ドゥテルテ
著者:石山 永一郎
1957年生まれで、共同通信のマニラ支局長などを務めた後、現在もアジア関係のメディアに関わっているジャーナリストによる、ドゥテルテ時代のフィリピンに焦点を当てた新書で、2022年11月の出版である。2016年に就任し、2022年5月、ボンボン・マルコスに引き継ぐまで6年間大統領を務めたドゥテルテは、その一見横柄で感情的な言動から、国際社会では物議を醸すことが多かったが、国内では退任時でも高い支持率を示すなど、概して国民には歓迎された。著者は、そうした彼の一件粗野に見える言動にも関わらず、彼がこの国の問題に果敢に取組み、それなりの成果を残したとして、彼の大統領時代の功績をまとめると共に、フィリピンのそれまでの歴史と現状を分かり易く解説している。
まず彼の在任時の政策で国内での評価が高いのは、「麻薬撲滅政策と治安改善」、そして「貧困層救済」、「汚職に対する厳しい姿勢」、「行政手腕一般」であり、大統領の個性としては「決断力」、「信頼性」、「勤勉さ」が支持されたという。この中で、特に最大の政策的評価が高い「麻薬撲滅政策」については、捜査過程で公式発表だけでも過去6年間で6000人以上が殺されてきており、それが国際刑事裁判所(ICC)による「大量殺人容疑」での捜査を含め、欧米や日本で批判的に報道されてきた。しかし、ドゥテルテは、こうした人権保護の視点からの批判について、「何も知らない連中が口を出すな」と口汚く罵り、強権的な捜査・摘発を続けてきたが、結果的にこれがこの国の治安全般を改善することになり、彼の支持率上昇に寄与したとされる。
そうした政策を果敢に推し進めた彼の個人的資質としては、まずその粗野な外見にも関わらず、それなりの家庭の出身であったということが挙げられる。彼の父は、1959年から65年までダバオ州知事を務めたが、この国での州知事の権限は絶大で、ドゥテルテ家はそれなりの資産も築いたとされる。そうした州知事の息子であるドゥテルテであるが、10代の頃は相当な不良少年で、「あらゆる悪事に手を染め」、二つの名門私立高校から退学処分を受けたりしたという。しかしマニラの大学に通うようになってからは豹変し勉学に励み、司法試験合格後のダバオ検察庁の検察官を経て、1986年の「アキノ政変」で、社会運動家であった母親とコラソン・アキノ大統領の関係からダバオ市の副市長、そしてその2年後の1988年には43歳でダバオ市長に当選することになるのである。そしてこのダバオ市長の時代に、その後国政レベルで遂行される手段を択ばない「麻薬撲滅政策」や「汚職対策(その例としてタクシーのメーター使用とチップ廃止などが挙げられている)」が、彼が率先して指導・実行する形で行われたという。またその市長時代から自宅を含めて生活は質素で、汚職とは縁がなかったというのも特筆される。その意味では、彼は、地方での実績をそのまま国政に持ち込み、それをある意味成功裏に遂行した政治家と言えるのである。
彼の大統領時代であるが、まず彼の「勤勉さ」について、著者は2017年に出席した彼の深夜の記者会見の事例等を紹介している。開催時間等は気ままで、記者泣かせであったというが、会見自体は、時として彼特有の毒舌も多かったが、内容は本音トークに満ちた充実したものであったという。次に国内政策面では、風貌や言動からは右派と見られがちであるが、2018年から始めた国公立大学の授業無料化、あるいは2019年2月には長年に渡って課題であった国民皆保険を導入(但しコロナ禍もあり、全面実施は遅れているという)する等、貧困層を向いた左派的なものが多かったというのも、彼が「革新的」な政策を果敢に遂行したことを物語っている。またフィリピンで常態化してきた「雇い止め」の禁止や「産休延長」といった政策は、彼の「麻薬撲滅政策」を激しく批判してきた国内左派やリベラル層にも歓迎されたという。
彼が国際社会に最も物議を醸したのは、その外交政策であったことは言うまでもない。オバマを罵倒する等、米国への敵意を丸出しにし、中国寄りへの姿勢に転換することになったが、しかしこれは、この地域での中国の特に経済的な影響力を考慮した、ある意味「戦略的」なものであったと見る。ただその彼も2017年以降は、対米批判を抑えるようになったが、それは同年に発生したマラウィ市占拠に始まる左翼ゲリラとの戦闘で、情報部を始めとする米国の支援が必須となったという現実的な理由による。実際、著者は間接的な支援だけではなく、米国兵士がこの戦闘に加わっていたとも述べている。2020年には、彼の「麻薬撲滅政策」関係での元司法相逮捕を巡りフィリピン・米国間での要人の入国禁止合戦となり、その流れで訪問米軍地位協定を破棄するといった軋轢も発生したが、これも最後は妥協策で「破棄が凍結」されることになる。その一方で、「麻薬撲滅政策」による人権問題を批判する欧州には引続き辛辣な批判を繰り返したが、対日関係は、その援助成策への期待から良好な状態が続いているとのことである。この本では触れられていないが、フィリピン政府が、最近の日本での強盗・殺人事件に関わる容疑者たちの日本への移送を、マルコス新大統領の訪日前に実行すべく頑張ったあたりも、こうした良好な対日感情が示されていると言えるのだろう。こうしたドゥテルテの言動と政策を見てくると、彼が単に反米のナショナリストであったという指摘は誤りで、実際には内外の動きや評価を十分に考慮した政策を狡猾に進めてきたということが理解される。著者が度々繰り返しているとおり、ドゥテルテの言動や容貌とその政策の乖離は確かで、それが退任直前まで、国内で高い支持率を受けた理由であったという指摘は納得できる。
著者は、フィリピン経済の問題点についても整理しているが、これはマルコス父政権時代以降の輸出主導型経済への転換失敗と、国内の汚職や治安問題からの海外資本の進出の遅れに起因していることは明らかである。その結果、製造業の発展以前にサービス業への依存が進むことになる。しかし他方で、依然若年労働力は豊富で、今後人口ボーナスを享受できるという潜在力はある。これに加え、ドゥテルテによる汚職や治安問題の改善も利用して成長軌道に戻していけるかどうかが、この国の今後の課題であることは間違いない。
最後に、今回のボンボン・マルコス大統領誕生の内幕が語られるが、ここでの主人公は副大統領に就任したドゥテルテの長女で、ダバオ市長であったサラである。父親譲りの剛腕政治家で、父親の意向さえも無視することがあるというこの女性が、今後大統領となる可能性が高いとされる。取りあえず、ドゥテルテの政策を維持するということで始まっているマルコス政権であるが、既にドゥテルテよりも米国寄りの政策に舵を切っており、これが対中関係に及ぼす影響、あるいはドゥテルテが進めた「麻薬撲滅政策」等が今後どのように展開されるかは興味深いところである。ドゥテルテ時代の総括を踏まえながら、今後のこの国を見ていく上で多くの視点を与えてくれた新書であった。
読了:2023年3月9日