浜は山下公園にひっそり佇む、フィリピンの忘れられた英雄リカルデ像から語られる戦前日本のこの地域への支援の歴史。日比谷公園にあるリサール像は、アキノ前大統領も献花に訪れたというが、山下公園のリカルデは、本国からは忘れられている。その大きな理由は、横浜に20年近く滞在しながら反米独立闘争を行った後、本国に戻り絶大な人気を誇った彼が、結局のところ「独立のために日本軍を信じ協力したナショナリスト」という評価になっていることによるのだろう。そして、彼は終戦直前に死ぬが、占領軍として戻ってきた米軍から見ると、彼は日本軍への協力者と映り、戦後の歴史から葬られたということであろう。

 それに対し、インドネシア占領軍の司令官今村中将は、当時反オランダ闘争を行っていたスカルノと「人間的」に接することにより彼との信頼関係を作り、それが独立後のインフドネシアと日本との良好な関係をもたらすことになる。その今村は、戦後「戦犯として裁判にかけられながら無罪となり、軍政時代の仕事も、占領されたインドネシアにおいても評価されている」とされている。

 そしてベトナムからは、ファン・ボイ・チャウ。この東遊運動を主導した独立運動家の運命は、日仏協約で挫折することになったことは有名である。それは日英同盟で追放されそうになりながら、「神隠し」で難を逃れたボーズと異なる運命である。

 こうした人的な関係から、近代日本の「南洋」との関係全般の記述に移っていくが、まず面白いのは、日本は1922年に、パラオ諸島のコロールという場所に「南洋庁」を設置、各地に支所を置き、南洋諸島を統括した、という事実。作家中島敦も、一時その職員であったというが、パラオに勤務する日本の公務員というのも、なかなか想像できないシュールな組織である。そして戦争の開始と共に、1942年、今度は日本の「南進政策」を統括するため、外務省とは別に「大東亜省」が設置された、というのも、今回初めて知ることになった。この省は敗戦まで僅か2年9か月の短命だったが、1943年大東亜会議を開催したという。これを描いている深田雄介の「黎明の世紀」は、一度目を通しておくべきだろう。またこの省の主導で、軍政を担うための東南アジアから留学生を多数受け入れた、とされているが、その内の何人かは滞在していた広島で原爆の被害にあったという。

 そして岸信介と東南アジアとの関係。先のフィリピンの英雄リカルデが、日本軍への協力故に歴史から葬られたと書いたが、同じく日本軍に協力し、戦後滞在していた日本で逮捕され巣鴨刑務所に入っていたラウレルは、その後本国に帰国後、初代大統領となったというので、リカルデの過小評価は別の要因もあったのだろう。そして巣鴨でそのラウレルと親交を交わし、その後フィリピンのみならず、東南アジア各国と深い関係を築いたのが岸信介であったという。サイパン陥落を受けて敗戦を確信した岸が、東条と袂を分かったということで、戦後岸は戦犯としての判決を免れたが、さすがの著者も、この辺りは岸のリアリストとしての側面のみならず、巧妙な世渡りだったということも否定していない。しかし、その後、東南アジアの安定が戦略的に重要と判断し、インドネシアを筆頭とする戦後賠償の決着や、インドのネルーとの親交、そしてODAの開始やADBの設立等も彼が主導したとしている。そして、そこから岸の孫である安倍晋三の現在のアジア外交が出てくるのであるが、そこまで行くと、提灯担ぎすぎだよ、突っ込みたくもなる。ただ、彼が主導したかどうかはともかく、その後の福田ドクトリンを含め、日本が戦後一貫して東南アジアの安定を自国の大きな国益と捉え、その成長に大きな貢献をしえきたことはその通りだろう。それが、必ずしもそれらの国からの日本への評価に繋がっていないことが、現在の最大の問題であるが、それについては、著者は最後に改めて触れることになる。ここでは、岸から安倍に至る戦後の日本の東南アジア外交上の大きな事件を5つ抽出しているので、それだけ記載しておこう。それは、@1961年から66年までの、マレーシア対インドネシアの紛争仲介(池田、佐藤両政権)、A1966年のインドネシア支援債権国会合結成へのイニシアチブ(佐藤政権)、B1974年のジャカルタ反日暴動(田中政権)、C1977年の「福田ドクトリン」(福田政権)と1988年以降のODAの増額(竹下内閣)、D1990年以降のカンボジア和平工作、である。

 こうした議論を経て、最後に著者は、日本とASEANとの関係の総括に入る。まず押さえておくべきなのは、2013年が、日本―ASEAN関係樹立40周年であったが、これは両社の対話の始まりを1973年11月の、東京で開かれた合成ゴムに関する第一回日・ASEAN会議(合成ゴムフォーラム)としていることによるという。日本とASEANの関係は、日本の合成ゴム輸出が、天然ゴムの産出地であるASEANの脅威になっているという抗議から始まったことは記憶しておくべきだろう。

 次に、著者が引用しているのは、ASEAN主要7か国で2015年に行われたアンケートで、「現在、及び将来重要なパートナーは?」という質問に対し、僅かであるが、日本が、中国やアメリカを抑えて一位となったという点。6年前の同じアンケートでは中国が日本を上回っていたという。

 この評価を、6年前のリーマン危機に際して、中国が膨大な財務出動で地域経済の回復に貢献したとか、現在はその海洋進出等の傲慢な姿勢が影響している等々、いくつか理屈はつけられる。またこの時日本を一位としたのが、インドネシア、フィリピン、ベトナム、中国を一位としたのがマレーシア、シンガポール、タイ、ということであるが、これはなるほどと思える結果である。他方、「最も信頼できる国は?」という問いに対しては、圧倒益に日本が一位であるそうである。著者は、これを「中国は重要な国だが、必ずしも信頼できる国ではない」との評価ではないか、と見ているが、むしろ、そこまでの評価があるのに、例えば現在、この地域から日本への留学生が少ない、といった問題をどう考えるべきか、は重要な問題である。そして、日本とASEANの近代以降の歴史を見てきた後に著者は、小林秀雄の言葉を借りて、重要なことは「歴史を上手に思い出す」ことであるという。あるいは、「歴史を上手に思い出させる」ということもできる。そして現在と将来については、日本は量ではなく、質で勝負すべきである、というのも、現在の外交方針の中で明確に位置付けられているとおりである。それは、「課題先進国」としての日本の経験の輸出も含むことは言うまでもない。科学技術による付加価値の輸出も含め、まさに私の仕事でも貢献できる課題が、この地域での日本の存在感の向上に必須であることを痛感させられたのである。

 尚、この著者による、「インドネシア9・30クーデターの謎を解く」も、現在この国でも調査が進んでいると聞くこの事件について知るために、次の帰国時には是非手配したいと考えている。

読了:2016年8月19日