ヴェトナム新時代ー「豊かさ」への模索
著者:坪井 善明
著者については、2011年に、1994年出版の「ヴェトナム 豊かさへの夜明け」という新書を読んでいる(別掲)が、これはそれに続く2008年8月の出版で、その後のこの国の変化を報告している。しかし、それも今となっては14年前のことで、まさに私がシンガポールに最初に赴任した直後、リーマン・ショックの足音が迫っていた時期の著作である。当然ながら、その後もこの国の変化は続いているが、同時に現在もそれほど変わっていない部分もある。実際、これを読みながら、それほど前の出版であることを余り意識しないで読める部分も多かった。著者は、1948年生まれで、1972年東大法学部を卒業している、まさにべ平連世代で、晩年の小田実(この著作の出版1年前の2007年7月逝去)とのハノイでの会話なども収録されている。
1975年に米国との戦争が終わった後も、その後遺症は残っているということで、2007年10月、米国による枯葉剤(ダイオキシン)の影響で結合双生児として生まれたヴェトちゃんとドクちゃんの内の兄であるヴェトちゃんが26歳で死去したことから本書が始まる。米国は、枯葉剤の被害については、ヴェトナムからの提訴については因果関係を認めていないにも関わらず、米国の帰還兵からの補償と救済要求については全米の化学・製薬会社への保障を認めるというダブル・スタンダードを示しているという。そしてこの枯葉剤被害は、隔世での発症も明らかになっている。またそれ以外にも、30万人にも及ぶという戦争被害者の身寄りのない老人たちがひっそりと暮らしている。他方、統一後の社会主義政権からボートピープル等の形で故国から逃れ、その後成功した人々は、しばらくはこの国でのビジネスに参加できなかったが、2007年以降、ヴェトナム人であることが証明でき、反体制活動を行わないこと誓約し審査を通れば、入国や、外国籍のままでも土地や建物を取得することが出来るようになった。欧米、日本、韓国、中国等からの支援は当然ながら、こうした越僑の協力を得られるかどうかが、この国の経済発展の鍵である、というのは、現在も変わっていないと思われる。
1975年の統一以降、1978年のカンボジア侵攻と翌年の中越戦争を受け、政治的には国際的孤立、経済的には、財政破綻とインフレの急進行により危機に立たされたこの国は、1986年の第6回党大会で「ドイモイ政策」を正式採用、1988年の外国投資法の制定や1991年のカンボジア和平による国際的孤立からの回復、そして1989年以降の冷戦終了、1995年の米越国交正常化とASEAN加盟により、本格的な経済成長が始まることになる。WTOにも、交渉開始から11年かかったが、2007年には加盟が実現する(「内国民待遇」の実施)。その結果ドイモイ以降の20年間で、一人当たりの平均所得が約3倍に増えることになるが、それでも「極貧から貧しい」レベルに変わった程度である。しかし、庶民の生活実感としては生活の改善は行われたというのが、この時点での著者の評価となっている。またフランス植民地時代に導入された表音文字のヴェトナム語がITの普及を容易にした、といった指摘も興味深い。
ただこの経済成長も、石油やコメ、コーヒーなどの一次産品の輸出と外国政府のODA支援や外国企業の直接投資等で輸出が伸びているだけで、「ヴェトナム自体が新たな産業を興して国際競争力のある商品を生産して、それで利益を上げているのではない。」特に「産業の基本財の鉄と石油(製品)を自産していない」ことが大きいということになる。
こうした政策を進めてきたヴェトナム共産党の「プラグマティック」な性格と、それにも関わらず「不満分子・反体制派の取締り」は相変わらず厳しい一党独裁は変わることがないこと、そしてそれがODA資金などを巡る汚職・腐敗事件を引き起こしていることが説明されている。その国家組織の詳細や、この時点での指導者の評価なども触れられているが、ここでは省略する。
そしてテーマは、ドイモイによる経済成長に伴うホーチミン市と農村部の格差拡大などの現在の問題に移る。面白いのは、ヴェトナムの場合、この格差が、経済的要因だけではなく、政治的・社会的要因によるという著者の分析である。それは統一過程での南北のしこりが残っており、社会的に出世するには共産党員になる必要があり、南の人間には狭き門となっているが、ドイモイの結果、特に南部では、党員にならずとも富を蓄積することが出来るようになったことが挙げられている。その結果、若い世代の中で党員を志願する人が極端に減少しているという。他方、農村部では、もともと零細農家が多いこともあり、WTO加盟による補助金の削減や安価な輸入農作物との競争に晒されることで、益々生活が厳しくなる。伝統的な焼き畑農法と移動を繰り返す少数民族は更に厳しい環境に追い込まれている。またこうした農村の余剰人口を吸収できる都市部の工場部門の発展も十分ではない。その結果、2001年以降、こうした農村部では、少数民族等による反政府デモが発生したり、カンボジアに逃亡したりする事態も起こっているという。グローバル化が、「平等に貧しい」社会を大きく揺すっているのは、この国も例外ではない。
著者は、「ホーチミン再考」と題して、この指導者について改めて自身の見方を示している。ここでは、先日読んだ古田元夫の「ホー・チ・ミン」本も批判的に言及されている(「党のマルクス・レーニン主義とホーチミン思想という路線に忠実に従っている」との評価)。著者は、あえてここで「共和主義者としてのホーチミン」という側面を強調しているが、私にとっては、古田が主張しているような、マルクス・レーニン主義を基本としながらも、「ヴェトナムの民族的な文化的伝統」を重視したのがホー・チ・ミンの基本姿勢であったという見方の方が納得しやすい。
日本との関係については、「チャイナ+1」として、あるいはASEANの成長市場としての意味合い、そして日本に対する親近感など、概ね一般的な見解で、特にここでは触れる必要はないだろう。ただ汚職問題は、引続き大きな課題で、2007年に起こった、日本のODA資金も投入されたカントー橋工事現場での崩落事故に、こうした汚職による手抜き工事が原因となっているのではないか、そしてそれはこうした建設工事での「日本的慣習」も一因となっているのではない、との指摘は、この国のみならず、日本の途上国支援一般の問題であると思われる。そして最後に著者は、この国の弱点として、通貨主権や産業構造、人材不足といった点に加え「共産党一党支配」を挙げている。これを、彼の言うところの「ホーチミンの共和主義」理念により徐々に変えていくことも、今後のこの国の課題であると指摘しているのであるが、これは恐らく当面は難しいだろう。
いずれにしろ、この国は、依然日本にとっても、また私個人にとっても、ASEAN諸国の中でも特に重要な地域であるところであることは疑いない。私自身は、南部と中部を観光で訪れただけの国であるが、少なくともそこが「共産主義国家」であるという雰囲気は全く感じることがなかった。この作品から14年経て、この国が大きく変わったとは思えないが、少なくとも私は訪れる度に、この国が変わっていることを実感していた。著者のようなべ平連世代のような思い入れはないが、やはり何らかの形でこの国の成長を支援する活動はしたいという想いを改めて抱くことになった。
余談になるが、この本を読み終えた当日(2月1日)夜、ワールドカップ・サッカーのアジア予選が行われていた。日本では、埼玉で行われた首位サウジアラビア戦で日本が2:0で快勝したが、同時に行われていた中国とヴェトナムの試合では、それまで全敗でグループ最下位のヴェトナムが3:1で中国に勝利した。相手が歴史的因縁の強い中国ということでヴェトナム・チームは、通常以上の力を発揮したのではないか、と感じたのである。
尚、国や人名の表示は、著者により「ベトナム」や「ヴェトナム」、「ホー・チ・ミン」や「ホーチミン」と異なっている。夫々個人的な思いがあると考えられるので、ここでは文脈により、夫々の著者の表現と使うことにしたが、早く統一的な表示を確立して欲しいものである。
読了:2022年2月1日