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ホー・チ・ミン
著者:古田 元夫 
 ベトナム(この本では、カタカナ読みはこれに統一されているので、この本に関わる記述ではこちらを用いる)現代史に関わる著作で、今までもホー・チ・ミンに関しては、何度も触れてきた。例えば、1997年出版の新書「物語 ヴェトナムの歴史(小倉貞夫著)」では以下の様に彼の生涯がまとめられている。

(以下、同書評―別掲―よりの引用)

 彼は1911年にヴェトナムを出てから、1941年に帰国するまで30年間海外で、主としてコミンテルンの連絡員として働いていた。幾多の危機を生き延び、「独立運動を展開するにあたって重要な転機にかならず登場した」という。

 彼が1911年にヴェトナムを離れた時は、フランス船にコック見習いとして乗船しており、そもそも革命運動で追われて出国した訳ではなかった。むしろパリ滞在中に、植民地支配に反対するフランス共産党に共鳴し、その党員となってから革命家としての道を進み、コミンテルンなどの経験を経て、1930年に「ヴェトナム共産党」の結成に中心的役割を果たすことになる。そして1941年2月、欧州におけるフランスのナチへの降伏やインドシナへの日本の進出といった政治混乱の最中にホー・チ・ミンは帰国し、5月に「ヴェトナム独立同盟(ヴェトミン)」を結成。北部の洞窟を本拠に、反仏・反日のゲリラ闘争を指導することになる。1942年、中国に潜入した際、蒋介石軍に拘束され、いったん死亡説も流れたが、それも生き延び、1945年、日本軍が、これも断末魔の武力行使を行い、フランス総督府を無力化した機会に武装蜂起を決行する。そして日本の敗戦の報が届くや否や、これを絶好の好機として傀儡政権主催の集会を乗っ取り、権力を奪取。1945年9月2日、自ら執筆した独立宣言を読み上げることになるのである。しかし、フランスの復帰と共に、ヴェトナムはまずはフランスと、そして続けて米国との「30年戦争」に突入していく。彼は、1975年のサイゴン陥落を待たず、1969年9月2日、24回目の独立記念日に死去する。

(以上、引用)

 このようにまとめられているホー・チ・ミンの生涯と彼のベトナム現代史における役割に焦点を当てて記載されているのが、「現代アジアの肖像」シリーズの本書である。ここでは、上記の概要に触れられている節目節目での彼の指導についての若干立ち入った解釈を中心に、戦後ベトナム史における彼の評価を再検討しておくことにする。因みに、本書の出版は、1996年2月なので、上記の新書よりは1年ほど前の出版になる。

 本書は、1991年6月に開催されたベトナム共産党第7回大会で、従来のマルクス主義に加えて「ホー・チ・ミン思想」を党規約に明記したことが、実は重要な転換であった、という点から議論を始めている。社会主義国におけるこうした個人崇拝的な表明は、今まで何度も表明され(現在の中国での「習近平」思想の強調は、その最も新しい表明である)、また後年それが否定されるといった歴史を繰り返しているが、ここでも、ソ連社会主義の崩壊という危機の中で、国を「変身させる」武器として、「傷のついていない指導者」としてのホー・チ・ミンを前面に出した点に、単なる個人崇拝とは異なる意味付けがあったとされる。

 実際、ホー・チ・ミンについては、自身によるまとまった著作がないことや、フランスや米国との戦争でも、それほど彼がメディア等で前面に出てくることはなかった。それ故に、私も個人的には、正直なところ、ベトナム戦争反対運動の中で、あれほどまで称揚された彼の存在について、それほど強い印象を持つことがなかった。その意味で、ここでの説明により、ようやく彼の指導力について、ある程度の理解を得ることになったのである。

 そこでの「ホー・チ・ミン思想」の強調は、著者によると、「共産党がマルクス・レーニン主義といっているかぎりは、ベトナムの文化的伝統と共産党のイデオロギーに直接の接点が生まれようもないが、『ホー・チ・ミン思想』といえば、その源泉としての儒教、仏教、道教、及びベトナムの民族文化の価値を共産党が認めることが可能となり、公然とベトナムの文化的伝統を積極的に評価する道が開かれ」、そして「思想的な選択肢を広げる」ことを可能とする意味合いがあった、とされる。実際、ホーは、上記のとおり30年近く故国を離れ、またベトナムにいた時期でも、コミンテルンや中国共産党を訪問し、その関係に注力したとは言え、革命や国家統一のために、スターリンや毛沢東がとったような、強権的なテロや文化大革命のような方法で、既往文化・伝統の破壊を試みることがなかった。その意味で、彼の存在は、「ホーおじさん」という呼称に現れている通り、現在も多くの民衆から敬愛の念をもって受け止められており、またホー死去後も、引き継いだ後継者たちは、彼の「権威」をうまく使うことを続けてきた。その辺りが、1991年の党大会での「ホー・チ・ミン思想」の党規約への挿入に繋がっている、というのが著者の見方である。

 それでは、長く故国を離れていた彼へのそうした国民からの敬愛・尊敬はどのように醸成されたのだろうか?それはまず、彼の出自(科挙官僚の息子)から、その父親の影響を受けた漢学という基礎的教養と彼に連れられて回った国内の旅、そして最後に「フランスを含めた西欧近代への志向性の養成」から始まり、それが1911年以降のフランス、イギリス、アメリカ滞在時に、国際主義に色付けされたナショナリズム(「植民地支配下のベトナムに対する関心や共感を、国際的に獲得することが可能であるという信念」)として彼の中で醸成されていったことから始まる。そして1920年以降、レーニン主義と出会いマルクス主義者としての立場を明確にした後も、基本的には「民族独立を明確にする」「『愛国主義』=ナショナリズムの立場」を維持し、1930年代の活動時期を通じて、この立場をコミンテルンとの関係においても捨てることはなかったという。また1925年のベトナム共産党設立以降、度々党内での対立(民族独立か、地主の土地収用を核とする急進的な社会主義革命か)を、このコミンテルンをうまく使うことにより乗り越えていくことになる。そうした対応が、最終的に彼が1941年に帰国した後にも、彼が自国の共産党の中で指導権を回復させる要因になったとされる。更に、それまでのフランス当局による弾圧で、国内に残った有力な指導者のほとんどが、逮捕・処刑されていたことも、彼への期待を高めることになったという点も挙げられている。

 彼の「共産主義」色を抑えた「反帝国主義」、「民族独立」といった主張が、その後、1942年の中国訪問時の国民党地方政権による拘束と約1年に渡るそこでの獄中生活にもかかわらず、最終的には解放された際、中国国民党のみならず、ある時は米軍の支援も受ける要因になったという。そして1945年、日本軍が起こしたフランス植民地政権打倒のクーデタ(仏印処理)による「フランス植民地政権の弾圧機構解体」で生まれた空白で体制を整え、そして8月の日本軍敗北を受け、「連合軍が上陸してくる前に全国的な隆起を組織して政権を奪取し、『国の主人公』として連合軍を迎える(8月革命)」ことを可能にしたのである。こうした「時期をとらえる」ホーの能力が、ここではいかんなく発揮されることになる。

 更に、この独立直後、ベトナムに進攻した中国国民党や英印軍による「赤すぎる」という批判を回避するため、11月に「インドシナ共産党の自発的解散」という大胆な対応をとったという。これはもちろん「偽装解散」ではあったが、8月革命が、「民族独立革命」であるという印象を国際社会に与えることになる。この案は、共産党内でのホーの強力な指導力と信頼がなければできなかった秘策であると著者は記しているが、これは私自身今回初めて知った歴史的事実であった。

 しかし、1946年に、中国国民党軍が北部から撤退し、フランス軍が戻ってくると、外交交渉でフランスに独立を認めさせる計画は失敗、1947年以降フランスに対する独立戦争が本格化することになる。ホーは、フランス人民へのアピールや独立を求めて戦う東南アジア近隣諸国及びインドとの連携を模索する。また国内的には「識字運動―ベトナム語のローマ字表記・国語化(大衆言語、言語の土着化)といった独自政策を進めることになる。こうしたベトナム独自の路線を進めたことも、「レーニン主義」的色彩を弱め、民族に寄り添った政策として、国民の支持を集めることになったという。そして国際的にも、土地革命などは当面棚上げにし、また表向き共産党が解散宣言したことで、政府も「共産政権」ではない、「愛国者の政府」という印象を与えることになった。

 もしろん、その後、冷戦激化の中での米国の介入と、南北ベトナム内戦の激化の中で、北の政権の共産主義的性格は明らかになる(地下に潜っていた党が、「ベトナム労働党」として現れるのは、1951年。その後1954年には「土地革命」も実行するが、それは混乱を惹起したことから、1956年には修正される。しかし、また1957年以降は、その「穏歩前進」が修正され、生産関係の国有化、集団化等の急速な社会主義化が進められることになる)が、国民の中では、この時期の「民族主義的」な性格が共産党への支持基盤となる。また、1960年代の北ベトナムで定着した社会主義は、この時期の途上国の多くと同様、「貧しさを分ちあう社会主義」であり、米国との戦争もあり、「ホー・チ・ミンの独創性の発揮を制約することになった」が、他方では、その米国との戦争を勝ち抜く力になったとされる。ただ、「それは戦後の経済発展には大きな問題を残すことになる。」

 1960年には、ホーの後継者としてレ・ズアンがベトナム労働党の第一書記に就任。ホーは、重要な問題では最終的な決裁を行っていたようであるが、日常的な党務からは徐々に遠ざかり1969年の死を迎えることになる。この時期は、米国との戦争が激化すると共に、中ソ対立も鮮明になった時期であるが、後者に関しては、ベトナムは、どちらかに「決定的に加担することを回避し、双方から援助を獲得することに成功」する。そして、一応中国に近い立場から「修正主義」批判も公にし、それなりの党内闘争と失脚者も出ることになるが、中国と異なり、「最高指導部」での粛清といった事態は回避したという。また米国との戦争の激化で、近代兵器を有するソ連への接近も余儀なくされるが、著者は、このあたりはホーの強い指導力が発揮された分野であると見ている。彼は、国内的には「ベトナムの独立と統一のシンボル」となり、また米国を始めとする欧米諸国では、「広範な反戦運動のスローガン」となったが、これはホーの「敵をつくらない」能力と、内外を問わず、民衆にアピールする力の成果であった。

 ホーが逝去し、1975年、南北ベトナムの統一後は、「貧しさを分ちあう社会主義」が、「勝者の驕り」もあり、経済成長の阻害要因となったこと、またカンボジア侵攻により国際的に孤立する等、ベトナムは試練の時を迎え、それが1986年以降、レ・ズアンを引継いだチュオン・チンの指導によるドイモイへの政策転換になっていくことになる。その時期、「階級闘争史観」に加え、「愛国主義の伝統」も強調される中で、ホーの役割がより積極的に描かれたことで、彼の「伝説」が持続することになったとされる。またカンボジア問題での中国との緊張激化は、結果的にベトナムのASEAN接近を促すことになり、1991年のカンボジア問題の解決を受けて、1995年のベトナムのASEAN加盟に繋がっていったとされる。ドイモイとASEAN加盟は、現在に至るベトナムの国内・地域政策の基盤として継続していることは言うまでもない。

 こうしてホー・チ・ミンの詳細を見てくると、かつてのベトナム戦争の頃、同時期に学生であった私が抱いていた彼に対するイメージ(教条的な共産主義者)とは異なり、彼が「柔軟」で「賢い」指導者であったことが見えてくる。国内的には、「民族主義・愛国主義」により、国民の支持を確保すると共に、ソ連、中国といった社会主義の大国、あるいはベトナム戦争以降は、ASEANや、その後まさに戦争を戦ったフランスや米国に対する国際関係上の距離感も巧みに維持・利用してきたところに、ホーの大きな「政治的遺産」が見える。また国内で、大きな権力闘争とそれに伴う幹部粛清といったドラスティックな措置を回避したところも、その後のこの国の後継者に受け継がれているように思われる。

 私の10年超のシンガポール滞在時、結局ハノイを訪れる機会はなかったが、ホー・チ・ミン市や中部ダナンやミーソンを訪れた際の印象は、「とても社会主義国とは思えない、普通の東南アジアの国」という印象であり、また複数回訪れたホー・チ・ミン市では、日本のODAによる同国初の地下鉄工事も行われており、訪問する度に経済成長を実感させる変化を感じることができた。現在のベトナムが、ASEANに加え、米国や日本との緊密な関係を強めていることは言うまでもない。こうしたこの国の「柔軟」な内政・外交政策は、まさにホーの指導下で形成されたものであるといっても過言ではないであろう。その意味で、この著作を通じて、この指導者が「ホーおじさん」という愛称と共に、未だにこの国も民衆に親しまれている理由を、それなりに納得することができたのであった。

読了:2022年1月16日