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アンコール・王たちの物語
著者:石澤 良昭 
 昨年末に、ミャンマーはパガンを中心としたアジアの遺跡を碑文から読み解く著作に接したが、これはそれと同じシリーズで、カンボジア・アンコール遺跡を同様の手法で読み解く作品である。著者は、上智大学の考古学者で、アンコール・ワットの発掘・研究に打ち込んできた。この著者のアンコールに関する著作としては、昨年の2月に「興亡の世界史」シリーズの一冊である「東南アジア 多文明社会の発見」と題された、やはりアンコールを中心とした、この地域での文明史を読んだ。今回のこの作品は、これに先立つ2005年に出版されていることから、言わばこの著作の種本となったものであると考えられる。昨年2月の作品(以降「興亡」と略称)でも結構マニアックと感じたものであったが、こちらは、ミャンマーに関する著作と同様、あるいはそれ以上に細かく、改めて日本人考古学者の徹底した学究意欲に感心させられる。しかし、同様に素人のアジア観察者にとっては、やや細かすぎる。その意味では、昨年2月に読んだ「興亡」を思い出しながら、大きな枠組みだけを再確認すれば十分かと思われる。

 昨年2月の評にも書いたが、今まで、私が2回訪れたことがあるこの遺跡で、まず感じるのは、何故この巨大な遺跡群が11世紀にこの地に生まれたのか、そしてそれが何故打ち捨てられ、永きに渡り森林の中に埋もれていたのかという2つの疑問である。

 双方について、著者は、碑文から読み明かされる古代からの数々の王についての記録(「伝説」?)につき、「興亡」以上に詳細に検証しているが、最初の疑問への回答としては次の3つの要素を挙げている。@大扇状地(メコン川デルタ地帯)という地理的条件、A宇宙観を説明する丘や川(シェムリアップ川)等、B陸路、水路双方の交通の便。こうした地に一世紀初め頃からクメール人による「扶南国」と呼ばれる国が建国されるが、3−4世紀頃には「チャンパー」と呼ばれる国が、中国とインドを結ぶ交易で勢力を拡大(ベトナム中部のミーソン遺跡を建立したことで有名である)、この二つの勢力がこの地を巡り断続的な抗争を繰り広げることになる。しかし9世紀以降、クメール人勢力が優勢となり、12世紀にチャンバー勢力を駆逐(またクメール人土着勢力内の内紛も終息)し、シェムリアップ川が、都南アジア最大の湖トンレサープ湖に注ぎ、農業経済に必要な水利に適したこの地(その基礎は、乾季にも農業用水を確保できるバライ(人口の貯水池)の建設であった)が、聖山・聖河・聖都として、約600年に渡り王都として栄え、その強力な権力が、数々の巨大寺院を建設されることになったということである。

 こうした水利技術に支えられた農業基盤と、その上に建設される巨大寺院という都市建設のコンセプトは、昨年1月に訪れたスリランカでも、既に紀元前後にも使われていたということであるので、既に人類の知恵として知られており、その技術がインド等との交易により東南アジアに伝えられたということなのであろう。

 二つ目の疑問である、約600年続いたこのアンコール王朝滅亡は、14世紀半ば以降の40年に渡るアユタヤ王朝との抗争が主因であった。「興亡」で紹介されている、あるフランス人学者によるより詳細な説は、「過度の推理灌漑施設の開発が、農業経済を破綻に追い込んだ」ことで、「王権の弱体化、過酷な徴税、ヒンドゥ教的思想の停滞と行き詰まり、上座仏教の浸透」が発生した、ということであるが、最終的には、1431年頃、アユタヤ軍により攻撃され、7か月に及んだ包囲作戦の後に徹底的に打ち壊され、そしてこの都城は放棄されることになった。そして、「フランシスコ・ザビエルが鹿児島に来てキリスト教を伝えた同じ頃(1549年)、ポルトガル人やスペイン人の宣教師たちが旧都アンコールを訪れ」「その素晴らしさに胸を打たれていた」が、彼らは、近隣の住民に、これは誰が造ったのか、と聞いて回ったが、それに答えられる住民はいなかったという。既に崩壊から100年程で、「村人や僧侶たちは栄光の歴史を忘却していたのであった」。そして、この王朝が蓄積した膨大な財宝の一部(青銅製の神像)が現在のミャンマーのマンダレーで発見されたというが、それは、アンコール朝を滅ぼしたアユタヤが、次にミャンマーのタウングー朝の軍に攻撃され略奪された結果であったという。まさに東南アジアの歴史は「マンダラ国家の成長と衰退の繰り返し」であるという、以前にも学んだ歴史を象徴する出来事である。

 そうした私の大きな疑問以外にも、著者は、碑文や壁画を丹念に読み解きながら、アンコール・ワットが建立されたこの王国の最盛期の様子を、王たちの肖像(特に11世紀初めにこの地に「再遷都」したスールヤヴァルマン一世と、12世紀にアンコール・ワットを建立したスールヤヴァルマン二世等)、バライと水路網も建設拡大、私も2回訪れたこの地の数々の遺跡の詳細な来歴と意味合い(宇宙観。特にバイヨン遺跡の説明が詳細である)、寡頭政治的な当時の政治形態、当時の経済活動や庶民の生活、あるいは12世紀末のチャンパーとの大戦争等々。碑文や壁画のみならず、1296年にカンボジアを訪れ、「真隴風土記」なる旅行記を残した、中国人、周達観の叙述も、それらを検証する資料として利用されている。またこの地における仏教とヒンドゥ思想の影響に関する分析では、起源1−2世紀に略同時にこの地域に入ってきた二つの宗教が、ここでは土着の精霊信仰とも結合し、共存していたという「興亡」でも繰り返されている説明が興味深い同様に、著者が主導した発掘隊が、2001年に偶然ある遺跡の境内で埋められていた274体の廃仏を発見したが、それが物語るのは、13世紀頃と想定されるが、それまで共存してきた仏教とヒンドゥ思想の間で緊張が高まり廃仏が行われたのではないかという解釈も、この著作で最初に述べられ、「興亡」でも繰り返されていることが分かる。両宗教の共存という観点では、私が昨年1月に訪れたスリランカの山中にある仏教寺院(ダンプッラ石窟寺院)で、ヒンドゥの神であるヴィシュヌ神が守護として洞窟の入り口に飾られたいたことを想い出していた。その時は奇異に感じ、ガイドにもその理由を質問したが満足な回答は得られなかった。しかし、両宗教の共存というのはこの地ではごく自然の現象であったことが改めて理解できる。しかし他方で、廃仏が示しているのは、現代の宗教紛争と同様、ある種のバランスが崩れると宗教間の軋轢は簡単に高まり破壊活動にまで至るということである。因みにアンコール・ワットはヒンドゥ寺院として建立されたが、12世紀末には当時の国王が大乗仏教を「国教」として定めたという。王位継承を巡る権力抗争も絡んだそれへの反動が、13世紀の廃仏であったというのが著者の見方である(バイヨン寺院は、もともと仏教寺院として建立されたが、13世紀に相違した王によりヒンドゥ寺院に改宗された)。そしてそうした宗教対立から間もなく、この王朝がアユタヤに滅ぼされ、アンコール遺跡が放棄されたというのも歴史の運命だったような気がする。

 「興亡」では触れられていなかった記載が二つある。一つは、アンコール再建のための諸外国の活動の歴史、もう一つは、アンドレ・マルローの盗掘・逮捕事件と、その経験から書かれた彼の小説「王道」の背景についてのコメントである。前者は、特に近代に至りこの地域を植民地化したフランスとその「極東学院」という機関による遺跡再建活動が中心である。第二次大戦や、戦後の混乱期も1970年に撤退するまで活動を続けたという。そしてマルローの冒険小説には、このフタンス極東学院の実在の関係者が多く登場しているという。その後も続く、著者が率いた上智大学による活動についても紹介されていることは言うまでもない。

 こうして改めて年末に読んだパガン遺跡本と、今回のアンコール遺跡本を読んでみると、東南アジア地域の歴史像を改めて確認することができる。コロナ禍の現状では、こうした地域を再訪することは当面難しいが、自分自身の旅行記を再読しながら、これらの地域に深く関与してきた日本人碩学の活動に改めて思いを馳せることにしたい。

読了:2021年1月2日