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謎の仏教王国パガン
著者:大野 徹 
 2002年刊行の、ミャンマー(ビルマ)研究家による、パガンを核にしたこの国の歴史をまとめた著作である。ミャンマーについては、2014年に、この国の通史やビジネスマンによる最近のこの国の政治・経済状況をルポした著作を読んで以来であるが、この作品では、戦後間もない時期からビルマ語の専門家として、考古学研究を中心に両国の間を行き来してきた著者による中世パガン王国の相当細かい歴史検証が行われることになる。特に、1958年、大学生時代の最初の滞在以来、パガン等の史跡に残る碑文の解読という地道な作業を通じ、歴史的な「事実」と「伝承」を区別する作業を行ってきた著者の姿は、プロの歴史家としての神髄を垣間見させてくれる。しかし、そうした細部は、逆に私のような素人の著者にはやや過剰で、正直やや読み飛ばしてしまった部分もあったのである。

 他のこの国に関する著作と同様、ヤンゴンのシェダゴン・パゴダから始まる「遺跡巡り」(30年程前の汽車による旅行である)が入り易いが、特にパガン遺跡の説明では、その専門家としての細かい説明に、かつての私の訪問時に、この作品を持っていくことができたら、その印象もずいぶん違っていただろうと思わざるを得なかった。当時は、次々に現れる同じような遺跡に飽きて、午後の観光を短くしてマッサージに回してしまったのであるが、もう少し時間を割いて見ても良かったと感じさせる。

 ラングーンを早朝に発って12時間で到着したマンダレーは、1885年まで短期間(26年)王都であった、ミャンマー第二の都市であるが、この街は、私は飛行機がトランジットで着陸しただけの経験である。聖地ポウパー山(スリランカのシギリア・ロックのような、岩山の上に寺院が建立された聖地である。私は訪れる機会はなかった。)を経てパガンに至る。ここでの「パガン5千坊」の訪問は、まさに私が体験した遺跡群観光である。まず考古学者として、11世紀から13世紀まで250年の間繁栄したこの街の歴史を、碑文と年代記等を通じて整理しているが、夫々の資料で王の名前(ある資料では14代の王が存在したという)や即位の時期が一致しないことから、それらを整理し、事実と伝承を分ける上記の地道な作業が行われる。その上で、主要な寺院の訪問に入るが、まさにここでは私も訪れた多くの遺跡が登場し、別掲の「ミャンマー紀行」を改めて横目で見ながら読み進めることになる。私の訪問時は、あまり記録に残すことのなかった彫刻や壁画、そして碑文への関心が強いのはさすがである。その紀行文では、マヌハ寺院の仏像が狭い空間に押し込められていることにつき、当時私は「建立者が閉所好みであったのか?」と記したが、実はこの寺院は、パガン初代の王であるアノヤーター王のタトン(地域名)征服に伴い捕虜として連行されてきたモン族の王マヌハが1059年に建立したが、「見るからに窮屈そうな感じは、捕虜として幽閉されていたマヌハ王の心情を表したものと考えられている」ということのようである。捕虜の王でも、こうした寺院を建立することができた、というのもこの時代の宗教観を示していると思われる。

 観光を終えると、今度は考古学的な各種検証が始まる。中国の資料なども参照しながらの、パガン王国に先立つ「まぼろしの王国」ピュー王国やビルマ族の源郷(中国雲南地域といわれている)の推測。パガン王国繁栄時の民族構成、信仰の具体的な姿(ビルマ人の「地獄観」の詳細な説明には、驚きと共に、細かく読む気は失せてしまった)等から始まり、行政機構、司法、相続などの民事関係、農業インフラ整備、奴隷や土地売買等の経済、そして王族から一般庶民に至るまでの社会風俗等々。これらが、碑文などの解析を通じて説明されることになるが、そのあたりは著者の面目躍如といったところである。そしてその栄華は、13世紀末、まずモン族による軍事的実権の剥奪と、その後の元の侵攻により1287年のパガン落城と王国の滅亡に至ることになるが、この歴史は、以前に読んだ著作でも描かれているとおりである。そしてこの地域はシャン族(タイ系の民族という)による異民族支配が、約250年に渡り続くことになる。一方、パガンから南に落ち延びたビルマ族は、14世紀以降タウングーを基盤とする王国を作り、ここを基点に15世紀まで、ヤンゴンの北90キロのペグーを巡り、モン族との抗争を繰り広げる。そして15世紀中旬になると、この地域に西洋人が訪れるようになる。特にポルトガル人は、タウングー朝の傭兵として、この王朝のアユタヤ攻略にも貢献したという。ただこの王国も内外共に不安定で、モン族やシャムとの抗争(1767年のアユタヤ陥落は、その破壊された町が「世界遺産」に指定されたことで長く記憶に残されることになる)が続き、19世紀以降の英領インドとの戦争や、この国を巡る英仏の勢力争い(フランス勢力一掃を要求する最後通牒を送った時の英国のインド事務省はチャーチルであった)を経て、英国による植民化(1886年)へと進んでいくことになる。

 最後に、第二次大戦後のこの国の独立(1948年、ウー・ヌ初代首相)から軍事クーデター(1962年、ネーウィン議長)、そして1988年以降の民主化を求める運動へという、この時点での最新の歴史を簡単に説明している。これも、他の著作で読んだ近代史の復習であるが、面白いのは、著者とアウンサンスーチとの個人的関係を語っている部分である。1973年、著者はアウンサンの伝記の邦訳を未亡人に届けるためイニャー湖のほとりにある自宅を訪問するが、その際、当時28歳であった娘とその英国人の夫(チベット仏教の仏画研究者)を紹介された。その5年後、英国で再会。当時彼女はオクスフォードの図書館でビルマ語資料を整理するアルバイトをしていたという。そしてその後何年かして、京大東南アジア研究センターの客員研究員として来日していた彼女と会い、ビルマ文学史の講義をやってもらったという。その講義で、当時は一介の主婦であった彼女の芯の強さを感じさせられたという逸話が語られている。1989年7月の自宅軟禁、1991年10月のノーベル平和賞受賞、そして1995年7月の軟禁解除から現在に至るまでの彼女の動きはよく知られているが、著者は以降は接触はないようである。

 ミャンマーという国の困難は、多くの関係者が指摘するように、シャン、カレン、カヤー、カチンといった多民族をビルマ人政府の下でまとめていかなければならないところにある。連邦制は、暗殺されたアウンサンが主導した形態であったが、それは軍事政権の基で骨抜きにされ、分離独立を求める少数民族の運動が激化、それを政府が弾圧し、対立が深まるという悪循環に陥ってきたことは誰もが感じている。2002年の段階での、アウンサンスーチの下でのこうした問題の展望については著者は全く触れていないし、また当然ながらその後新たに発生したロヒンギャ問題にも一切言及はない。その意味で、本書は、やはり中世のパガン王国の姿を知るための参考書である。それがあまりに細部にこだわり、一部は読み飛ばしてしまうことになったが、それでもかつてのこの国を訪問した記憶を鮮明に呼び起こしてくれた作品であったことは間違いない。

読了:2020年12月24日