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フィリピン 成長する若き「大国」
著者:井出 穣治 
 1978年生まれの日銀職員で、一時期出向先のIMFでフィリピン担当エコノミストを務めた著者による、今年2月出版の最新のフィリピン論である。この国についてのまとまった著作は、2011年に読んだ「物語 フィリピンの歴史」であるが、これは1997年の出版ということで、記載もコラソン・アキノの時代で終わっている。その後、この国は、ラモス、エストラダ、アロヨからベニグノ・アキノ三世の6年の大統領時代を経て、昨年鳴り物入りのデュテルテが指導する新しい時代に入ってきたものの、それをフォローする文献に接することはなかった。それも、この国があまり日本で注目されることの少ない結果であったと言えなくもないが、それでは、著者がここで触れているように、昨今は、デゥテルテの過激な発言のみならず、BPOビジネスやネットを使った英語教育、あるいは南シナ海を巡る中国との緊張、そして昨年は天皇の訪問といったニュースで、日本との関係も一層強まっている。そうした最近のこの国の状況についての著者の見解を見ておこう。

 かつて「アジアの病人」と揶揄されたフィリピンに対し、最近は評価が高まっているという。要因は、@一億人を超える人口と、平均年齢25歳という恵まれた人口動態、A、一人当たりGDPが2015年で2,800ドルと、耐久財が普及すると言われる3,000ドルに接近、B国債格付けの投資適格(BBB)への引上げや株式市場の上昇、C日本の製造業、小売業等の進出等々。他方、「@高層ビルとスラム街のコントラストに代表される、この国の貧富の格差、Aマニラ首都圏の深刻な交通渋滞に代表される、この国のインフラ不足」は相変わらずこの国の課題であり続けている。その双方の側面は、今後どのように展開していくのかが、ここでの議論である。

 まず戦後直後は、米国の豊富な援助等もあり、経済成長のために有利な条件を有していると言われたフィリピンが、1960年代以降、成長が停滞し、「アジアの病人」と呼ばれる状況になった要因を説明している。その要因としては、まず大土地所有者が関税で保護されている製造業に参入し、既得権を有していたこと、また1965年に権力を握ったマルコスもこの地主層と結びついたことから、輸入代替政策から輸出振興への工業化に失敗したという点が挙げられる。その他、資本直積の遅れ、慢性的な財政赤字や高水準のインフレといった不安定なマクロ経済環境、そして汚職、腐敗といった政府のガバナンスの欠如も指摘される。

 その「アジアの病人」は、2000年代に入ると、「ASEAN主要4カ国を構成するマレーシア、タイ、インドネシアと肩を並べる形で5%弱の経済成長を実現し、経済がテイクオフ」することになる。

 これを促した要因を、著者は「サービス業と個人消費が主導」した、「常識とは異なる新しい経済成長のモデル」と表現している。それはグローバル化とIT化が進む中、「フィリピンは、国民の高い英語力を最大限生かす形で、豊富な労働力を世界各地に輸出し、出稼ぎ労働者によるフィリピン本国への送金が旺盛な個人消費をもたらす、消費主導の成長モデル」であり、また国内的には「BPO(ビジネス・プロセス・アウトソーシング)産業を成長産業に据えた、サービス業主導の成長モデル」である。

 一方、こうした傾向が、今後も継続するかどうかについては、著者はいくつかの留保を置いている。一つは人口動態を生かせるかどうかであるが、これの最大の課題は国内で雇用の受け皿を提供できるかどうかである。そして、更なる成長を促す資本蓄積のためには貯蓄率が上がる必要があり、そのためにはある時点からの出生率の低下により、養育負担が下がることが条件になるが、それはカトリックが大多数を占めるフィリピンではまだ見えていない。また生産性の向上を促す研究開発投資の増加等も明らかではない。一言で言えば、この国も「中心国の罠」から抜け出せるかどうかは不透明である。

 それに加え、「アジアの病人」時代から残る、根深い貧困と所得格差、製造業の育成とそのための直接投資の呼び込み、それの障害となっているインフラ不足や政府ガバナンスの改善など、課題は多い。その中で、直接投資呼び込みのための経済特区政策で、獅子奮迅の活躍をした担当政府機関のデリマ前長官の話しは、この国もそれなりに優秀なテクノクラートが存在することを物語っている。著者は、こうした課題の歴史的な根源を説明しているが、これは先に紹介した「物語 フィリピンの歴史」で十分紹介されているので、ここでは省略する。

 その通史では触れられていないのが、鳴り物入りで登場したドゥテルテ大統領についてのコメントである。まず彼の選出の過程であるが、アキノ政権が「フィリピン史上でも特筆すべき経済成長を実現したが、その恩恵は必ずしも国民に行き渡らず、貧困問題、犯罪や汚職、インフラ不足など、この国が抱える問題が解決された訳ではなかった」。そうした既成政治への不満が、貧困層のみならず、中間所得層や海外の出稼ぎ労働者のドゥテルテ支持を拡大したという。

 「ポピュリズム」の象徴として、トランプと比較されることの多いドゥテルテであるが、インテリ層から忌み嫌われたトランプに対して、ドゥテルテはある程度のインテリ層からの支持を得たことも注目される。私が日常業務で接するのは、博士号も持っているようなインテリたちであるが、そうした世界にいるフィリピン人が選挙前後に彼を支持していたのが印象的であった。言わば既得権を持たない層は、インテリを含め彼の突破力に期待したということであろう。麻薬犯罪や米国との関係での過激発言に対して、経済政策面ではアキノ政権の課題をそのまま引き継ぎ、担当閣僚も経験者を揃えているというのは、彼の現実主義的一面であり、また南シナ海を巡る中国との紛争も、現在は、全面的にフィリピンが勝利した国際仲裁裁判所の判決を封印し、中国とのある程度の妥協で、経済支援などで最大限の利益を引き出そうというのもそうした一面であろう。但し、著者が指摘しているとおり、特に麻薬犯罪者対策などでの国内での超法規的政策が「フィリピン社会の構造的な問題を改善させる可能性を秘める一方、同氏の強権的手法は、民主主義の基本原理を逸脱しており、この国の民主主義を大きく後退させるリスクを内包している」「両刀の剣」であることは言うまでもない。また今週に入り、南部ミンダナオのマラウィ市で、ISの影響下にある「アブサヤフ」の拠点掃討作戦中に、別のイスラム過激派組織「マウテグループ」も加わった大規模な政府軍との戦闘が勃発し、住民の多くが避難せざるを得なくなっている。ドゥテルテは、戒厳令を全土に拡大するといった可能性も示唆しているが、やはりこうした治安問題は、この国の今後の成長や地域格差の是正といった課題が、多くの困難を抱えていることを示している。

 著者は最後に日本との関係を総括しているが、言うまでもなく、この国は日本の最大の貿易国の一つであり、また海洋進出を強める中国との対抗上、地政学上も決定的な重要性を有している。第二次大戦での日本軍による膨大な被害の割に、戦後賠償もうまく決着し、現在の安倍政権のみならず、代々の政権も、最大限の経済援助を供与するなどの対応で、戦後長期間にわたる良好な関係を維持している。昨年天皇、皇后が慰霊の旅で訪れたことも大きな話題になったことは記憶に新しい。しかし、そうした良好な関係で忘れがちになるこうした大戦中の日本軍による暴挙を我々が忘れてはならないことも言うまでもない。現在の私の業務でもこの国との関係は深まりつつあるが、そうした過程で、この国と日本が有してきた関係と、この国が抱えている課題を十分に認識しながら、この国の今後の成長に幾ばくかの貢献できることを期待してやまない。

読了:2017年5月25日