アジア・ドイツ読書日誌と
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アジア読書日記
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ビルマ・ハイウエイ
著者:タンミンウー 
 1966年生まれで、ハーバード大学卒業後、ケンブリッジ大学で博士(歴史)号を取得したビルマ人による、2011年出版のたいへん刺激的な、ビルマと中国・インドを巡る歴史的、地政学的分析である。祖父は元国連事務総長のウ・タントであり、著者自身も国連での勤務を経て、現在は母国で歴史的建造物の保存に取り組む傍ら、国の各種諮問委員会でも活躍しているという。その意味では、彼は現代ビルマを代表する国際経験豊かな良識派知識人と思われ、その分析も明晰、主張も非常に分かり易い。こうした人間が、この国でどのように受け入れられているかというのは、大きな関心事である。尚、本文中、著者は、国名はビルマ、首都ヤンゴンはラングーンと、軍政による名称変更前の呼び名に固執している。この辺りも著者の自国の歴史へのこだわりを示唆するものなのであろう。以下この評でもそうした呼称を使うことにする。

 本書の最大の目的は、東南アジアで、最も経済成長から取り残された国の一つであるビルマが、中国とインドという二大文明の結節点として果たしてきた歴史を再考しつつ、改めてその現代的な意味を探ることにある。そのため、著者は、理論的な分析のみならず、ビルマ北部の中国やインド国境近くに自ら足を運び、実際の街や人々の様子を観察している。そして、更にその旅は、中国側及びインド側、夫々のビルマ国境付近にも及ぶことになる。それらは、言うまでもなく、夫々の国の「辺境」であり、一般的な国際情報も少ない地域であるのに加え、多くの少数民族が住み、また依然武装勢力が跳梁する治安面でも決して安全な場所ではない。こうした地域を旅しながら、夫々の地域の歴史も紹介する本書は、知的面のみならず、旅行エンターテイメント的な面白さも有している。

 私がこの国を観光旅行で初めて訪れたのは、2012年1月末、まさに丁度9年前のこの時期である。その後、2014年、ラングーンに仕事で2回訪れる機会があったが、その仕事もある事情で途切れてしまったことから、その後この国を再訪する機会はないまま、今回の帰国になってしまった。しかし、私のその観光旅行は、まさにこの作品が出版されたタイミングであり、そこで描かれている著者の旅行記は、恐らく、それから遡る数年以内のことであったと思われるので、少なくとも、私が訪れた首都ラングーンなどは、著者自身が目撃したのと同じ時期であったと思われる。因みに、この時、私が旅行記の冒頭にまとめた当時のこの国の政治・経済情勢は以下の通りである。

(2012年1月、ミャンマー紀行ー別掲―より)

 「ミャンマーは、アセアン10カ国の中では、最も多くの政治的・経済的問題を抱えた国であった。1948年の英連邦からの独立後も政治党派の対立に、民族・宗教の対立が複雑に交錯し政治が混乱する。それを強権的に抑える軍事政権が成立、時折民主化運動が発生するが、それがまた強権により抑えられるという歴史を繰り返してきた。特に1988年の民主化運動と、それに続く1990年の選挙でアウンサンスーチー女史率いる国民民主同盟(NDL)が圧勝した際は、軍政側は民政移行を拒否し、スーチー女史を自宅軟禁すると共に、多くの政治犯を逮捕し、それに対し米国やEUが経済制裁を課したことから、経済面でも厳しい状況に置かれてきた。2007年9月の暴動の際に、日本人ジャーナリストが狙撃され死亡したのも、まだ新しい記憶である。

 しかし、ここに来て、ようやく民主化の道がしっかりと進むのではないかという希望が大きくなっている。特に2010年11月の総選挙を経てテイン・セインが大統領に就任すると、スーチー女史の自宅軟禁を解き、また2011年後半になると、それまで中国一辺倒であった外交や経済支援要請も大きく転換し、欧米向けに舵を切ることになった。ここ数カ月は、米国クリントン国務長官やフランスのジュペ外相らの訪問、1988年の民主化運動指導者を含む政治犯約1000人の釈放、来る4月1日の補欠選挙でのスーチー女史の立候補承認、そして長らく内戦状態が続いていた少数民族カレン族の政治組織カレン民族同盟(KNU)との停戦合意等、この国の民主化を物語る記事がメディアに連日溢れている。経済面でも、中国からの経済支援の象徴であったイラワジ川のダム建設計画が、環境問題を理由に突然工事延期となり、中国を激怒させると共に、他方では欧米のみならず、日本の経団連を始めとする西側経済関係者にアピールを行う等、その姿勢は大きな変化を見せている。昨年末には、ここシンガポールの商工会議所までもが、この国の視察ミッションを組んでいたようである。」

 言うまでもなく、テイン・セインは、その後、漸進的に民主化を進め、2015年の選挙での国民民主同盟(NDL)の大勝を受け、2016年3月、事実上アウンサンスーチーが率いる(形式上は、彼女の側近のテイン・チョーが大統領、彼女は国家顧問、外務大臣、大統領府大臣を兼任)政権が成立し現在に至っている。欧米社会の協力も再開し、日本もダウェイの工業団地開発や、証券取引所設立・運営等で協力を進めている。しかし、2016年以降、バングラデシュ国境地域のモスレム教徒であるロヒンギャに対する国軍や仏教徒による弾圧・虐殺が問題となり、アウンサンスーチーに対する国際的な批判が高まり、この収拾に苦労する状態が続いている。

 そうした前提で、この著作に入っていこう。まずは、ビルマの歴史の復習であるが、ここでは、英国統治時代での英国関係者とこの国との関係についての幾つか興味深い事実が紹介されているので、それを列記しておこう。

 著者は、ビルマ国内旅行で、ヤンゴンからまずマンダレーに入るが、この街に所縁のある人間として、ジョージ・オーウェルが紹介されている。1920年代初め、イートン校を出たての彼は、英国帝国警察の犯罪集団の情報収集の任務でマンダレーに滞在。「ほこりっぽく、耐え難いほど熱い。主な産物が五つあり、どれもPで始まる(彼の「ビルマの日々」という著作があるそうだ)。(pagoda/pariahs/pigs/priests/prostitutes)」ということで、彼は余りこの地は気に入らなかったようである。また同時代のマンダレー住民であったロビンソン大尉はオーウェルの友人であったが、アヘン中毒で、短銃自殺未遂を経て、晩年は本国で理学療法士として過ごしたという。またこの街は、1942年、日本軍による空襲で廃墟になったが、3年後、日本軍を放逐し戻ってきた英国軍のアフリカ人部隊には、ウガンダのアミンや、バラク・オバマの祖父が参加していたという。

 その近郊にあるメイミョー。英国陸軍のモーズヘッド大佐殺害事件があり、それは迷宮入りしたという。モーズヘッドは、J.アーチャーの「遥かなる未踏峰」に登場するが、小説上は妻の秘密の「パキスタンの愛人」に殺されたことになっているという。エベレスト初登頂を目指すイギリス人を描いたこの小説は、私も昔読んだが、機会があればこの人物の件を復習しておきたい。また20数年後、アメリカ大統領となるフーバーは、国際探鉱会社の有望な社員として若い家族と共にこの街に住み、中国国境近くで見つかった銀鉱山で儲けるために自分の会社を設立し、実際稼いだという。

 より中国故郷に近いシャン州シーボー。タイ人のコミュニティで、シャンは「シャム」のビルマ語であるが、藩主やその親族には英国留学生が多く、英国への親近感が強いという。戦後、国民党一派が、共産軍との戦闘に敗れ、この地に逃れ、米国CIAの支援を得ながら中国共産党のみならず、ビルマ中央政権とも対立、麻薬取引等を原資として抵抗し、それがタイの国境沿いを含めた悪名高い「黄金の三角形」の形成を促したという。

 さて、これから本論である。ビルマ北部は地理的にも歴史的にも中国雲南省やチベット、そしてインド東北のアッサム等との関係が深い反面、これらの地域では言語や宗教面でも異なる多くの少数民族が群雄割拠を繰り返し、中国やインドを支配する帝国にとっても統治の難しい辺境地域であった。しかし、中国にとっては、陸路でインド洋に抜けることができる回廊としての重要性は大きい。特に現代中国では、経済成長を進める上で必須な石油が、現状ではマラッカ海峡を経由して輸入されているが、「いちばん狭いところでは幅が2.7キロしかない」この海峡を封鎖されると、この供給が止まるという「マラッカ・ディレンマ」の悪夢から逃れるという期待が高まることになる。こうした思惑から、中国は、ビルマの軍事政権が欧米からの経済制裁を受けている隙をついて、ビルマへの経済支援と、それによる政治的影響力を強めてきた。そして著者も、訪れたマンダレーなどの北部の街での中国の存在感の高まりを報告している。しかし、同時に歴史的には、中国との関係も複雑で、マンダレーでも、何か緊張が高まると中国人排斥の動きも現れるという。実際、最近の民主化以降、ビルマでは欧米やインドを使い中国を牽制するという姿勢は強まっているが、これはビルマのみならず、中国とインドの間に位置する東南アジア諸国に共通する戦略である。

 「ビルマ公路」の戦略的重要性は、言うまでもなく第二次大戦中に高まり、連合軍の蒋介石支援(蒋援ルート)と日本軍によるそれを断絶するための攻撃、ひいては大敗北を喫したインパール作戦等で示される。また戦後は、やはり米国の国民党支援ルートとして使われるが、中国での共産党政権の安定化以降、そうした国民党の残党がこの地域に軍閥として残り、その中には麻薬等による経済力で地域支配を強めたというのも、歴史の汚点である。この辺りの歴史は、著者のマンダレーやメイミョー紀行と併せて語られるが、私の9年前の旅行では、マンダレーに飛行機のトランジットで数10分滞在しただけだったのが残念であった。著者は、更に中国国境に近いラーショーから国境の街ムセーに至るが、国境を超える許可を取っていなかったということで、いったんラングーンに戻り、そこから北京に飛び、そしてビルマと国境を接する雲南省に向かうことになる。

 著者の中国紀行が始まる。もちろんこの時期、既に中国の経済成長は進んでいたが、著者によると中国での東部沿海部と内陸農村部の成長格差を埋める方策として共産党政権が考えたのが1999年に始まった「西部大開発計画」で、これは、ビルマを通じたインド洋へのルートを確保するという、中国を「二つの海岸を持つ」国家にする戦略であった。この戦略によるビルマ国境地域の実情を見ることが、著者の旅の主目的となる。

 その旅は昆明から始まるが、ここは私自身もシンガポールから訪れることを考えていた(東京からよりも、シンガポールからの方が近い)が果たせなかった街である。13世紀、「モンゴルによる征服の波に乗って」この地域にやってきたマルコ・ポーロや、モンゴル放逐後、明王朝がこの街を雲南支配の拠点として建設した話等が紹介されている。

 昆明からビルマ国境に向かうと大理に至る。この街で著者は、「ぼさぼさの長髪」で「ほかではあまり見かけないタイプ」の「冒険好きで好奇心旺盛」な日本人二人を見かけたという。中世この街を支配した王族は敬虔な仏教徒で、この街を「ガンダーラ」と呼んだそうである。そしてビルマ国境の街、麗江。ここは著者によると「シャングリラ」ということであるが、これはマルコ・ポーロがこの地方のフリーセックスの慣習を伝えたからである。地元の観光関係の役人もそれを利用しているというのには笑ってしまう。著者の雲南の旅はそこで終わることになるが、これに関連して2008年(著者の旅行の一年前、と書かれているので、著者のこの地域への旅行は2009年だったようである)のチベットはラサでの暴動とそれ以前も含めた中国によるチベット支配の歴史等も紹介されている。

 そして最後はインドのビルマ国境に近い、東北部への旅である。まずは、1962年の中印国境紛争の歴史的経緯が説明されるが、それは「過去半世紀に起きた多くの紛争と同様、植民地時代に画定された当時のイギリス領インドと清との国境線に端を発している。」そこでは、イギリスが、インドのアッサムを、紅茶の栽培地として有用だと分かり併合した後、その先のチベットについてはあまり関心がなく、ダライ・ラマ時代に結んだ国境をイギリス領インドとの国境とした(中国政府は抗議したが無視された)という。それが中国のチベット侵攻以降、インドとの国境紛争の原因になったが、その後、中国は文化大革命からインドシナでの戦争支援等で、インドはパキスタンとの戦争等で、この地域についての関心が薄くなったことから長く膠着状態が続き、そして21世紀に入ってからは両国の外交関係が進むことになる。ただ中国のチベット侵攻を含め、この地域でも、インドよりも中国の影響力が強くなっているのは確かであるし、昨年には、再び国境で両国の小規模な戦闘も発生している。

 著者のインドの旅はデリーから始まるが、旧英国植民地として、両国の類似性も多く、著者も個人的には中国よりもインドに親しみを感じるという(それが、著者のようなインテリだけではない、ビルマ人一般の感覚かは、慎重に見るべきであろうが・・)。そしてビルマを含めた、インド文化の東南アジアへの歴史的な影響を回顧した後、再びこの地域でも中国の影響力が強くなっていることを指摘した上で、共産党が州政府を握るカルカッタ(個人的にも、著者の先祖との関係が深い街であるという。またアウンサンスーチーも、母親がインド大使であったことからインドで教育を受けたという)を経由して、インド北東部、アッサム州の首都ガウハティへと飛ぶことになる。

 このインド北東部は、1947年に東パキスタン(その後のバングラデッシュ)が分離独立すると、「ところによっては幅が30キロもないほどの細長い回廊(「ニワトリの首」)」により、海への自然な通路や主要貿易都市との関係を切り裂かれてしまう。途中では武装集団によるテロも頻発していることから、著者も空路でこの街に入ることになる。

 この地域は、インド・ムガール帝国とビルマの間で争奪を繰り返してきたが、19世紀に英国がこの地からビルマ勢力を放逐、そのままビルマを植民地化したことで、英国のインド植民地の一部となる。しかし、前述のとおり、ここが紅茶の産地として認識されるまでは、英国の関心は弱かったという。そしてこの紅茶農園には近隣の貧困地域から労働力が集められたが、著者はこれを「強制移住事業としては史上最大規模のものであった」としている。またこれとは別に、バングラデシュからの(不法)移民も多く、彼らが「新しい支持基盤を求める政党により選挙人名簿に登録されたので、民主的に選ばれた体制への住民からの信用がなくなってしまう」という事態も起こったという(今回のアメリカ大統領選挙でのトランプの主張を連想させる)。しかし、著者は、ここでも関係者との議論を通じ、中国西部との結節点としてのビルマに対する強い関心を感じたようである。そして、それは次の訪問都市インパールで益々強まることになる。

 インパールはインド東端にあるマニプル州の州都であるが、外国人がここに入るには「制限地域入域許可」を取得しなければならないという。そして、それが示しているとおり、相変わらずテロ事件が頻発しているようである。アッサムの紅茶のような特産物もなく、イギリス植民地支配者の関心も弱かったようであるが、前述のとおり、日本との戦争で、中国への補給路として注目され、地域を巡る日本との争奪戦に入ることになる。戦後は、インド中央政府との対立もあり、それがいまだにテロ頻発の要因になっているようであるが、中国への補給路として注目された大戦中の認識は、現代でも新たな中国との結節点としての意味合いを持つことになる。そして街の大学に「ビルマ研究センター」が設置されるなど、ビルマへの関心も強いという。それは、著者によれば、マニプルのように「長らくインドと中国を隔てていたかつての辺境が消えかかり、その代わりに国と国とが出会う新しい交差点が生まれる」期待を抱かせるに十分であるということになる。

 こうして旅を終え再びラングーンに戻った著者は、改めてそこで、中国やインドが関わり進められている各種のインフラ・プロジェクト等を概観している。この作品が書かれた時点では、ビルマへの欧米の経済制裁は解除されておらず、ビルマでは引続き中国の影響が圧倒的に強くなっている。その中国の強まる影響力については、著者はやや不安げに眺めており、それに促されるビルマの経済成長が国民に還元されることがなく、国の安定化に寄与しない可能性に言及している。他方、欧米の経済制裁が解除され、「国際社会がビルマの貧困削減努力を支援し、中産階級が出現してより民主的な政府ができる」という楽観シナリオも提示している。この作品から10年を経た実態は、恐らくこの二つのシナリオの間を進んでいることは間違いない。中国の影響力は引続き強いが、欧米、インド、そして日本もこの国の発展にそれなりに貢献し、またそこからそれなりの自国の利益を引き出そうとしている。そしてビルマは、他の東南アジア諸国と同様、そうした「列強」同志を牽制させながらバランスを取ろうとしている。現在のビルマをどうみるか、著者の最近の見解を是非聞きたいと思わせると共に、著者の旅をまた私も追体験できることを切に願うのである。アジアにはまだまだ訪問しなければならない地が数多くある。コロナの制約はあるが、時間はまだ十分に残されている。

読了:2021年1月24日

(追記)

 2月1日、ミャンマー国軍は、事実上の政府トップのアウン・サン・スー・チー国家顧問や与党NDL幹部ら多数を拘束し、クーデターを実行した。国軍総司令官は、同日の声明で、スー・チーの与党が大勝した2020年11月の総選挙では、多くの不正が行われたことからこれを無効とし、別に「自由で公正な総選挙」を実施するとしているが、欧米等は一斉に国軍の動きを非難している。ただ、これから国連での議論も行われる予定であるが、当然中国等、内政不干渉を口実にこれを黙認する国もあると見られていることから、今後の帰趨は紆余曲折が予想される。

 こうした中、ミャンマーを代表する知性であるこの作品の著者、タンミンウーの動きは気になるところであるが、現在(2月3日午後現在)までのところ、彼のコメントや、あるいは彼が拘束されたという報道は伝わっていない。間違いなく現在ミャンマーで活動していると思われる彼に関する情報は、しばらく注意して見ていきたい。